第二十八話『カミルの警告』
収穫祭が終わると、待ち構えていたようにグッと気温が下がった。ああ・・・、今年も冬が来るのか。
どこまでも冷たく、抗いようのない、不可避の支配者が今年も玉座から腰を上げた。エルノヴァの民を締め上げに、冷たい息吹を吐き出しながら。そんな夕暮れだった。
薄い闇が急激に暗さを増す通りを、エリアスは一人家路を急いでいた。ここ数日は、男たちと共に各家々を回っていた。これから襲い来る、容赦のない猛烈な雪と風に粗末な家が耐えられるよう、補修と補強のために。
今日最後の家は、町の西側、職人通りで一人暮らしをしている老人の家だった。手際よく壁と屋根の修繕を済ませて、さてこれで帰ろうかと言う時。エリアスの目に、火の気がない暖炉が止まった。お世辞にも掃除が行き届いているとは言えない、灰だらけの炉床は、燃えさしばかりで火の気がない。暖炉脇の木枠の中には、煤と手垢で黒ずんだ斧と、申し訳程度に小枝が二、三本放り込まれているだけだ。
「薪はあるんだがよ。いかんせん薪割りがな。この年じゃ、どうにも手が追い付かん」
エリアスの視線に気が付いた老人が、言い訳とも恥じらいともつかない声で、肩をすくめる。エリアスは小さく息を吐き、木枠の中の手斧を担ぎあげた。「先に帰っててくれ」仲間にそう告げると、彼は一人、老人の家の裏手へと向かった。
つい熱が入りすぎた。エリアスが炉床と木枠に薪をたっぷり積み上げるころには、日はもう家々の屋根の向こうに隠れて見えなくなっていた。
突然、路地裏からすっと黒い人影が現れ、エリアスはドキリと足を止めた。人通りの途絶えた通りに、黒い影がジワリと近づいてくる。闇に溶け込むような黒いフード。その隙間から、チラリと癖のある金髪が覗いた瞬間、エリアスはフッとため息をついた。
「カミルか。脅かすな」
「へへっ。バレたか」おもむろにフードを取り、カミルがずかずか近づいてくる。布を重ねて作った外套のようなものを羽織り、手首にも防寒用の布切れを巻き付けている。いかにも寒がりのカミルらしい。
「珍しいな。この時間なら酒場で潰れている頃だろう?」
カミルが子供の様に唇を尖らせた。
「こんな宵の口で、潰れねえよ!」
カミルの背中の向こうに、粗末な我が家が見えている。何か用事があるのなら、何故家で待たないのか。窓に張った風よけの薄い皮の隙間から、ほのかな灯りが漏れており、エリアスの胸に小さな温もりを燈した。
アルフリーダがいる。
「ったく。頬、緩んでんぞ」
カミルがわざと拗ねたような言い方をして、エリアスは慌てて視線を外した。
「それで?用があるなら中で話すか。寒いだろう?」軽く咳ばらいをして、カミルを家に誘う。だが、意外にもカミルはすぐに首を横に振った。道端のわずかな灯りの中で、カミルの金髪がチカっと光を跳ね返す。
「いや。いい」
短くそう言った後、カミルは一度だけ視線を地面に落とし、珍しく言葉を選ぶように口を開いた。
「実は・・・アルフリーダの事でお前の耳に入れたいことがあってよ」
額とこめかみの辺りがスウッと冷えていき、胸がざわついた。
アルフリーダの事——
何かあったのか。それとも俺の知らないところで、何か事件にでも巻き込まれたのか?いや、それなら、カミルがこんな風に呑気に構えているはずがない。もっと大騒ぎで喚き散らかしているはずだ。とは言え、こんな夜の道端でアルフリーダの名が出る理由——。いい話であるはずがない。
「聞かせてくれ」
カミルがゆっくりと頷き話し始めた——
「エリアス?」
ハッとして顔を上げる。テーブルを挟んだ向かい側でアルフリーダが不安そうに、身を乗り出すようにしてこちらをのぞき込んでいる。冷え切った通りで、カミルとした会話がまだ耳の奥で続いていて、エリアスはぶるりと頭を振った。
「今夜は食が進みませんね。どこか体調が優れないところでも?」
「あ、いえ——」
エリアスは慌てて、少し冷めてしまったスープを口に運んだ。どうにも落ち着かない。
「アルフリーダ」
「はい。なんでしょうか?」腹を決めて呼びかけたつもりだったが、アルフリーダの柔らかい笑顔を見た途端に、喉の奥に用意してあった問いが、するりと逃げて行った。
「こ、このスープは、なんですか?」
——馬鹿か、俺は。カミルから聞かされたことを問いただしたいのに、今一番どうでもいいことを聞く自分が、苛立ちを通り越して、いっそ憎らしい。アルフリーダは優雅に微笑んで、丁寧に説明をしてくれる。
「ハーブと干し肉、それから乾燥豆のスープです。お口に合わないですか?」
「あ、え、いえ。とても美味しいです」
返しながらも、エリアスの耳の奥ではまだカミルの言葉が重く沈んでいた。カミルの警告が。
「その・・・。今日の昼間——」
アルフリーダの肩が小さくピクリと跳ねる。
「今日の昼間、広場におられましたか?・・・孤児たちと一緒に」
ほんの刹那、アルフリーダの視線が泳ぐのを、エリアスは見逃さなかった。やはりカミルの言葉は正しかった。アルフリーダのこの動揺が、何よりの証拠だ。
「ええ。今日は特に冷え込みが厳しいように思われたので。その・・・気になってしまって」
アルフリーダの声は穏やかだったが、わずかな硬さが滲んでいた。まるで、虐げようとする何者かから、孤児たちを守るように。エリアスは、自分の胸に小さく鋭い波が立つのを感じた。俺は、彼女の善意を止める側の人間。そう思われているのか。
エリアスは敢えてアルフリーダから視線を外すと、豆のスープを一口運ぶ。干し肉の野性的な匂いがハーブの香りと混ざり合って心地よく鼻に抜けていく。豆も良く煮込まれて柔らかい。その味を確かめるふりをしながら、エリアスは静かにアルフリーダの次の言葉を待った。
「少しでも、寒さを凌げればと思ったのです」
アルフリーダは顔を上げて、エリアスに真っ向から向かい合った。一対一の剣戟の前に対戦者を、盾の横から伺い見るような目で。
「貴重な食材を使ってしまったことは謝ります。申し訳ありません」
その声は静かで、だが少しも揺れていない。謝罪の言葉を借りた彼女の意志そのものだ。
収穫祭で、リンゴの籠を見て指をくわえていた孤児たち。あるいは以前、通りでパンを盗んだ子供。アルフリーダの中では、それは日常の些事に紛れるものではなく、ずっと胸の底に沈殿し続ける澱のようなものだったのかもしれない。しきりと頭を下げるアルフリーダをエリアスは遮った。
「いえ。怒ってはいません。私が問題にしたいのは、それをあなた一人で行なったと言うことです」
「はい?」
アルフリーダが目を丸くした。
「以前もお話したように、この町はお世辞にも治安が良いとは言えません。素行の悪い連中も、悪意を持って近づく者達もいます」
アルフリーダがハッとしたように息を呑む。どうやら覚えがあるようだ。カミルが吐き捨てるように言った言葉が蘇る。「町のゴロツキども、獲物を狙うような目でアルフリーダを見てやがった」
「そう、ですよね・・・」
小さく消え入りそうな声でアルフリーダが呟くように言った。その声は反発ではなく、静かな理解だった。




