第二十六話 収穫祭⑥『境界に刻まれた傷痕』
「美味しかったですか?」
「え?ええ!勿論です!」
勢いよく返ってきた返事が、あまりにも微笑ましくてエリアスはついに目を細めた。
嘘が下手な人だ・・・。
エリアスが席を立ってアルフリーダに近づくと、孤児たちの顔にサッと不安と恐怖の色が走った。顎の動きがピタリと止まり、小さな肩が一斉に強張る。その怯えを意に介さず、エリアスはリンゴが大量に詰まった籠に、おもむろに手をかけた。
大した重さではないな。だが——
エリアスはチラッと孤児たちに視線を向けた。ボロの下から覗く腕は細く萎びていて、若木と言うよりも枯れ木のようだ。顔色は悪く、唇はひび割れだらけ。ろくに食べていないのが見て取れる。
——ここは主に倣うとしよう。
エリアスはワザとらしく肩で息をして、腕を振るわせ、眉間にこれでもかと深い皺を刻んで見せた。
「うっ・・・!こ、これは、何という重さだ・・・!」
アルフリーダが目を丸くして「大丈夫ですか?」と手を伸ばしてくる。エリアスが目配せすると、すべてを察したアルフリーダが、さも困ったように頬に手を当てた。
「まあ、エリアスでも持てませんか?困りましたわ~。どなたかこの籠を『軽くするお手伝い』をして下さる方は、いらっしゃらないかしら~?」
子どもたちの怯えた目が、一瞬ポカンと見開かれる。そして、ゆっくりとか細い手が上がった。
「あ、あの・・・。僕、『軽く』できるよ」
消え入るような声。しかしその一言が合図になった。
「ありがとう!エリアス兄ちゃん!」
おずおずから始まった『手伝い』の志願者たち。気が付けば、エリアスの前には小さな行列が出来あがっていた。遠慮がちに。でも確かな足取りで。誰に命じられたわけでもないのに、行儀よく順番を待っている。
こちらに向かって手を振る子供に、手を振り返してやるとアルフリーダが側に来て、フフっと笑った。
「やはり、あなたはお優しいですね」
エリアスはとぼけたように肩をすくめて見せた。
「何のことですか?ただの鍛錬不足ですよ。お恥ずかしいことです」アルフリーダが小さく眉を顰め、すべてを見透かしたような、酷くやわらかな笑みを浮かべた。
「誤魔化さなくても、私には分かっていますよ。あなたの本質を」
ドキリ。エリアスの心臓が凍り付いた。
本質——。自分の心臓が全身に血を送り出す音が、聞くに堪えない雑音のようだ。
姫と騎士と言う踏み越えられない境界線を、敢えて踏み込んだアルフリーダの優しさ。それは分かる。けれど——
アルフリーダの手を取り必死でステップを追いかけていた時の、手に伝わってきた彼女の体温。ディランをきっぱりと拒絶したミレイユと、諦めた自分との対比に「情けない」と漏らした弱さ。菓子に齧り付いて口の周りをベタベタにしていた、あの愛おしい少女のような笑顔。そして、孤児たちに食べ物を分け与えるための、不器用で可愛いらしい嘘。それらを目の当たりにしたことで、最早抗いようのないほど急速に肥大化してしまった彼女に対する想い。
今まで、そこにあると知りながら、ずっと背中を向けて見ないふりをしてきた感情。忠誠心を笠に着て、己の醜い欲を隠し続けてきた。そんな自分の浅ましい本性こそがアルフリーダの言う「本質」だと、今ここに突き付けられたような気がして、エリアスは心底震えあがった。
その凄まじいまでの恐怖が、最悪の防御反応となって、エリアスの口から飛び出した。
「・・・私の、何を分かっていると言うのです?」
ボソリ。と。拒絶の色を明確に孕んだ、硬く冷え切った声が。言った瞬間、「あっ」と血の気が引いた。
しまった。と思ってももう遅い。
アルフリーダの瞳が一度、これでもかと言うほど大きく開かれた。沈黙が流れる。金色のまつ毛が震えたかと思うと、一度ふっと伏せられた。
彼女の端正な顔立ちに、まるで大切なものを足蹴にされたような陰りが落ちる。
「ち、ちが——」言いかけた言葉をアルフリーダの凛とした声が遮った。
「分かりました。では、こう言い換えましょう」
アルフリーダが目を上げる。そこには、揚げ菓子を頬張る無防備さも、下手な演技で子供たちを誘う不器用さもない。姫の矜持が宿っている。それと同時に、その瞳からは温かみさえも消えていた。いっそ冷たいと言っても良いほどに。感情のない瞳に、たじろぐエリアスの目の前で、アルフリーダの形の良い唇がそっと開かれる。
「あなたは、真に騎士なのですね」
——騎士・・・
アルフリーダの言葉が鋭い刺突剣のように、エリアスの胸を直撃した。言葉が刺さった胸から、正体不明な強烈な違和感が血のごとく身を伝い、這うように流れていく。
なぜこんな気持ちになる?今朝、踊りの直前に「我が騎士」と呼ばれたときは天にも昇る心地だった。身の程知らずに胸を躍らせ、彼女の盾として生きる誇りに満たされ、浮かれていた。
けれど、今では全く違う言葉に聞こえる。
突き付けられた「騎士」と言う冷たい響きが、果てしない暗闇から、もう一人の自分を目覚めさせた。ゆっくりと闇の中で身を起こす己の声が、醜い本音を、冷酷且つ淡々と、エリアスの前にあげつらい始めた。
『何を狼狽えている。自業自得だろう』
『姫の騎士だと?忠誠心だと?笑わせるな。お前の綺麗な忠誠心など、とっくに腐れ落ちていたのだろう?』
耳の奥で、自分の声で。自分自身が語り掛けてくる。
『身の程を弁えた盾のふりをして、本音はもっと彼女に近づきたい。その気高い心ごと自分のものにしたいと。本当の婚約者として隣に立ちたいと。そう浅ましく欲張った。・・・違うか?』
——否めない。
守るだけでいいはずだった。誇り高く仕えるだけで心から満足していたはずだった。それなのに、今では、自分の中の「欲」が制御できないほどに膨れ上がってしまっていた。
『彼女は騎士のお前ではなく、一人の男としてのお前の本質を「分かっている」と言った。それに、お前はどう返した?そうだ。「自分の何を知っている」などと口走り逃げ出した。お前が感じている彼女との境界線。それはお前の臆病さが彼女につけた”傷”そのものだ』
脳裏に響く己の声は、エリアスと言う男の欺瞞を容赦なくはぎ取って行く。
エリアスはどう答えて良いのか分からず、籠に目を落とした。傾き始めた陽の光の下で、籠の底の暗闇に紛れて一つ——。艶のある大きなリンゴが転がっている。エリアスは籠に手を突っ込んでそれを手に取ると、アルフリーダに向き直った。




