第十六話
「ったく!どこまでクソなんだよ、あいつは!」
カミルの押し殺した怒鳴り声が、井戸の石壁に反響した。その直後、彼が放り込んだ桶が、ばしゃん!と水面を叩く。
「何があった?」
共同井戸まで来たのは正解だった。ルークの傷も冷やせるし、ミレイユもディランのいる家から距離を置ける。
エリアスは、ルークの怪我を確認しながら問いかけた。頬が腫れ、唇が切れて血が滲んでいる。ルークが返事をしようと口を開きかけ、つぐむ。目が井戸から少し離れたところにいるアルフリーダ達の方を向いている。崩れて低くなった石組みの塀に共に腰を掛け、アルフリーダは胸に、泣いているミレイユを抱きよせている。撫でさする手の下では、か細い背中がまだ小刻みに震えていた。
「まあ、大したことねえよ。ちょっと殴られただけだしな」
「説明になっていない」エリアスが呆れて言うと、ルークがまたもや軽い口調で答えた。
「本当に何でもないって。ただ、仕事に行こうとしたらミレイユが外に出て来て・・・。んで、ちょっと挨拶しただけだ」
「はあ?たったそれだけで、これかよ!」
ギッギッとテンポよく釣瓶を引き上げ、カミルは冷たい水が入った桶をルークの面前に置いた。バシャッと飛んだ水滴が、エリアスの靴を濡らす。
「騒ぐほどじゃねえって。まあ、顔の腫れはしばらく引かないかもしれないけどな。ははっ・・・いてっ!」
笑おうとしてルークは痛みで表情を歪ませた。
「まったく、ざまあねぇよな。ほら、しっかり冷やせよ」
促されて、ルークはおっかなびっくり桶に手を入れる。そして、意を決したように眉を引き上げると、腫れた顔面に勢いよく水をかけた。
「いてえ!じゃなくて、冷てぇ!」
ルークの最大限の強がる声がした時——
「ごめ・・・なさ・・・」
あちこちに苔が生えている井戸端に、蚊の鳴くような声が落ちた。
ミレイユがアルフリーダから顔を上げて、こちらを振り返るように見つめている。目の周囲が涙で腫れ上がり、そばかすが見えないくらい赤みを帯びている。エリアスは慌てて目線を逸らした。泣きはらした顔を見られたい女性はいないだろう。
「私のせいで・・・ぶたれて・・・」
「ミレイユのせいじゃないですよ」
アルフリーダの指がすっと伸びて、ミレイユの頬に残った涙の痕を優しく拭う。
「あなたは何も悪くありません」
その声音は驚くほど柔らかい。エリアスはそのやりとりに自然と目が吸い寄せられた。ここまで走ったせいだろうか。まとめた髪が少し乱れ、一筋の金髪が左目にかかっている。それすらも彼女の気高い強さの証のように見えて、エリアスは目を奪われた。
「アルフリーダの言う通りだ。お前は何も悪くない」
ルークが桶の水を掻き、ニヤッと笑ってみせる。本人は恰好をつけているつもりかもしれないが、腫れのせいで右目の周りには黒と紫が混じりあった痣ができ、顔に至っては右半分の輪郭がほぼ倍になっている。控えめに言っても、痛々しい。
「でも・・・。あの時、私が・・・声なんか、かけなかったら・・・」
「そんなに言うんならさ——」
ミレイユの言葉を遮って、桶の前にしゃがみこんでいたルークが急に立ち上がった。わざとらしく肩をすくめ、ゆっくりとミレイユに歩み寄る。そして、まだ水が滴っている手をすっと差し出した。
「収穫祭、俺と踊ってくれないかな?」
「・・・え?」ミレイユのグレーの瞳が大きく見開かれる。
カミルが呆れたようにため息をついた。
「お前なぁ・・・。今、それ言うかぁ?」カミルの言葉があまりにも的を射ていて、エリアスは思わず小さく頷いた。けれど、ルークの無鉄砲かつ真剣な背中を見てしまうと、結局言うべき言葉が見つからない。その時——。
ザバーーッ!
「うわあ!何すんだ!」
ルークが跳ね上がる。頭から水をぶっかけられ、顔も髪も服も、全部びしょ濡れだ。その横で空の桶を小脇に抱えたカミルが満面の笑みで仁王立ちで胸を張っている。エリアスは今度こそ本気で、額を手で覆った。
「怒るなよ。色男。収穫祭まであと何日もねぇんだぞ?女の子と踊るんなら、その顔、早く何とかしてえだろう?」
「色男じゃねぇよ!ってか、冷てぇんだよ!」
「まあまあ、落ち着けよ。な?」「うっせえよ!」
子どものように逃げ回るカミルと、追いかけるルーク。これは、いよいよ頭が痛い。
その時ミレイユが立ち上がった。手が自分の腰に伸びる。するっとエプロンの紐を解き、ミレイユはおずおずと走り回るルークにエプロンを差し出した。何回も洗われ、使い込まれて柔らかくなってしまったようなエプロンだ。
「良かったら・・・。これ、使って?」
カミルを追いかけまわしていたルークの動きがピタリと止まり、ミレイユの方へ向き直る。
「え?けど、お前、それ・・・」
ルークが戸惑ったように目を逸らす。布地は貴重品だ。女たちが麻から繊維にし、そして糸にする。その糸を丁寧に紡いでおいて、何か月もかけて布地におり上げる。その工程は、ありふれたエプロンと言えど同じことだ。ミレイユも、替えのエプロンを持っていないかもしれない。けれどミレイユは小さく首を振る。
「一緒に、踊る人が・・・風邪、ひいたら・・・困るから・・・」
その場にいた全員の動きが止まった。カミルは、つんのめったままのポーズで固まり、アルフリーダは唇に手を当てている。目は全員ミレイユに釘付けだ。濡れて張り付いた髪の毛の間から覗くルークの耳が、見る見るうちに真っ赤になっていく。
「おっ、おま・・・!そ、それって・・・!」
エプロンを受け取る手が若干震えているのは、寒さのせいではないだろう。使い込まれたエプロンを大事そうに広げ、ルークは顔を拭こうとして踏みとどまった。「やべぇ。使えねぇや」下を向いてぼそぼそと呟いている。そこにすっと影が差す。
アルフリーダだ。ミレイユの隣に立ち、柔らかな笑みを浮かべている。
「ミレイユの気持ちを、受け取ってあげて下さいね?」
ミレイユのそばかす顔が真っ赤になり、ルークの背中がピクっと震える。その拍子にまた、ぽたぽたと雫が垂れる。アルフリーダはミレイユに微笑みかけると、静かにこちらに歩み寄ってきた。カミルがぶちまけたことで出来た水たまりに、アルフリーダのスカートの裾が揺れながら映っている。
「エリアス」アルフリーダはスカートの裾を持ち上げて、丁寧にお辞儀をした。
「あなたの働き、確かに見届けました」
は、働き?何のことだ?
戸惑いに一瞬頭の中が混乱で一杯になる。それを見透かしたように、アルフリーダがふわりと微笑んだ。
「あの場を、良く鎮めて下さいました。ミレイユの友として、礼を言わせてください」
エリアスは息を飲んだ。働き。”騎士”としての働き。胸の奥で何かが震え、エリアスは背筋を正すと、その場に跪いた。
「・・・恐縮です」
ズボンの膝から下が水を吸い込み、冷たく重く濡れていく。それすら気にならないほど、エリアスの胸の震えの方が、圧倒的に強かった。
自称騎士と呼ばれて、誰にも本気で認められたことなどなかった。それが今。初めて”主君”から認められた。
「立ってください。我が半身」
促されてエリアスはゆっくりと立ち上がる。
「光栄です。アルフリーダ」
本来ならエリアスよりも頭一つ分小さいはずのアルフリーダが、その瞬間だけ、遥か高みから自分を見下ろしているように感じられた。
「・・・は?え?今のなんだよ?」
間の抜けた声が、姫と騎士の静謐な、深謝の空気を見事にぶち壊した。必死にこらえていた足の震えが、カミルの一言で完全に笑い出しそうになる。
「何でもない」
「いやいやいや。何でもなくねえだろ?なんか今さ、アルフリーダ、姫みたいだったじゃん」
「まあカミル。姫だなんて、恐れ多いことですわ」
口元に手を当てて、優雅にそれでいて心底楽しそうに、アルフリーダがころころと笑った。井戸端にはすっかり高くなった日差しが降り注ぎ、いつもの朝の空気が戻ってくる。
ルークはまだ、申し訳なさそうにミレイユのエプロンで顔を拭いている。そしてカミルは・・・。なぜか一人だけおやつをもらい損ねた子供のような顔で腕を組んでいる。
「どうしたのですか?カミル」
アルフリーダの問いかけにカミルは、あからさまに拗ねた視線をエリアスに向けた。
「・・・なんかムカつくから、お前にも水ぶっかけてやろうか?」
「何を言っている」
「何をって、なんかムカつくんだよ!なんで俺だけボッチなんだよ!」
「まあまあ、カミルはお綺麗じゃないですか」
いきり立つカミルにアルフリーダが穏やかにフォローを入れる。
「綺麗とか良いんだよ!モテてぇんだよ!俺も!」
秋の朝風が吹き抜けた拍子に、ルークがくしゃみをする。それを気遣うミレイユの甘い声。そこにカミルの悲哀に満ちた叫びが重なり、慌ただしい朝の一幕は、騒がしさの中でようやく幕を閉じた。




