第三十二話 『聖女と聖騎士②』
不安と不満と痛みと——惨たらしいまでの静寂が、百年前のエルノヴァの空気感を再現しているようで、カミルは喉の奥に無理矢理氷の塊を押し込まれたような息苦しさを覚えた。
エリアスの沈黙。周囲の連中の動揺。勝ち誇ったようにロイクが、大げさに両腕を広げて見せた。
「なあ、お前らもそう思うよな!今更騎士様と聖女様が炊き出しなんかしたって、意味なんかねぇよなぁ!?」
そうだ、そうだとロイクの仲間が煽り始める。「偽善だ!偽善!」「どうせ、食糧が尽きちまったら、炊き出しも自分の勝手で、止めちまうんだろう?」「偽の聖女と自称騎士なんかに騙されんなよ!」
「エリアスに咎はありません」
口汚い罵倒の中で、凛とした声が広場の空気を震わせた。アルフリーダの顔はまだ真っ青だったが、そんな自分を律するように周囲に視線を巡らせる。
「あなた方のおっしゃる通り、全ては私の我儘で勝手に始めたことです。彼はただ、私に付き従ってくれただけのこと」
ゆっくりと首を垂れ、膝を折り、アルフリーダはロイクに頭を下げた。ザワっと周囲から、小さなどよめきが上がる。
「どうか、責めるなら私を責めて下さい。あなた方の言葉を借りるなら、私は偽の聖女でしょう。それどころか、婚約者と言う笠を着て、エリアスの大切な冬の蓄えを浪費している悪女かもしれません」
アルフリーダが一度顔を上げ、エリアスを見た。
煤と埃塗れの銀灰色の髪に曇った氷のような青い目。カミルから見ても、お世辞にも騎士などと言う高尚な輝きはない。着ているチュニックは何度も洗ったせいで生地がくたびれ、紐は千切れかけている。唯一それらしいものと言えば、上着代わりにしている着古して薄くなったギャンベゾンだけだ。その薄汚れた男にもアルフリーダは頭を下げた。ロイクに対してよりも、もっと深くそして丁寧に。胸の子供が反射的にアルフリーダの首元を掴むくらいに。
「エリアスにも謝らなければなりません。私の我儘にあなたを巻き込みました。あなたの大切な蓄えを軽々しく使い、あなたの名を私の行いで汚してしまいました。本当に申し訳ありません」
泥を全部自分一人で被るつもりかよ!
カミルは、エリアスの顎にグッと力が入るのを見た。くそっ!なんか言えって!違うって言えよ!
誰もが言葉を失う中、アルフリーダはゆっくりと顔を上げ、その冴え切った視線をもう一度ロイクに向けた。
「私を偽物だと言うのならそれでも構いません。ですが、子供たちの笑顔までは偽物だとは言わせません」
アルフリーダの視線が、子供たちに向けられる。いつの間にか、崩れた列のままで固まっていたものと思っていた孤児たちは、アルフリーダの周囲に集まり、彼女を守るように囲みを作っていた。幼い子は煤で汚れたエプロンを握りしめ、少し年長の子供は、彼らの盾になるようにロイク達の前に立ちはだかっている。
「食料が尽きたら、続けてはいけないでしょう」
アルフリーダの手が、汚れがこびりついてごわごわになった子供達の髪を優しい手つきで撫でた。
「それの何が悪いと言うのでしょうか?」
アルフリーダの視線が男たちに向けられる。ロイクに、ディランに、そこに居並ぶ全ての人間に。紫色の双眸がカミルの方へも向いた。しかし、一度目が合っただけでアルフリーダの視線は長居せず、等しく周囲へと動いていく。そして子供を抱いたまま、ゆっくりと足元に転がる鍋に歩み寄った。周囲の小さな盾たちもそれに続いて動いていく。細い指が、長年の脂が染み込み黒くなった鍋の取っ手の片方を掴み上げる。
「スープが偽善でも、聖女が偽物でも。それでも今日この瞬間、彼らの体と心を温めることが出来るのなら、偽物でも何でも構わないのではないでしょうか」
一番年長の少年が出て来て、鉄鍋のもう片方の取っ手を力強くで掴んだ。まるで戦士が剣のグリップを握るように。
それを合図にするように周囲の垣からも小さな手が伸び、取っ手を捕らえ、鍋の底を支え、腹に抱え。各々小さな戦士たちが、一つの丸い隊列をなして鍋を支え合った。小さな視線が鋭い針のようにロイクや腰ぎんちゃくの方に注がれる。鍋を支えられない年端のいかない幼児ですら、裁きを見届ける聖人のように、無表情にロイク達を見つめている。
「一つだけ、あなた方に問います。あなた方が信じられるものは何ですか?」
明らかな動揺が、ゴミどもの中に広がった。
「私たちが”本物”であるのなら、信じられるのですか?」
問いかける紫の瞳の奥には、誰にも触れられない悲哀が静かに沈んでいるように見えた。その視線を見た瞬間、カミルはガラにもなく、汚れた沼地の縁に咲くミツガシワの白い花を思い起こした。沼の泥から、それでも気高く咲くあの花を。
こいつは、ロイクに問いかけてるんじゃねえ。俺たち皆に聞いてるんだ。
アルフリーダの視線が子供たちの垣根を越えて、ゴロツキども、そしてエリアス。更には、その周囲で遠巻きに見つめている町の連中に注がれる。
「立派な装備に身を包んだ騎士なら信じられるのでしょうか?或いは、奇跡を起こすと謳われた聖女でしょうか?——それとも、まったく違う何かでしょうか」
広場の空気がまるまる一息分止まった。誰もその問いかけに答えられない。カミル自身、自分が何を信じ、何を望んでいるのかなんて深く考えたことすらなかった。誰もがアルフリーダから目を逸らし、俯いて項垂れている。
「オレ・・・」その重苦しい沈黙の中でポツリとした声が上がった。元は毛織物か何かだったらしいボロボロの布を頭から引っ被り、汚れに汚れた顔の中で、たった一つだけ、透き通るようなアイスブルーの瞳を光らせて少年がひび割れた唇を開いた。
「オレは・・・今日のスープを信じる」
ハッとカミルは顔を上げた。知らずと自分も周囲に倣って顔を伏せていたことが悔しい。が、そんなことはどうでもいい。取っ手を持ったままの子供がそれに応えるように続ける。
「あったかかったし、・・・おなかもふくれた」
アイスブルーの瞳を鮮烈なまでに光らせて、先ほどの子供がきっぱりと言い放った。
「おいしいのが、あったかいのが、ほんもの!」
ピカっと空を分ける稲妻のように、子供の声が轟いたように感じた。実際はほとんど響かない金切り声に近い声だったが、少なくともカミルに熱を与えるのには十分なエネルギーだった。
「こいつはすげぇや!」
声を上げて、カミルはズカズカとアルフリーダに近づいた。ぼろきれを纏った小さなデコボコが、びくりと肩を震わせる。カミルは「ほんもの!」と叫んだ子供に真っすぐに歩み寄ると、迷わずにわき腹に手をかけて高く掲げた。「わ!」っと子供が小さく声を上げる。
「お前、すげえよ!誰も答えられねえ謎に答えを言ったんだ!」
高い高いの要領で、軽すぎる子供の体を空に高々と持ち上げ、カミルは大声で笑った。高揚が、上着を引っかけただけの裸の胸を突き抜けていく。カミルの笑い声に吊られたのか、それとも単に宙に放り投げられるような浮遊感が面白いのか、すぐに子供の笑い声がカミルの声に重なった。周囲から驚きと動揺が入り混じった視線を向けられているが、んなこた知ったこっちゃねえ。一しきり高い高いに興じ、アルフリーダが注意を促すような視線を送り始めた頃、ようやくカミルは子供を放り投げるのを止めて、自分の肩に座らせた。
「なあ、おい。聞いたかよ?」
落ちないように、しっかりと細い腰を支え、カミルは完全に狼狽えているロイクに体を向けた。肩の上で子供が「あっかんべー」をしている。
「暖かいのが、美味いのが、本物だってよ!つまり、お前が蹴とばした鍋がこいつらにとって、一番の”信じられるもの”ってこった!」
「ガ、ガキの言うことを真に受けんのかよ!」
無様に声が裏返っている。腰ぎんちゃくたちは互いに目配せをしあうだけで、誰もロイクの言葉に賛同しない。「なあ、おい——」とロイクが仲間に助けを求めた時。
今までずっと石のように動かず沈黙を守っていたエリアスが、ゆっくりと顔を上げた。
「・・・どけ」
目の前のディランがびくりと肩を震わせる。エリアスの目が悍々(けいけい)と光っていた。怖いものなどない、守るべきものの為に何ものも恐れない獣の光。それほどの迫力がその眼に凝縮されていた。
そう言や、こいつもこのガキとおんなじアイスブルーの目だな。カミルは肩に座らせた少年を見上げた。いや、このガキの目はもっと澄んでやがる。あいつのはまるで、おとぎ話に出てくるフェンリルそのものだ。氷の眠りから目を覚ました怪物みてぇじゃねえか。
エリアスはディランを肩で押しのけるようにして、こちらにやって来る。そして鍋を抱えている子供の前まで行くと、取っ手を掴んでいるアルフリーダの手に自分の手を添えた。
「もう一度作りましょう」
アルフリーダが息を飲みこんだ。その風の羽音のような沈黙は、彼女の奥の方で何かがゆっくりとほどけていく音のように聞こえた。
「ええ。そうですね」
アルフリーダが頷き、鍋を抱え上げた。エリアスはそのまましゃがみこんで、地面に散らばった瓦礫を再び竈に組み直す。カミルは鼻を鳴らした。まったく見ちゃいられねえよな。こいつにやらせたら、今度はさっきよりももっと不格好な竈になるに決まってら。カミルの肩の上で、子供が足をばたつかせた。
「オレもてつだう」
おれも、わたしも。と子供の群れが作りかけの竈に殺到する。
「おい、こら待てって!」
誰も聞いていない。とりあえず肩の子供を下ろしたら、今度はエリアスの背中によじ登る勢いで竈作りに加わった。「薪もいるだろ?それにスープの材料はどうすんだよ」カミルの呼びかけは、賑やかな子供たちの声にすぐにかき消されてしまう。そうこうしているうちにアルフリーダが近くの井戸に鍋を洗いに行き、それに小さな子供たちがついて行く。「いや、あのさ——」
「お前は薪でも拾ってこい」
ぼそっと、エリアスがこちらを向いて言った。はあ!?薪つったって、今から森に行けってのか!?と言いかけた時、「・・・あのよぉ・・・」と声がかかった。見ると腰の曲がった老人がよろよろと、到底薪とは呼べないような細い枝を纏めた束を差し出してくる。
「これで良けりゃ使ってくれや」それに続くようにして、別のところからもう一つの遠慮がちな声がかかる。
「あの、これ、あまりもんだけど・・・」
振り向くと中年の女が、干からびる寸前のシワシワになった人参を一本、申し訳なさそうに差し出してきた。皮はしぼみ、色はくすみ、何よりも絞った布みたいにねじくれている。カミルが思わず吹き出すと、エリアスのげんこつが頭に振ってきた。
「いってぇ!」更にそのまま後頭部をぎゅうぎゅうと押さえつけ、無理矢理お辞儀までさせられる。
「ありがとう。助かる」
大の男がこれまた大の男に押さえつけられて、あちらこちらで小さな笑い声がポツポツとあがった。曇天の広場に一筋の太陽の光が差し込んだように、温もりが戻ってくる。
「乾燥豆で良きゃ、少しくらいなら・・・」「カビてるとこ、削ったパンだけど」「カブの端っこでもいい?」
アルフリーダが綺麗に洗った鍋に水を満たして戻ってくる頃には、竈に熾った火が、生ごみ一歩手前の”豪華な食材たち”を照らしていた。ねじくれたシワシワの人参と、一握りしかない豆。まだ少し緑色のカビがくっついたパンの塊。切り取られたネズミのしっぽのようなカブの端っこ。
アルフリーダと、そして一緒に井戸に行った子供たちがそれを見て、一斉に目を丸くする。カミルは手を腰に当てて大げさに胸を反らした。
「見ろよ、アルフリーダ!お宝だぜ!」
子供たちが「お宝!お宝!」と囃し立て、アルフリーダがクスリと笑う。エリアスは、竈の火を見ながら小さく頷いた。
「ええ。本当に」鍋をちょっと傾いだ竈の上に乗せ、アルフリーダは”お宝”に向き直った。「これなら、御馳走が作れますね」
ロイク達の姿はもうどこにも見えなかった。誰も奴らが去るところを見てもいない。立ち去る足音すら聞こえなかった。カミルは鼻で笑った。ゴミはゴミらしく風でどっかに飛んで行ったかな。一応油断なく目を光らせて見るものの、広場のどこにもロイク達の影はなかった。風の精霊が通り抜けついでに、広場の掃除をしてくれたみたいだった。カミルは肩をすくめると、騒々しい輪の中へ戻っていった。




