第三十三話 『お願いがあるのですが・・・』
炊き出しでの一件以来、冬を思わせるような晩秋の冷え込みさえ緩んで感じられるほど、町の空気が変わった。人々の間に常に漂っていた”明日への怯え”が消えたわけではない。それでも、人々の肩からは、ほんの少し重石が取れたようにエリアスの目には見えた。
ロイク達はあれ以来なりを潜め、脱穀作業や冬支度の作業中に見かけても、向こうの方から目を背けてどこかへ消えていく。
時々顔を出すようになったカミルのおかげで、アルフリーダの鍋の周りでは、孤児たちの明るい笑い声が響くことさえあった。カミルと一緒に水を運び、薪を拾い集めたりしている姿も見かける度、エリアスは胸の内でささやかな温もりを噛みしめた。
他にも嬉しい変化が見られた。町の人々がスープの具材を、代わる代わる持ち寄るようになったこと。干からびた根菜でも、形の崩れた芋でも、傷んでいるところを取ったら、ほとんど食べるところが残らない玉ねぎでも。アルフリーダは笑顔で受け取り、深々と頭を下げて感謝の言葉を述べた。
ティナたちが炊き出しに加わるようになったことも、頼もしい助っ人が出来たような気持ちにさせた。日によってはそれが、ジュディだったり、モニカだったり。時にはミレイユがアルフリーダの隣で鍋をかき混ぜていたり。
人々の心の内の、小さな温かみの一部分が溶けあい、ゆったりと円を描いて広場を中心にして町全体へと広がって行く。その流れを、エリアスは静かに実感していた。それなのに——エリアスには気がかりに思うことが一つだけあった。
例えば寝る前のひと時。エリアスが剣や防具、農機具などの手入れをしている時。縫物をしていたはずのアルフリーダが、いつの間にか手を止めて、ぼんやりと暖炉の炎を眺めていることがあった。
或いは、炊き出しの鍋をかき混ぜている時。子供たちの声に返事が遅れ、慌てて謝るアルフリーダの姿。以前は縫物をしている時も、炊き出しの時の子供達とのやり取りも、心の底から楽しんでいるような”柔らかい温度”が確かにあったはずなのに。
エリアスが問いかけると、彼女はいつも決まって目を丸くした後、コロコロと笑って答える。
「少し眠いだけです」「嫌ですわ。ぼんやりしていました」「ごめんなさいね。ちょっと人参の煮え具合に集中していたもので」
理由はどれも納得のいくものばかりだ。おや?と思い声をかけると、もういつものアルフリーダに戻っている。それでも、時折アルフリーダの表情にかかる”影”。ただの思い過ごしだ。気にし過ぎだと、エリアスは思いたかった。それでも、噛んでも噛んでも舌の上に残り続けるカブの筋のように、エリアスの心の中にアルフリーダの”影”が残り続けた。一時は減っていたアルフリーダの悪夢が、ぶり返しているのも理由の一つかもしれない。だが、それだけではない気がした。
何故、毎夜彼女はうなされるのか?何故、近頃あんな風に表情に影が差すのか?そして、何故自分に相談してくれないのか?話せない理由があるのか?それとも俺が踏み込んではいけない問題なのか?
いくつもの”何故”がエリアスの脳内でグルグルと巡り続けていた。そんなある朝——
ヴァルド家の朝食の席で、小さくも大事件が起こった。
いつものように薄暗い中、霜を踏みしだきながらの訓練を終えて、湯気の立つ粥を前にした時だった。また、アルフリーダの額にふっとした影が舞い降りた。
鍋の前で立ち尽くし、粥をよそう手が止まっている。冷たい”冬告げ風”を防ぐには、最早獣皮では足りず、頑丈な鎧戸を下ろした室内。灯りと言えば、暖炉の炎と、煙出しから辛うじて入ってくる弱々しい日の光のみ。その不十分な灯りが浮かび上がらせる横顔は、暖炉の炉床を突き抜け、どこか遠くを見つめているようだった。
エリアスは取り上げたスプーンをそっと置き、立ち尽くすアルフリーダに歩み寄った。
「どうかしたのですか?」
声をかけた瞬間、アルフリーダが肩を震わせて顔を上げた。まるで、深い皆底から急に引き上げられたように。
「いえ・・・」アルフリーダは首を振ると粥を木の椀に注ぎ入れた。
「今朝はカミルはいないのですね」
エリアスは「あ、あはは・・・」と乾いた笑い声を漏らした。どうにもバツが悪い。
ほんの数日前の夜のこと。そろそろ寝ようかと、暖炉の火を少し落としかけた時、バタン!と勢いよく扉が開き、酔っぱらったカミルがなだれ込むように入ってきた。何事かと思う間も有らばこそ、そのままズカズカと食糧庫へ突進していく。
「ワインはぁ~、どこだぁ~」完全に酔っぱらっている。寝室に行きかけたアルフリーダが驚き、「まあ、どうしたのですか?」と応対しようとするのを、エリアスは慌てて背後へと押しやった。リネンのチュニックの上からショールを引っかけた無防備な姿など、カミルはおろか、誰にも見せたくはない。
こちらの止める声など聞かず、食糧庫に入り込んだカミルは、目につく端から木箱を覗き込み、引っくり返し、棚を漁り——
怒髪天を衝いたエリアスによって食糧庫から無理矢理掴みだされるまで、狭い半地下部屋の中で嵐のように暴れまわった。ようやく酔っ払いを鎮圧し、話し合いのテーブルに着かせようとしたものの、何とそのまま、暖炉の前の擦り切れた絨毯の上で、気絶するように眠ってしまった。
後に残されたのは、散らかり酒臭い息で充満した食糧庫と、暖炉の炎さえ掻き消えそうな大いびきのみ。こいつめ!放り出してやろうか。と思った時。アルフリーダがそっと近づいて、大の字に寝ているカミルに自分のショールをかけた。こいつには勿体ない!とエリアスの心が叫んだ時。アルフリーダがふわりと笑って言った。
「片付け、手伝います」
消した蝋燭にもう一度火を灯し、二人はカミルを踏み越えて食糧庫へ向かった。惨憺たる有様だ。普段は、真ん中に意図的に開けた空間以外は敷石が見えないくらい木箱が置いてある。それが今ではどうだろう。半地下になった階段辺りにも木箱が投げられて中身が敷石の上に散乱している。エリアスはため息を一つつくと、作業を開始した。
横倒しにされた木箱を元に戻し、こぼれた豆を袋に戻して縛りなおし。倒れた樽や甕を立て直す。二人でこみ上げる欠伸を噛み殺しながらの作業は、夜半過ぎまで続いた・・・。
「ああいう一件があったのです。そうそう顔を見せには来られないでしょう」ましてや図々しく朝食を食べて行こうなどとは——
「エリアスが怖い顔をするからなのでは?」クスクスと笑いながらアルフリーダがテーブルに着いた。それは否定はできない。起きた瞬間のカミルの顔と来たら。
むくりと起き出したカミルが、「あったま、いて・・・」と呻いた後、ガバっと飛び跳ねるようにして立ち上がった。アルフリーダの、暗い緑色のショールがふわりと床に落ちる。
「あ、あの、その、俺・・・」
「よく眠れましたか?」落ちたショールを拾い上げ、優雅に微笑むアルフリーダ。カミルの琥珀色の目がグラグラと泳ぎ、そしてその背後を認めた途端。
「う、うわぁぁぁ!す、すまん!ごめんなさいぃぃぃ!」脱兎のごとく逃げ去って行った。
思いだすと腹が立つような、笑えるような。けれどどこか憎めない。あいつらしいと言うところか。
とにかくあの朝以来、カミルはヴァルド家に来なくなったし、何なら町の中でも見かけない。雪が降り出す前に、また狩りにでも行ったのかもしれないな。いや、今日は家畜の解体作業がある。さすがに今日くらいは町にいるだろう。
温かいハーブティーで腹の中を温め、スプーンを取り上げた時、ようやく自分が先ほどアルフリーダに何を言いかけたのか思い出した。
そうだ。カミルの不調法にすっかり思考を持って行かれて忘れていた。最近の物憂げな様子について尋ねようと思ったんだ。もう一度、問いかけてみるか?
アルフリーダの方にチラリと目をやると、紫色の瞳とバチっと視線がぶつかった。どうやら彼女もこちらを見ていたようだ。
「あの——」
アルフリーダが口火を切る。その眼はどこか真剣で、思いつめたような空気すら漂っている。
「お願いがあるのですが」




