第二十二話 収穫祭③『絶対零度の殺意』
「ルークを傷つけないで!!」
ミレイユの金切り声が、力強く打ち鳴らす鐘のように鳴り響き、ディランの手が震えて止まった。
いつもディランの影に怯えていたミレイユが、ルークの腕の中から半身を乗り出すようにして、真正面からディランを睨みつけている。その瞳には、過去の従属の色は微塵もない。ただひたすらに、身を挺して自分を守ろうとしてくれている青年を、今度は自分が守るのだと言う、激しい怒りの炎だけが燃え滾っていた。
「どうして、何でもかんでもあんたの許可がいるのよ!」
ディランはあまりの衝撃に顔面から一気に血の気が引き、頂点を突き抜けた怒りで、ぶるぶると身を震えわせている。
「お前は俺の妹で——!」
「妹である前に、私は一人の人間なの!!」
一人の人間——
以前ミレイユを庇った時、ディランに向けて言い放ったアルフリーダの言葉だ。
「人間だぁ?」ディランは引きつった薄笑いを浮かべると、振り上げた棒切れをわざわざ肩に担ぎ直した。そして、まるで捕食者が獲物を値踏みするように、ゆっくりとした足取りでルークとミレイユの周囲をぐるりと巡る。
「女の分際で、ふざけた口利きやがってぇ・・・。お前はなあ、黙って俺の後ろで震えてりゃいいんだよ!」
エリアスは思わず吐き気をもよおした。この男は完全に自分に酔いしれている。なんなら狂っていると言っても過言ではないだろう。世の中のどんな意見よりも、自分の言い分こそが正真正銘揺るぎないものだと信じ切っている目。ただ一人、他でもない自分が、世の理を握っているとでも言いたげな、絶対正義を名乗る者の目だ。
さあっと人が引いていく。ティナの周りで転げている男たちですら、顔を強張らせディランから距離を取ろうと身を捩っている。
いつの間にかまた音楽が止まっている。誰もが言葉を失い、ディランに対する計り知れない嫌悪感が、周囲から音を奪っていった。巻き添えを喰らう恐怖、そして狂人と化したディランに睨まれることへの本能的な怯えが、人々の足を地面に縫い付けている。
エリアスは、慎重にディランとの距離を測った。一歩。いや、一歩では届かない。もう半歩分か。一気に距離を詰めなければ被害が大きくなる。
その時、急にディランが大仰な身振りで周囲の人々に声を張り上げた。
「なあ!お前らもそう思うよなあ!?」
——己の圧倒的な正論に誰もが恐れ入り、敬い、反論する余地もない——
嫌悪の静寂すら、自分への畏怖とでも思っているのだろうか。血走った目に、浅ましい自尊心の笑みが浮かぶ。
「守ってやってる男に従わねえ女にゃ、教育が必要だろう!?」
ディランは恍惚と勝ち誇った笑みを浮かべて、己の高説の同意を求めるかのように周囲に視線を向ける。その醜悪極まりない視線とぶつかり合ったものは、男も女も関係なく目を逸らし、顔を背け、怯えたように身を震わせた。その態度がディランをより一層の全能感へと引き上げていく。
つと、ディランの目が獲物を見つけた獣のように細められた。
アルフリーダだ。この混沌と波打った怯惰の海の中で、ただ一人顎を真っすぐに引き上げ、凍てつく視線をディランに向けている。
彼女の立つそこだけが、まるで冷徹な冬の結界でもあるかのように、理不尽な暴風を前にしてもその背は微塵も揺らがない。ただ静かに、圧倒的な気品を持って、この狂った道化を冷ややかに見つめている。
「なるほどなあ。・・・お前が吹き込んだんだろ?」
引っさげた棒切れを肩から下ろし、その切っ先を、その美しい眼前へと真っすぐに向けた。ヒュッと棒切れが空を切る。その瞬間、エリアスの中で体と感情が、音を立てて断ち切れた。肉体が完全に思考を置き去りにした瞬間だった。
「・・・っ、ぐっ、あぐ・・・っ!」
潰れたカエルのような無様な悲鳴と、カランと言う乾いた音がほんの一瞬、ぼんやりとだけエリアスを現実を教えた。
自分の手がディランの手首をひねり上げ、絞め上げていく。自分の手の中でディランの骨がミシミシと音を立てている。それでもエリアスは力を緩めるつもりはなかった。タガの外れた野生の握力で、エリアスは容赦なくディランを締め上げる。
——次はない。
そう警告したにも関わらず、二度もアルフリーダに牙を剥いたのだ。
「ひっ!ぎぃぃ!ぐあああっ!離せ、離せぇぇぇっ!」
涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにして暴れる男を、エリアスはただ感情の消えた双眸で見下ろした。ディランの泣きわめく声も、何もかもエリアスの耳には入ってはこない。脳内からは、一切の雑音が消え失せていた。ただ、沸騰するような、それでいて凍りついたような憤怒だけが、理性を一瞬にして消し去り、代わり研ぎ澄まされた「純粋な殺意」が全身の血を支配する。
我が主を愚弄したこの右手——。この無礼な右手を、もう二度と使い物にならぬようにしなければ。
エリアスは無意識のうちに腰の短剣に手が伸びていた。丁度良い。これで切り落としてやろう。
カチリ、と。静まり返った空間に、小さく、けれど酷く明瞭な音が響鳴り。続いて、金属が鞘を滑る耳障りな音が広場に響く。それは感情の乗っていない、文字通り「無情」の抜剣だった。
ディランが急に暴れるのを止めた。引きつった悲鳴すら上げられず、己の『死』を悟ったように、ガタガタと歯の根を鳴らして硬直している。
エリアスはディランの手首に向かって、死神の一閃を振りかぶった——




