第二十七話 収穫祭⑦『泥に降り積もる優しい雪』
「過分な言葉。・・・恐れ入ります」
自分の声が遠くに聞こえる。姫に忠誠を誓う騎士の言葉。それが毒の様にエリアスの胸を蝕んでいく。ここに来て、なぜこれほどに痛みを覚えるのか。一体いつからだ?彼女に対して、『婚約者』として接してほしいなどと言う、浅ましい欲が芽生えてきたのは?
謝罪など口にのぼせる資格はない。
それでもエリアスは顎を持ち上げた。俺は姫の騎士、アルフリーダの剣だ。どんなに自分が汚れていようと、救いのようもないほど哀れで醜くても、この想いだけは本物だ。
エリアスは、リンゴをそっとアルフリーダの前に差し出した。
「騎士として、私があなたに出来ることは、そう多くないかもしれません。ですが——」
リンゴを差し出す手が僅かに震えている。誓いの証がリンゴと言うことも情けない。彼女の優しさに欲望を炙り出され、恐怖心から無我夢中で放った言葉が姫を傷つけた。無骨で浅ましく、薄汚れた”自称騎士”。
それでも——
エリアスはぐっと腹に力を込めた。これだけは偽りのない本心だった。
「ですが、どこまでもあなたをお守りいたします」
たとえ、もう二度と彼女が微笑みかけてくれなくとも。生涯『ただの騎士』として、自分が作ってしまった境界線の外側に置かれようとも。命が尽き果てる瞬間まで、あなたの剣であり続ける。
沈黙——
帰って来たのは、張りつめた冬の空気のような、いたたまれないほどの沈黙だった。エリアスは恐る恐る視線を上げた。
アルフリーダは差し出されたリンゴを見つめたまま、まるで鋭利な刃物を突き付けられたかのように、表情をこわばらせている。瞳には先ほどの冷たさではなく、言いようのない衝撃と暗い葛藤の色が混然一体となって渦巻いていた。
エリアスの心臓に、嫌な音を響かせながら緩やかに亀裂が広がって行く。拒絶されるのか・・・。当然だ。自分はそれだけのことを彼女にしたのだから。
その時、自分の冷たくかじかんだような手の甲に、更に冷たい凍えた掌が舞い降りた。
アルフリーダの小さな手が、自分の手の上から重なる。断罪のような静寂の中で、二人の手が同じ一つのリンゴを包み込んでいる。揺れる目は、ただじっとリンゴを凝視している。まるで差し出された救いの手を前にして、己の罪の深さに怯えている罪人のように——
拒絶とも嫌悪とも違う。黒く深い穴をのぞき込んで、足がすくんで身動きが取れないような。逆に欲しくてたまらなかったものを目の前にして、恐れ慄いているような。
「・・・良いのですか?」
かすかな声がエリアスに許しを請うように響いた。
なぜそんな顔をするのだろう。罪を犯したのは自分だ。それなのに、彼女の手から微かな戦慄が伝わってきて、先ほどとはまた違った痛みをエリアスの胸に刻みつけていく。
「ええ。あなたに・・・。あなたに贈りたい」
アルフリーダの指先が動き、エリアスの手の内側からリンゴを掬い上げるようにして持ち上げる。
そっと。その手つきはまるで自分には過ぎたものを受け取るように慎ましく、どこか痛々しいほどだった。
「ありがとうございます」
アルフリーダが笑みを浮かべて、エリアスのリンゴを胸に抱いた。その声がほんの少し掠れている。今にも泣きだしそうなほどに。
エリアスの空っぽの手には、アルフリーダの冷たい体温の余韻だけが蟠っている。残された指の感触と、それ以上に答えの出ない切なさを包み込みたくて、エリアスは思わずその冷たさを握りしめた。
何を考えている?そう聞ければどんなに良いだろうか。普通の恋人や、それこそ婚約者同士のように。アルフリーダが胸に秘めている”痛み”を少しでも自分が少しでも理解出来たら——
「帰りましょうか」
出口のない堂々巡りを振り払い、エリアスは握った手を開いてアルフリーダに差し伸べた。冷たい夕風が二人の間を通り抜けていく。アルフリーダが「ええ」と頷き、そっと手を重ねてくる。今日の名残のように、遠くではまだ音楽が続いている。夕闇が降り始める帰り道、二人の間に流れるのは重苦しい沈黙。
手の中で直に感じるアルフリーダの体温と、あの悲痛な揺らぎの理由が分からぬまま、ただ緊張で身を強張らせて歩いた。
「このリンゴ、焼きリンゴにしましょうか?それとも朝食のお粥に入れます?」
急に呑気とも取れる声が、予想外に突飛な質問を投げかけて来て、エリアスの足が思わず縺れた。
見ると、リンゴを持ち上げてアルフリーダがいつもの笑顔で微笑みかけてくる。先ほどの傷も、罪も、切なさも、葛藤を抱えたような重苦しさも余韻どころか、欠片すら微塵も感じられない。
「え?あ、あの・・・怒っておられたのでは?」
アルフリーダの目がキョトンと丸くなる。
「え・・・?」
エリアスは姿勢を正して頭を下げた。
「先ほどは、不遜極まる暴言を吐き、誠に申し訳ございませんでした。あなたの慈悲深い心を傷つけるなど、あってはならないことです。どうかお許し——」
「ちょ、ちょっと待って下さい。なぜ、私が怒らねばならないのです?」
アルフリーダが戸惑ったような指先が、頭を下げ続けるエリアスの言葉を遮った。衣服越しに伝わる微かな体温に、エリアスの背中がピクリと硬直する。
「謝らなければならないのは私の方です。騎士であろうとするあなたに対し、軽々しく”優しい”などと。・・・あなたの本質を知っているなどと生意気な口をききました」
アルフリーダの声は柔らかく、そして潔かった。
「あなたの騎士道精神を汚した私を、お許しください」
姫君が自分のような者に頭を下げている?エリアスは信じられないものを見ているような気になった。知らぬうちに顔を上げ、腰を折って頭を下げるアルフリーダの後頭部を、ただただ見つめた。
「それなのに、あなたは——」
アルフリーダが顔を上げて、こちらに微笑みかけた。
「こんな私に、リンゴを下さった」
その混じりっ気のない、積もったばかりの雪のような純真な笑み。醜い自分と言う泥濘に、そっと降り積もる雪。汚れを責めず、避けもせずに。ただ白く、ただ優しくエリアスを包み込んでいく。
「いえ」エリアスはぎこちなく首を振った。
「最初から、あなたに贈るつもりでした」——あなただけに。
喉元まで上がってきた言葉を、エリアスは言葉をそっと飲み込んだ。
アルフリーダの表情がかすかに解ける。まるで、心の奥の小さな雪が溶けたように。空気がふっと和らいだ。
「で、エリアスはどちらが良いと思います?」
「どちら・・・とは?」
話が見えずに問いかけた時、アルフリーダが呆れたように眉を寄せた。
「ですから!リンゴの食べ方についてですわ。焼きリンゴにするのか、お粥に入れるのか」
「あ、あなたに差し上げたのですから、お好きにして下さい」
咄嗟に”騎士の仮面”を引っ被り、エリアスは取り繕ったような笑みを浮かべて見せた。しかしそれがいけなかったようだ。顰められた眉が、今度こそピクリと持ち上がる。そして、珍しくむきになったような口調でアルフリーダが言い返してきた。
「あなたの好みを伺っているのです!」
「え——?」
間の抜けた声が勝手に漏れる。いつもは境界線の向こう側で優しく微笑んでいるだけの主が、目くじらを立てて詰め寄ってくる。これは、緊急事態だ。答えないわけにはいかない。
「で、で、では・・・」
混乱した頭に、ふわりと甘い香りの幻影が浮かび上がる。ふんわりとした丸いパンケーキ。その上に煮たリンゴを大きく切って乗せたらどうだろうか。あるいは薄くスライスして。「パンケーキが良いですね」と言いかけて、エリアスは咄嗟に言葉を飲み込んだ。とっくに成人した男の言う言葉ではない。これではまるで子供か、あるいは甘いもの好きのカミルと同レベルではないか!
「あ、あなたのお好きな物で!」
「答えになっていません!」
凛とした、しかし確実に怒気を孕んだ声に一括されて、エリアスは完全にすくみ上った。今、俺はどういう状況なんだ?己の浅ましさを悟らされ、それでも命を懸けて守ると誓った主から、リンゴの調理法で本気で詰め寄られているのか?
「良いですか?エリアス。私はあなたに、騎士としての完璧且つ義務的な返答を求めているのではありません。『お好きに』などと言う言葉は思考の放棄であって、時に相手への不誠実にもなり得るのです。そもそもリンゴと言う果実は、生で食すのかそれとも過熱をするのかと言う点において、甘みも触感も劇的に変化します。それをあなたは——」
すれ違う町の人々が、こちらに視線を向けて、クスクスと笑いを嚙み殺しながら通り過ぎて行く。一方的に叱られ、身をすくめているエリアスと、矢継ぎ早に言葉を繰り出すアルフリーダ。祭りの夕暮れ時にこれほどの余興はないと言いたげに。エリアスは返す言葉も見つからず、ただ頭を下げつつ、アルフリーダの背を追った。




