第三十話 『聖女の足をすくうゴミ屑』
薄暗い宿屋の一室。カミルは酒が残る怠い体の上から直接上着を引っかけて、窓枠に腰を下ろした。埃と何だかよく分からない汚れで真っ黒に汚れた鎧戸に指をかける。建付けが悪い。力を入れて隙間を作ると、そこから冷たい空気が入り込んできた。同時に、容赦のない光が一筋。細い線となって木賃宿の埃っぽい床に一直線に伸びていく。カミルはその隙間に片目を当て、眼下の広場を見下ろした。
閑散とした広場も昼時が近づいているせいか、人の行き来もそれなりにあるようだ。その中に見知った人影を見つけた。往来の邪魔にならない広場の端の方で、鍋をかき回す頭巾の女と、薪を焚べている銀灰色の髪の男。
その竈の不格好な事と言ったら。カミルは鼻で小さく笑った。薪の男。エリアスがそこら辺の瓦礫をかき集めて積み上げたと言うことが、一目で知れる。鍋をかき回しているのはアルフリーダだ。灰色の頭巾のようなものを被り、時折それを引き上げては、湯気のせいで垂れてくる金の髪をかき上げる。
まったく。聖女と騎士かよ。
「ん・・・」
光の筋は部屋の更に奥、手垢で汚れたベッドの方へと伸びている。その光の道が、シーツからむき出しになったか細い女の肩を白く照らし出した。
「カミル・・・眩し・・・」
掠れた声。昨夜カミルが白ウサギの毛皮で買った女だ。眠りから覚めた女は、だらしなく髪を乱したままベッドから這い出すと、窓辺のカミルの方にしなだれかかってきた。夜の香りと、安っぽい香油の匂いがカミルの鼻腔を付いた。女の細い指が、ねだるように首筋から胸元へと這う。
「もう朝なの?ねえ、もうちょっと遊ばない?」
甘えた声がカミルの耳たぶをくすぐっていく。カミルは窓の外から視線を外さずに、そのしなやかな指先を捕まえて口づけした。ちょっとした愛想のつもりで。
「いや。お前との契約は夜明けまでだ。それに、もう昼だぞ」
カミルがそう告げた瞬間、娼婦の手がいきなり引っこ抜かれた。纏わりついていた気だるげな空気さえ、消し飛んでいる。
「え!?嘘!もう、そんな時間!?」
さっきまでの甘えもどこへやら。ポイっとばかりにカミルを放すと、ベッドの上のシーツを引っ掻き回し始めた。
「何だよ。何か、用事でもあるのか?」
滅茶苦茶に絡まったシーツの中から、自分の服を引っ張り出して手早く身に着け始める。ついでに出てきたカミルの肌着をそこら辺に放っておいて。あまりの豹変ぶりにカミルは片方の眉を上げた。
「用事も用事!大用事だよ!早くしないとなくなっちゃう!」
剥き出しの背中の紐を、慣れた手つきで器用に結びながら、女は焦ったような声を出す。その顔は先ほどまでの妖艶な娼婦ではなく、生きるのに必死な、それでいてどこか楽しそうな、女のそれだった。
「聖女様の炊き出しがあるんだよ。すっごい美味しくてさ。そんじょそこらの店じゃ、とてもじゃないけど食べられない味なんだから」
「聖女様、ねえ」
カミルはもう一度雨戸の隙間を覗き込んだ。アルフリーダの側には、手に手に空の椀を持ったボロ布の塊達の列ができ始めていた。町の孤児たちだ。
「けど、アレ、身寄りのないガキどものための炊き出しなんじゃねえの?」
「そうだけどさ。余ったら私らみたいな者にも、ちゃーんと分けてくれるんだよ。なんたって『聖女様』だからね!」
女は手早く髪を纏めると、煤けて曇りに曇った鏡を覗いてから、転がるようにドアへ向かった。
「じゃあね、カミル!楽しかったわ、またね!」
バタンと勢いよくドアが閉まる。続いて、けたたましく階段を下りていく足音が遠ざかって行く。静まり返った部屋に一人残されたカミルは、小さく肩をすくめた。部屋にはまだ安物の香油の匂いと、女がドタバタと暴れたせいで舞い上がった埃の匂いが混ざり合っている。
カミルはガチガチの鎧戸をどうにか押し広げて、隙間を広げた。煤けた世界。汚い町。その中で、鍋の周囲だけが、まるで神話を切り取ってきたように輝いて見える。それがどうしようもなくアンバランスで、滑稽で、そして、眩しかった。それをぼんやりと眺めながら、カミルは周囲の暗がりに油断なく目を光らせた。物陰に転がるゴミのような連中は、珍しく見当たらない。エリアスが側にいるせいか?
ぼんやりと眺めているうちに、不格好な竈の周囲にボロを纏った小さな一団が、曲がった列を作り始めていく。カミルは小さく鼻を鳴らした。まったく、よくやるよ。あいつら、冬の食糧を分けちまって、どうするつもりなんだか。
おずおずと差し出される粗末な木の椀に、何とも似つかわしくない優雅な手つきで、アルフリーダがスープを注いでやっている。その足元では、銀灰色の頭が竈の中を覗き込んでいた。ふと上げたその見慣れた顔が、炎の照り返しで赤く染め上げられる。なんだよ、その甲斐甲斐しさ。似合わねえんだよ。カミルは誰もいない室内で一人小さく吹き出した。
さあて、どうするかなあ。
カミルは頭をぐしゃぐしゃと搔きながら、ぼんやりと考えた。このままここで見ているってのも悪くない。けど、降りて行ってあの甲斐甲斐しい自称騎士を揶揄うってのも魅力的だ。あの娼婦が言ってた美味いスープにありつけるなら、尚更——
その時だった。甲高い女の悲鳴が広場の空気を裂いて、この汚い鎧戸を震わせた。は?なんだ?窓枠から腰を浮かしかけていたカミルだったが、すぐさま鎧戸の隙間へと取って返した。
列の最後尾で、女がうつ伏せに倒れている。おい、待てよ。あの赤毛には見覚えがある。派手な赤いドレスにも。聖女の炊き出しに浮かれていた、さっきの娼婦じゃねえか!石畳の上でペシャリと潰れた女にエリアスが駆け寄り、手を貸しながら何やら話しかけている。それに少し安堵した瞬間——
ガシャーン!
派手な金属音が鳴り響いた。今度は何だよ!視線を上げると、石畳に転がる鍋が視界に飛び込んできた。蹴り飛ばされでもしたのか、不格好な竈は崩れて元の瓦礫に戻り、泥だらけの石畳からはもうもうと湯気が立ち上っている。ただでさえ動揺が広がり始めている広場に、更に残酷な音までが加わった。子供の鳴き声だ。熱い飛沫がかかったのか、それとも今まさに待ち望んでいた温かな食事を奪われた事への絶望か。火が付いたように泣き叫ぶ子供の声が、広場全体を震わせていた。
息を呑むアルフリーダ。そのすぐそばで、一人の男がニヤニヤとした笑みを張り付けて立っている。
一人?いや、違う。いつの間にか、何人もの男たちが、炊き出しの周囲に紛れ込んでいた。いつもは物陰に転がるゴミみてぇな連中が、気づけば堂々と輪の中に入り込んでいやがる。
気づいたエリアスがアルフリーダの方に駆け寄ろうとする。が、申し合わせでもしたように、男たちがサッと動いて、エリアスの前に小さな壁を作って立ちはだかった。
「ああ、そういうことかよ」カミルの奥歯から低い声が漏れた。
最初からあいつに見せつけることが狙いかよ。カミルは窓枠を蹴りつけ、さっと身を翻した。
あいつの手が届かないところで、アルフリーダの誇りが踏みにじられていくのを、目の前で見せつけるために。守れなかったって事実をあいつの胸に刻み込むために。
「・・・クソが!」
階段を半ば飛び降りるようにして、カミルは酒場の出口へと突進していった。




