第二十三話 収穫祭③『騎士の逃亡』
「そこまでです!エリアス」
耳に響き渡るアルフリーダの声にエリアスは、自分の手が止まるのを感じた。氷に走った亀裂から水が染み出すように、アルフリーダの声が染み込んできた。熱が引くのではない。熱の中に、静けさが流れ込んでくる。その感覚がエリアスをじわりじわりと正気付かせた。
「もう十分です。お離しなさい」
顔を上げると、すぐそこにアルフリーダの顔があった。まだディランを片手でぶら下げ、短剣を握るエリアスの目の前に、白い手が花のように開かれる。底知れない本気の殺意が形を失っていく。
「先ほどあなたが言った言葉を、覚えていますか?」
ひどく穏やかな声が、エリアスの耳を春風のように柔らかく撫でた。
言葉・・・?俺の言った、言葉?
「あなたが取るべきものが剣ではなく何なのか・・・。お分かりですね?」
”あなたの騎士として、どうかその手を取らせてください”
急激に自分の声が蘇り、エリアスはディランから手を離した。ドサッと地面に落ちるディラン。続いて子供のような押し殺した鳴き声が地面を這いずる。
「さ。剣を収めてください」
言われるままに短剣を鞘に収める。カチン、と言う音に、周囲から安堵の息が一斉に漏れた。何人かが半べそで、腰から力が抜けたように座り込んだ。その時だった。
「お~い!俺のレディたちぃ~~っ!」
場違いなほど能天気な声が、張りつめていた空気を無遠慮にかき乱した。誰もが振り返る。エリアスのみならず、そこにいる全ての者たちが——。
男が千鳥足で駆け寄ってくる。片手に酒のジョッキを持ち、赤ら顔の首から蔓草をぶら下げ、酔いで真っ赤に染まった耳には、赤い実を付けた枝を一本引っかけている。
——カミル。
「いや~。もう間に合わねえかと思っちまったぜ!ナンパ踊り!まだ始まってねぇよな?ってか、どうしたよ皆。固まっちまってよ」
伝統的な求婚のダンスを”ナンパ踊り”とは・・・。
その無邪気さが、別の意味で更に空気を凍らせる。地面に転がったままのディランが、痛みに歪んだ顔をカミルに向けた。ぎょろりと動いた目玉とカミルの目が合った。カミルは一瞬だけ小首を傾げて酒臭い息をまき散らした後、にやりと唇の端を吊り上げた。
「ははぁん。お前、身の程知らずにもアルフリーダに手を出そうとしたな?こいつは傑作だ!」
パシンと手を打ち鳴らして、カミルは腹を抱えてゲラゲラと爆笑し始めた。
「あーあ。馬鹿なやつだなあ。けどよ、このエリアスに喧嘩売るなんざ大した奴だ。気に入ったぜ!」
カミルは覚束ない足取りのまま、ディランの肩をガシっと掴んだ。痛みに呻くディラン。
「こりゃ、派手にやられちまったなあ!ほら!男ならいつまでもゴロゴロしてぇねえで、こっち来て飲もうぜ!」
「ひっ!ぎゃっ!?は、はなっせ!」涙目で懇願するディランを「いいからいいから」と無理矢理引き立たせる。数日前のディランに対する怒りもどこへやら。
エリアスの無表情な殺意より、アルフリーダの冷徹な視線よりも、この『すべてを酒の肴にしてくる無敵の泥酔者』の距離感に、ディランは真に恐怖で顔を引きつらせている。酔っぱらったカミルはそんなことには一切の注意も払わない。ディランの腕を、仕留めた獲物か何かのように肩に担ぎ上げ、ある意味颯爽と人込みを掻き分けて去って行く。
あれほど張りつめていた空気がカミルと言う異分子にすっかり毒気を抜かれ、誰もがポカンと口を開けている。
「やべぇ・・・。まだ膝が笑ってら・・・」
ミレイユの手を取り直し、ルークが”はへへ”と間の抜けた笑い声をあげた。ディランの棒切れの一撃を自ら受けるつもりで、微動だにせずミレイユを腕の中に庇った男の足が、今では生まれたての小鹿のように震えている。
まだ緊張と恐怖の余韻が残る中で、アルフリーダがそっとミレイユに歩み寄った。
「見事でした。ミレイユ。あの場で声を上げられる者は、そう多くはありません」
「え?わ、私・・・必死で・・・」
そばかすの散った顔が興奮で赤みが増し、ルークと繋いでいない方の手は震えを抑えるように、エプロンをしっかと握りしめている。その震えごと包み込もうしたのか、アルフリーダが白い手をそっとミレイユへ伸ばし——
寸前で凍り付いたように止まった。そして急に胸元へと引っ込めた。
エリアスは息を飲み込んだ。アルフリーダの手がミレイユを凌ぐほどに震えている。いや、手だけではない。すんなりと細い全身までもが小刻みに戦慄き、血の色を失っていた。
「あ・・・」
自分の手を見下ろして小さく息を漏らしたかと思うと、糸が切れたようにふらりとアルフリーダが、石畳の上に座り込んだ。
「アルフリーダ!」
声が裏返る。先ほどまでの浮かされるような”熱”が、今度はエリアスの中で一気に逆方向へ振り切れる。エリアスは半ば飛びつくように、アルフリーダの傍らへ身を落とした。
「大事ありません。エリアス。ただ・・・、自分がこんなにも情けない人間だったかと思うと、急に力が抜けてしまったのです。それだけのことです」
顔を上げて無理に笑う。その笑顔が痛々しくて、エリアスの胃は激しく締め付けられた。
「そのような事は、ありません!」思わず、強い声が飛び出していた。それは否定というよりも、拒絶に近い叫びだった。
——ミレイユを見ていると、昔の自分が思いだされるのです——
いつかの夜、アルフリーダがポツリと漏らした言葉。その断片が、今になってエリアスの頭の中で鋭く鳴り響いた。今まではただの推察に過ぎなかったが、この瞬間エリアスの推察は確信に変わった。
アルフリーダもまた、諦めたのだ。
自分と同じように、希望を諦念の砂に埋め、叫ぶことを止め、抗うことを止めた。ノルヴァン王の支配の下で、心を殺し、沈黙の殻に自分自身を潜めることだけが、彼女に残されたたった一つの道だったはずだ。だからこそ、理不尽に向かって叫んだミレイユの姿を見て、己の無力さを突き付けられたような気になってしまった。
違う。
エリアスは無意識のうちに、かぶりを振っていた。仮にそうだとしても、一体誰がアルフリーダを責められるだろうか。それは無力さなどではない。生き残るための、あまりにも過酷な戦いだ。
「あなたが情けないなど、ありえません」
「エリアスの言う通りよ」
急に思いもかけない方向から声が飛んできた。見ると、男どもを下に置いたティナが腕を組んで「ふん!」と鼻を鳴らしている。
「あんたはねぇ、これまでずっと”ディランの家の玄関口”って言う、戦場の最前線を勝ち抜いてきたの。で、見事にミレイユを収穫祭まで引っ張りだした」
「ティ、ティナ?」
周囲の女たちがざわつく。そんな声などものともせず、ティナは足元を勢いよく指さした。そこには団子状になった男たちが今だ、その恰好のままで転がっている。
「そんなあんたが”情けない”って言うんなら、ここに転がってる憐れな男たちはどうなるって言うの?」
腰を折り曲げて、大仰に”憐れな”男たちをぐるりと見下ろす。
「ひでぇ・・・」「ティナちゃぁん・・・」団子男たちが口々に弱々しく抗議の声を上げる。そんな男たちを容赦なく踏み越え、ティナがずんずんとアルフリーダに近づいてきた。そして、ドカッとアルフリーダの前に腰を下ろすと、その震える手を、些か乱暴とも言える手つきでぎゅっと握りしめた。
「あんたは強いの。分かった?」
アルフリーダの大きな目がティナの勢いに飲まれて、ただパチパチと瞬きを繰り返す。
「返事!」
「は、はい!」
「よ~し、それでいいの。今度”情けない”だの”弱い”だの言ったら、そうねえ・・・」
アルフリーダの手を引いて立ち上がらせながら、ティナはふと考えるように首を傾け、急に何かを閃いたようにニカッと顔を輝かせた。
「そうよ!エリアスにあんたの”好きなところ”をここで、大声で十個叫ばせるからね!」
「なっ・・・!?俺は関係ないだろう!?」
思わず素で声を荒げると、ティナがジロリと冷ややかな視線をこちらに突き刺した。
「はあ?あんたそれでも婚約者?アルフリーダの問題はエリアスの問題。アルフリーダの涙はエリアスの責任!」
「そう言う問題では・・・っ」
必死に訴えかけようと立ち上がった瞬間、エリアスの視界に飛び込んできたのは——
あの凛としたアルフリーダが、頬を真っ赤に染めて、指先を胸元でそわそわと動かしている姿だった。
「あ、あの・・・アルフリーダ?」
その唇が、何事かを呟くように動いた。”私も、聞いてみたい・・・”
そう、言ったのか?いや、見間違いか?
主の思わぬ裏切りにエリアスが立ち尽くしたとき、広場全体かが割れるような爆笑と歓声に包まれた。
「こいつは、面白れぇ!」「おい!エリアス!婚約者が聞きたいって言ってんぜ?」「今、叫んじまいなよ!ほら!」「男を見せろ!エリアスー!」
耳の奥がグワングワンと鳴り、視界の端からジリジリと白く霞んでいく。
ま、待て。何がどうしてこうなった?
ミレイユが口元を押さえて笑っている。それを支えながら、一緒になって「ほら!叫べよ!」とヤジを飛ばすルーク。団子になっていた男たちもようやっと起き上がり、口々に煽り文句を投げつけてくる。
音楽が復活し、周囲で何人かのカップルたちが流れるように踊りを再開し始める中、エリアスはアルフリーダの手を勢いよく掴んだ。
「え?あの?」
「ここは、引きます」
喧騒とヤジが背中に追いすがってくる。それをひたすらに振りほどき、エリアスはアルフリーダの手を引いて、踊りの輪の外へと駆け抜けた。祭りの喧騒が遠ざかっていく。午後の陽光が石畳に落ち、並んで伸びた二人の影が軽やかに走り抜けていった。




