第二十九話 『いつかの銀環』
「ですが——」
アルフリーダが顔を上げ、エリアスの目に視線を合わせてくる。
「空腹で萎びたような子供たちが、私のスープを食べて笑ってくれたんです」
その言葉が全てを物語っていた。”だから私は、彼らを見て見ぬふりをすることは出来ない”。と。
口にはのぼせない。けれど、アルフリーダが真に言いたかったことはそれだと、エリアスは察した。
エリアスはスプーンを置いて、小さく息をついた。
一体アルフリーダはどこまで背負い込むのだろう。呆れているわけではない。苛立ってもいない。ただ、民の苦しみを自分の過失だと思い過ぎるアルフリーダに、どうしようもないもどかしさを覚えてしまう。
「民の困窮が、自分のせいだと。そうお考えなのですか?」
もどかしさが、エリアスの建固な理性の網をすり抜けて、言葉になって飛び出した。アルフリーダの表情が一瞬驚いたように揺れ、唇が僅かに動く。けれどエリアスとは違い、彼女は飛び出ようとする本心の尻尾を、はっしと掴んで引き戻した。どこまでも冷徹な、姫の冴え冴えとした矜持が、言葉にすることを許さなかったのだろう。それが、エリアスには痛かった。
「百年もの月日が流れても、私はエルノヴァの姫です」
やはりそう出るか。エリアスは内心ため息をついた。
「民の困窮は私の責任です。違いますか?」
揺るぎない声。アルフリーダと出会う前。こんな声を出す女性をエリアスは見たことがなかった。彼女の声には百年分の後悔と自責の念が凝縮され、仄暗い質量を帯びていた。エリアスは内心深くため息をついた。
その重力を、どうしてもその細い肩だけで背負うと言い張るのなら、こちらとしても黙っているわけにはいかない。
「あなたの責任であるなら・・・。それは、私の責任でもあります」
アルフリーダが目を丸くした。うっすらと開いた唇がパクパクと小さく動く。
「何を、おっしゃりたいのですか?」
「あなたがエルノヴァの姫と言うのなら、私はエルノヴァの騎士です。そしてあなたの婚約者です」
すっきりとした顎が一瞬だけピクリと持ち上がる。エリアスは自分の胸元に右手を当てた。
「あなたの重荷、どうか私にも背負わせて下さい。次からは私も一緒に参ります」
アルフリーダの目が更に大きく見開かれる。姫と言う冷徹な兜が、僅かにほどけたように見えた。
「で、ですが。あなたには仕事が——」
「昼でしたら、昼食の合間を見てあなたの側にいられます。私が側にいれば、連中もそう易々とはあなたに手出しできないでしょうから」
アルフリーダの両肩から強張りが解けていく。まるで、白い優雅な鳥がそっと羽を休めるように。彼女が纏っていた昏い質量が、ふっと行き場を失って霧散していく。
「私は・・・てっきり、叱られるものとばかり・・・」
ほんの少し身をすくめて、少女のように上目遣いの視線をこちらに投げかけてくる。蝋燭の明かりがその瞳の中に映りこみ、彼女の呼気に合わせて微かな揺れを見せる。エリアスはふっと口元を緩めて笑った。
「そういう風に見えますか?」
「えっ!?い、いえ・・・」
アルフリーダは慌てて目を逸らした。頬がほんのりと赤くなっている。仕切り直すようにもぞもぞと腰を動かして、アルフリーダが再びこちらに向き直る。
「エリアス」
なんでしょうか?と言いかけた時、アルフリーダの手が伸びて来て、胸元から下ろしかけた手をぎゅっと掴んだ。そしてそのまま、エリアスの節くれだった指の間に自分の指をそっと差し込むようにして絡めてくる。まるでゴツゴツとした大木の根元に、混じりっ気のない白絹がそっと巻き付くように——
「ありがとう・・・ございます」
アルフリーダの唇から感謝の言葉が漏れ出る。優しい暖かさと、繊細な滑らかさが掌全体から、じわじわとエリアス自身にしみ込んでいく。今までも何度か彼女の手に触れることはあった。だが、この瞬間だけはまるで手触りが違っていた。農作業と訓練で荒れた手を、アルフリーダ手が愛おしむように包みこむ。それは、主君としての振る舞いではない。本物の婚約者に向ける仕草のようで、エリアスの心臓がドクンと胸の内で強く打ち鳴らされる。
音が聞こえるのではないか。或いは振動が伝わるのではないかと危惧するくらいに。エリアスは思わず自分の煩い心臓を宥めようと左手で胸を探った。と、その時、アルフリーダが目を瞬かせた。
「それは、なんですか?」
「それ?とは?」
何のことだ?アルフリーダの手が離れ、エリアスの胸元をそっと指し示す。つられて視線を落とすと、木綿のチュニックの隙間から、銀の鎖が顔を覗かせている。さっき触った時、指にでも絡まったのだろう。ずっと着けていたせいで、最早体の一部になっていて気づかなかった。エリアスは鎖を服の中から引き出してアルフリーダに見せた。
「祖母の指輪です」
「触れてみても?」
エリアスが頷くと、アルフリーダが息を潜めてそっと手を伸ばしてきた。鎖に通された銀の指輪にアルフリーダの指先が触れる。その仕草は精緻な宝物にでも触るように慎重で優しい。エリアスは少しくすぐったいような気持ちに駆られて、思わず身じろぎしてしまう。
「何か・・・、彫り込んでありますね」
「ええ。ヴァルド家の家訓が刻まれています」
指輪の頭は平らな円形に潰されており、そこにヴァルド家の紋章を囲むように古い文字が彫り込まれている。長い年月を経て摩耗しているが、それでもその指輪の言葉はいつもエリアスと共にあった。
「”誇りは永遠”」
「ええ。そうです」
アルフリーダの瞳が、急に遠くを見るように揺れた。何かをひどく懐かしむような、古い記憶を心の引き出しから取り出して、そっと撫でるような。アルフリーダの唇がかすかに何かを呟いた。
「何か?」
エリアスが問いかけると、アルフリーダがハッとして瞬きを繰り返した。
「え?何ですか?」
「今、何かおっしゃいましたよね?」
アルフリーダは小首を傾げる。その仕草は自然で、本当に何かを口にしたつもりはないように見えた。「いいえ」と首を振った後、アルフリーダが今まさに重大な事を思い出したように手を打った。
「嫌ですわ。すっかりスープが冷めてしまいましたわね」
明るい笑顔はいつものアルフリーダのそれで、あの物憂げな表情はすっかりとどこかへ飛び去ってしまっていた。テーブルから椀を地理上げ、底の方で冷たくなっているスープの上から、熱々を注ぎ入れるアルフリーダを見つめながら、エリアスはまだ先ほどの瞳の色を思い出していた。
あの一瞬。確かにあの一瞬だけ、自分の知らない遠さを宿していた。
「これは、ヴァルド家の指輪です」
「当主の指輪。と言うことでしょうか?なぜ首から下げているのですか?」
指に嵌めればいいじゃないか。と言いたげなアルフリーダをエリアスは目で追いかけた。
自分の椀にもスープを注いでアルフリーダは席に戻る。それを見計らい、エリアスは銀の指輪を掌の上に乗せた。蝋燭の弱々しい光の中でも指輪は往時の光を失わず、キラキラと光を跳ね返している。
「当主の物ではないからです。これは・・・当主の妻が守る指輪なので・・・」
アルフリーダが「まあ」と息を呑む。白い花びらのような指先が、そっと自身の唇に当てられる。
ドク、ドク、と、服の下で心臓が暴れ狂っている。今こんな話をするつもりではなかった。けれど、婚約している以上、いつかは話すことだ。周囲の物音が遠くなるほど、鼓動がやかましい。
「それは・・・つまり?」
アルフリーダの問いに、エリアスは静かに頷いた。
「将来、私の妻となる女性に手渡す物です。——あなたに」
部屋の空気と時間が一瞬制止した。いつも涼しげだったアルフリーダの瞳が、見たこともないほど大きく見開かれ、そして次の瞬間。静止していた時間を取り戻すかのように、視線が激しく泳ぎ始めた。
紅を引いたような唇は、開いたり閉じたりを繰り返すのに、肝心の言葉が一切聞こえて来ない。アルフリーダの沈黙が長く尾を引いて、エリアスは耐え切れず咳ばらいをした。
「まあ、いつか。の話です。聞き流してください」
淡々とした声。に聞こえているだろうか?いや、聞こえていてくれ。
エリアスは、まるで盗賊が盗み出したばかりの財宝でも隠すように、鎖ごと指輪をチュニックの下に押し込んだ。




