第三十一話 『聖女と聖騎士①』
一階の酒場でも、ひと騒ぎ起きていた。ざわついた空気の中で、数人の客が腰を浮かせて、入り口の方を指さしている。開け放たれたドア。その向こうに酒場の店主、ブラントの背中が見えた。先ほど転ばされた娼婦を抱え起こし、どうにか店内へ運び込もうとやっている。
カミルは思わず足を止めた。ブラントと、娼婦仲間の女に両腕を担がれた彼女の顔が、乱れた赤毛の隙間からチラリと見え隠れする。唇の端に血が滲み、派手で安っぽいドレスは無残に裾が裂けて汚れていた。おまけに転んだ拍子に脱げたのか、片方の足は裸足だった。
その眼がカミルを捕らえた時、娼婦がふっと笑った。そしてクイっと擦りむけた顎を表の騒ぎの方に動かした。「私は平気。それより、あんたは外に行きな」そんな声が聞こえた気がした。
聖女を守れってか。カミルは小さく頷くと、裸の上半身に上着を羽織った恰好のまま、冷たい空気の中に飛び出して行った。
「何をするのです!」
出し抜けにアルフリーダの声が広場に響いた。
凍てつく冬の烈風が、荒野の色褪せた雑草を薙ぎ払うような声。その声がカミルの足を止めさせた。いや、カミルの中の野性が彼に「止まれ」と命じた。アルフリーダの放つ声は、か細い女の声でも、弱者の懇願などでもない。そこにある全てを平伏させるような、絶対的な威厳。
颯爽と飛び出して行って、ゴロツキどもをぶん殴るつもりだったカミルは思いっきり虚を突かれた。
泣きじゃくる子供を抱き上げ、自分のショールの中にしっかりと包みこみ、背筋をしゃんと伸ばして立つアルフリーダは強者に蹂躙される弱者などではなかった。
ふとカミルの目の前で、ふらりと一人の子供が前に出てきた。湯気の残滓を追うように指を伸ばしかけ——
けれど汚れた小さな手は何も掴めずに、湯気はその間をすり抜け、やがて空気に溶けて見えなくなった。新たなすすり泣きがあちこちから漏れ出した。スープにありつけた年長の子供たちが、どうにか泣き止ませようと、小さな子を抱き寄せ、自分の椀をその小さな口元に近づけてやっている。
その光景を見た瞬間、カミルの中で何かがブチっと音を立てて切れた。
「てめえら!何やっていやがる!」
自分でも思いがけず、怒号が口を突いて飛び出した。頭の芯がカアッと熱くなり、獲物を仕留める時のように視界が冴えわたる。目の前の男たちの動きが滑稽なほど緩慢に見え、カミルにその喉笛を差し出してくるような感覚。その勢いのままカミルは拳を固めた。その時——
「カミル」
カミルの熱くなった脳に、一陣の風がスッと吹き込んできた。顔を上げるとアルフリーダの宝石のような紫色の双眸がこちらを見つめていた。アルフリーダの目線がスッと足元の子供の方に動く。「子どもたちがいるのですよ」ここで暴れたらガキどもが傷つくかもしれねえってことかよ!
カミルは思わずエリアスの方に目をやった。銀灰色の前髪を透かして、氷青色の瞳すらもカミルに「退け」と言ってくる。クソ!
カミルは、やり場のない怒りに震える拳をゆっくりと下ろした。その耳に、はっきりと侮蔑にも似た、薄汚れた嘲笑の飛沫がかかった。
「お前らこそ、何やっているんだぁ?」
ネチッとした、嫌な粘り気のある声。纏わりつくクモの巣のような響きに、思わず身震いが出そうになる。
アルフリーダの横から、男が一人出てきた。ニヤニヤとした嫌悪感を誘う笑みを張りつけ、子供を庇うアルフリーダを心底見下したような目で見ている若い男。立ち位置からして、おそらくこいつが鍋を蹴り飛ばした張本人なんだろう。その背後にいる連中は、こいつの腰ぎんちゃくか。負けず劣らずの醜男揃いだ。
その中に見覚えのある男がいた。ディランだ。相変わらず高さだけのヒョロい体で、細っこい腕を組んでいる。ヘッ!カッコつけてるつもりかよ!
「前に、教えてやっただろう?」
エリアスの前には、まだ別動隊を気取った、本隊とは別の醜男が汚い肉の壁のように立ちはだかっている。
ディランの薄い唇が、エリアスに向かってニヤリと持ち上がる。
「あの女の毒がお前を腐らすってな」
「何だと・・・」
エリアスの声は地を這うように低く、くぐもっていた。その肩が強張り、見る見るうちに背中の筋肉が盛り上がり始めるのが、服越しにでも見て取れた。カミルの胸元から喉にかけて、ぶるりと震えが登ってきた。あ、終わったな。エリアスの怒りの凄まじさが、逆にカミルの頭を冬の湖並みに冷やしていく。あの背中が盛り上がるのは、本気の合図みてぇなもんだ。エリアスの手が上がりかけた時——
「エリアス」
アルフリーダの声がそっとエリアスの名前を呼んだ。エリアスの肩がピクリと反応し、まるで見えない手で制されたように動きを止める。子供を抱いたまま、アルフリーダが小さく首を横に振る。その静かな仕草に、騎士の肉体から溢れ出ようとしていた怒りの奔流が、ピタリと制止した。
「何をやっているのかと、問いましたね?」
「あ?ああ、言ったぜ?聖女様?」
聞いているだけで体がべたつきそうになる。主犯であろう男が、肩をいからせて前に進み出てくる。子供たちの塊がさあっと恐怖にすくみ上る。その当たり前の恐怖心が、この男に妙な全能感を与えた。
男がゆっくりと足を上げ、これ見よがしに燃え残っていた残り火を、分厚い靴底で踏みつぶした。腰ぎんちゃく共が口々に囃し立てる。「ちゃんと消してやれよ!ロイク!」「聖女様の火で、火事にでもなったら大変だもんな!」
執拗なほどに踏みつけ、薪を粉々にするまで止めない男の名前。ロイクか。一年の半分以上を森で暮らしているカミルには、その名前に聞き覚えがなかった。
アルフリーダは眉一つ動かさず、ただ冷ややかにロイクを見つめていた。子供たちを温める筈だった炎が蹂躙され、僅かな赤い光すらロイクの靴底にの下に完全に沈黙した。
「御覧の通り、子供たちにスープを配っていたのです」
アルフリーダの声は冷酷なまでに落ち着き払っている。彼女の瞳の奥では、踏みつぶされた炎とは別の穂が、静かにくすぶっていた。
「へえ?スープだってよ」
ドッと男たちの間に下品な笑い声があがる。
「そんじゃあ、聖女様にお伺いしますけどよぉ。そのスープの具はどっから調達したってんだ?」
ロイクの肩を別の男が小突いた。
「何言ってんだよ。聖女様だぜ?お祈りで出したに決まってんだろ?」
カミルは下卑た声を聞きながら、冷静に敵の数を数えた。エリアスの前にはディランを含めた4人。アルフリーダの所にはロイクを入れて3人。こいつは、暴れ甲斐がありそうだ。
アルフリーダがふっと目を伏せた。髪色と同じ金色のまつ毛が紫色の瞳にかかって揺れるのが、少し離れたここからでもよく見えた。
「スープに使った野菜は・・・、エリアスが厚意で私に託してくださいました」
広場の視線が、ゴロツキどもも含めて一斉にエリアスに注がれる。カミルの中で「やっぱりか」と「マジかよ」がせめぎ合った。
冬の食糧確保は死活問題だ。なんなら、町の連中が日々身をすり減らして働いているのは、全部食糧のためだと言い切っても過言ではない。それはエリアスと言えど例外ではなかった。今年のように日照不足で麦の収穫に遅れが出たことに神経を尖らせ、不器用なくせに少しでも足しにと、森で木の実やキノコを採取して回る。そんなエリアスの姿をカミルは嫌と言うほど見てきた。
だからこそロイクの言い分が、まったくの的外れだと、真っ向から否定できなかった。そのカミルの葛藤と同質の揺らぎが、広場に居合わせた人々にも伝染していくのが、わざわざ見なくても気配で分かった。
エリアスには「本当に大丈夫なのか?」と言う不安が、アルフリーダには「婚約者の蓄えを浪費する女」と言う蔑みが。容赦なく向けられていく。
「騎士様の『ご厚意』で、自分たちの冬の食いもんを小汚ぇガキに配ってるって事かぁ?」
呆れたような、素っ頓狂な声がカミルと衆人の胸の内を代弁した。
「よく考えたら、騎士つったってよぉ」
ロイクの声は、服に付いた汚れが広がるように、広場の冷たい空気に滲み染み込んでいく。
「百年前、騎士は俺ら庶民に何をしてくれた?」
この言葉にエリアスよりもアルフリーダの方が強く反応した。ビクッと肩が震わせ、顔から血の気が失せていく。子供を撫でさする手が止まり、代わりに小刻みに震えている。それに乗っかるようにして、ロイク達が調子を上げてきた。
「竜と同化した王を止められたか?」「封印された姫を救い出したか?」ロイクの足が一歩ずつ、ゆっくりとエリアスの方に歩み寄っていく。崩れそうな地面を、まるで自分の一踏みで均してやると言わんばかりに。やがてディランを押しのけて、エリアスの目前まで来ると、耳まで避けそうなほど唇を左右に引き伸ばして笑った。
「なぁんにも、してくれてねえよなぁ?」
その言葉が目に見えない拳となって、コツンとエリアスの胸を小突いた。




