第十八話 『希望の残骸』
獣の脂と血の匂い、そしてカミルやブラントの怒号に近い活気に思考を持って行かれ、エリアスが手を止めた時には陽が落ちかけていた。鉈に近い巨大な肉切包丁を置いて、ルークが手首を鳴らしながら回している。力のいる作業をこちらに押し付けておいて、カミルは鼻歌を歌いながら肉にハーブや塩を擦り込んでいる。幾つかは燻製や塩漬けに、後は明日振舞われる料理用に。
血に汚れたエプロンを外し、袖をまくり上げた腕で額の汗を拭った時、耳の奥で警鐘が鳴った。
——静かすぎる
そうだ。アルフリーダはどうしただろう?ミレイユは?夕暮れを告げる鐘は鳴ったか?
ハッとして顔を上げると、広場にいる女達や子供の姿はまばらで、賑やかだった笑い声は薄れ、夕暮れの物寂しげな空気にとって代わられている。額がすうっと冷え、代わりに頭の奥が焦燥感で熱くなる。エリアスは視線を細めてアルフリーダの姿を探した。その時——
「エリアス」
甘やかな声が名前を呼んだ。見ると、見覚えのある細い影が近づいてきている。エリアスはホッと胸を撫でおろした。
「作業は終わりましたか?」
アルフリーダが少し乱れた髪を片手で整えながら笑いかける。もう片方の手には、深い緑色をした木の実や、赤く色づいた蔓草を編んだ花冠が揺れている。素朴だがアルフリーダの繊細さが滲み出ている。
「はい。今終わりました」
後ろから「はあ!?終わってねえっての!」と言うカミルの声が飛んでくるが、エリアスは聞こえないふりをした。アルフリーダがクスっと小さく笑う。
「あなた一人なのですか?ミレイユは?」
アルフリーダは無邪気に小首を傾げた。
「ミレイユですか?先ほど帰られましたよ」
「一人で、ですか?」
アルフリーダの表情が、一瞬ふっと不安そうに陰る。
「いえ、ティナと何やら話しておりましたから、一緒に帰ったのだと思いますよ」
胸の奥の砂粒が大きさを増し、グリっとエリアスを突いた。
あのミレイユがいくらティナと一緒とは言え、勝手に帰るだろうか?
「何だって?」
エリアスの背後で緊張した声が上がった。振り返ると、血と脂に汚れた手を拭きもせずルークが、作業台の向こうで顔色を失っている。
「確かにティナんちは同じ方向だけど、ミレイユの家とは途中までしか一緒じゃねえぞ」
ルークが作業台を乗り越えん勢いで割って入ってきた。声が心なしか震えている。
広場を出てしばらくは女二人で歩いていても、途中からは完全にミレイユ一人きりになる。
「え?私、てっきり・・・」
「我々も帰りましょう」
エリアスはアルフリーダの手を取って、夕暮れに染め上げられた広場に出た。
「おい、何だってんだよ!」と言うカミルの声が背中に飛んでくるが、構っていられない。アルフリーダに合わせているつもりでも、つい早くなりがちな歩調をエリアスは懸命に抑えた。その横をルークが脱兎のごとく駆け抜けていく。
「おいおい、ルークも帰んのかよ!」
ルークは答えない。答える余裕がない以前に、カミルの声など届いていないようだ。エリアス達をあっという間に追い越して、脂まみれの手のままで夕闇の先を、放たれた矢のように飛んで行く。
なんの説明もされてないカミルには、何が起こっているのか分からないだろう。
「お前らぁ、ちょっとパートナーがいるからって調子付きやがってぇぇ!明日の肉、お前らだけとびきり硬ぇ部位にしてやるからなぁぁ!」遠ざかるカミルの、どこか能天気な恨み節を背に、アルフリーダがつとエリアスの腕を引いた。
「私の落ち度です。ティナと一緒だからと安心しきって、途中で別れるなんて想像もしていませんでした」
繋いだアルフリーダの手は汗でしっとりと濡れているのに、ヒヤリとするくらい冷たい。瞳が、見る見るうちに後悔の色に染まっていく。エリアスは首を振った。
「いえ。町の地理に詳しくないあなたが責任を感じることはありません。それに、まだ何かあったと、決まったわけではないのですから」
「そう、ですね・・・」
視線と消え入りそうな声が、暗くなり始めた石畳に落ちた。
その肩が、ほんの僅かに震えたように見える。だが次の瞬間、彼女はクッと顎を引き上げた。後悔を飲み込み、気高い姫らしい強さを瞳宿して。
「後悔しても始まりませんね。私たちも走りましょう」そう言うや否や、アルフリーダはエリアスの手をぱっと離し、スカートの裾を片手で持ち上げるとガタガタした道を駆け出した。
「アルフリーダ!」
完成したばかりの花冠を腕にかけ、姫とは思えぬ勢いで石畳を蹴るアルフリーダの背中を、エリアスは慌てて追いかける。
ルークの姿はとうに見えなくなっている。ミレイユの家へと繋がる東の通り、ティナの家との分かれ道には誰もいない。何人かの通行人が、走るアルフリーダに驚いたような顔を向ける。アルフリーダは、そんな彼らには目もくれない。前方の薄闇を射抜くように、片時も視線を外さない。弾む呼吸と並走しながら、エリアスの胸に不思議な感情が広がって行く。
百年もの時を封印されていた姫君。贅沢なドレスや装飾品を身に纏い、大勢の召使に傅かれ、何不自由ない暮らししか知らないものとばかり思っていた。その姫君が今、薄暮の中を自分と肩を並べて息を切らせて走っている。ただ一人の女性の身を案じて。
風を切り、小さな明かりが灯る家々が視界の後方へと流れていく。
——そして、見えた。
右に曲がればミレイユの家がある辻の反対側に、ポツンと男の影が止まっている。
ルークだ。
せり出した民家の庇が影を作り、ルークは真っ黒に塗られた彫像のように突っ立っている。こちらの足音が近づいてもお構いなしにだ。振り返るどころかピクリとも動かない。
「ルーク!」
ルークは応えない。ただ浅い呼吸を繰り返しながら、幽霊でも見ているかのような虚ろな目で地面を凝視している。
なんだ?また、ディランに殴られでもしたのか?ルークの横顔が浮かび上がって見えてきた時。
「ああ!そんな・・・っ」
隣を走るアルフリーダがルークの足元を見て、悲痛な声を上げた。唐突に立ち止まりカクンとそのまま、地面に膝から崩れ落ちる。スカートの裾が舞い、ルークのブーツにふわりとかかった。
夜の闇が忍び寄る辻に、太陽の最後の光が細く消えていく。その消えゆく光が、無慈悲にも照らしたもの。
それは泥を被り、無残に踏みにじられ、壊れたガラス細工のように、バラバラに砕け散ったドライフラワーの破片だった。色鮮やかな木の実は靴で踏みつぶされたように真っ二つに割れ、丁寧に結ばれていたはずのリボンは引きちぎられて泥水に浸かっている。
アルフリーダの震える指先が、泥の中からリボンを掬い上げた。
「・・・ミレイユ・・・」
かさり、と。
乾いた秋の風が、”主”を失った花冠の「死骸」を虚しく揺らした。




