第十七話 『陽だまりの不協和音』
静かに、でも確実に、噂話は野火のように広まっていった。あの日、アルフリーダがディランの手を叩き落とし、恥を知れと言った。誰も大きな声では言わない。誰もが密かに、そしてどこか誇らしげに囁き合っていた。もちろん、いい噂ばかりではない。中には「女のくせに」だの、「調子に乗りやがって」だの、口汚い雑音も混じっているが、噂の”主流”は違った。
”暴君を打ち負かした聖女””
弱きものを守った気高い女”
そんな風に語られていた。
収穫祭の前日の昼下がり、ようやく祭壇が完成した。ルークと二人で立てた木柱も、女たちが作ったリースとリボンで飾り付けられて、誇らしげに並んでいる。あれから、途中一日だけ雨に降られたが、それ以降はずっと天気に恵まれたおかげで、どうにか収穫祭にまで漕ぎつけられた。
エリアスは胸を反らして、完成したばかりの祭壇を改めて見上げた。供物は夜のうちに動物などに食い荒らされる恐れがあるので倉庫にしまってある。そうやって見れば、今はまだ祭壇と言うよりも、ちょっぴり歪んだ木製舞台と言うところだ。
「なんとか、間に合ったな」
「ああ。お前のおかげでな」
隣でルークが同じように祭壇を見上げ、くすぐったそうに笑みを浮かべた。ディランに殴られた頬骨のあたりがまだ少し黒っぽいが、腫れはすっかり引いている。
あの朝の事件の変化はアルフリーダだけではない。ルークとミレイユ、二人の間にも言葉以上の何かが通い始めているように見える。埃の舞う作業の合間、時折ルークがミレイユと視線を交わしているところを、エリアスは何度か目にしていた。互いの想いを確かめ合うような沈黙は、慌ただしい広場の中で、そこだけ切り取られたように穏やかだった。
「あれから・・・、何もないか?」
脱穀機を片付ける騒音に紛れ込ませるように、エリアスは短く聞いた。脱穀作業はまだ終わってはいないが、明日は収穫祭だ。そのまま置いておくと手狭になるし、酔っ払いが続出する祭り会場では万が一の事故に繋がりかねない。
「ああ。あの朝以来、あいつとは顔を合わせていないし、作業中はお前がいるからな」
ルークはそう答えてから、ふっとエリアスの方に向き直った。そして気遣うような表情を浮かべたかと思うと、急に吹き出した。
「いや、・・・すまねえ。”お前は大丈夫か?”なんて言いかけちまったから」と言いながらルークはまだ笑っている。
「あいつがお前をどうこう出来るわけがねぇよな。けどさ」
ルークの表情から笑みが消え、ふっと不安の色に塗り替えられる。
「アルフリーダはどうなんだ?あの時、ディランに向かって真っ向から『恥を知りなさい』なんて言い切っただろう?俺たちのせいで逆恨みされてなきゃいいんだが」
ルークの視線が女達の方に向く。アルフリーダは、干しブドウを入りの焼き菓子を冷ましながら、ティナたちと楽しそうに笑っている。パイや肉料理などは、生地作りや下味までを済ませておいて、祭り当日の早朝から酒場のブラントと女たちが協力してこしらえる。菓子類は前日までに作っておかないと、とてもではないが全員の口に行き渡らない。口と言えば——
甘い香りに群がる子供たちに、エリアスの口元が思わず緩んだ。女たちが「まだよ」「明日ね」などと言いながらも、その小さな口に試し焼きの菓子を一つずつ入れてやる。その様子は、まるで鳥のヒナに餌をやる親鳥たちのようだ。その輪の中にミレイユも混ざっている。笑顔で。
「まあ、余計な心配だったかな。アルフリーダに手ぇ出すような真似をしたら、お前が黙っちゃいないもんな」
横目でチラリとこちらを見る。エリアスは、ルークからアルフリーダに目を向けた。初めて出会ったあの日から、まだ一月ほどしか過ぎていないと言うのに、頬はうっすらと日に焼け、白っぽかった服の裾は砂色に変わっている。それでも、あの血が染みついた豪奢なドレスを身に纏っていた姿よりも、ずっと眩しく美しく見えた。
じっと見つめていたからだろうか。視線に気づいたアルフリーダが、こちらに向かって笑顔で手を振った。
「おーおー。妬けるねぇ」
「・・・黙れ」ワザと大げさな仕草で、覗き込むルークを短くいなして、エリアスはアルフリーダに小さく手を振り返した。
確かにあの時エリアスは禁忌の剣、エクリア=ノクスを選んだ。希望を”諦め”と言う砂に埋め、聖剣ルーメン・アマリアに背を向けた。その事実は変わらない。けれど、後悔はしていない。誓いも揺らがない。
アルフリーダが姫として、騎士である自分の事を”我が半身”と呼んでくれたこともまた変わらぬ事実だ。
アルフリーダを守る。それだけだ。
薪の匂いに混じって、肉の生々しい匂いが漂ってくる。酒場の前で、椅子二脚に大きな板を渡した台の上に、明日の祭りで振舞われるであろう見事な肉の塊が並んでいる。その中の前にカミルがいた。ナイフを器用に使いこなし、軒先に吊るしたイノシシの半身から肉を削ぎ落していく。おそらく酒場の中は、オーブンを使う女たちによって占拠されているのだろう。
「俺たちもあっち、手伝うか?」
ルークの誘いにエリアスは一度頷きかけた。が、その時首筋を冷たい風に撫でられたような違和感に襲われた。嵐の前、晴れ渡った空の下で、祖父が風の音の異変に耳をそばだてた時のような。
エリアスは、視線でアルフリーダとミレイユの姿を追いかけた。
丁度その前を、酒樽を転がす男たちが陽気に笑い合いながら横切って行く。一瞬景色が遮られた。だが樽が通り過ぎても、二人は変わらずそこにいた。
どさくさに紛れて菓子を二つ取ろうとした子供を、ティナが捕まえて怒っている。他の女たちが笑いながら宥め、その輪の中で、アルフリーダとミレイユも笑っていた。ディランの影などどこにもない。平和そのものの光景。
それでも、エリアスは小さな何かを感じていた。言うなれば、靴の中に入り込んだ砂粒のような。無視できなくはないが、そこにある不快な何か。
変に誇り高い男が、朝の通りと言う衆人環視の中で恥をかかされた。それがどれほどの憎悪を産むことか。追い詰められた獣は、逃げ出すよりも先に、一番弱い喉元に牙を剥く。
「あ?エリアス、どうした?」
「いや。カミルを手伝おう」
そう言ってエリアスは身を翻した。胸の奥の砂粒は、まだ消えてはいなかった。




