第十四話
昨日より風が冷たい。ミレイユを連れて広場に向かうのも、今日で三日目だ。あの日以来、ディランは表立った妨害をして来ない。家の中から殺気を含んだ視線を投げてくるか、あるいは今日のように姿さえ見せないか。
まるで暗い物陰から生者の様子を伺っている亡霊のような、薄気味悪さすら感じる。しかしエリアスは、その亡霊に対して無視を貫いていた。守るべきアルフリーダとミレイユが無事ならそれでいい。何よりも、邪魔をされていないのだからむしろ好都合と思うべきだ。
ミレイユはアルフリーダと肩を並べながら、何やら楽しそうに話し込んでいる。たった三日の事だと言うのに、明らかにミレイユの表情には変化が見えている。おどおどと丸まっていた肩がすっきりと伸び、俯き加減な顎にも生き生きとした光が差している。
彼女の笑顔がアルフリーダのおかげだと思うと、胸の奥がじんわりと温かくなる。こんなことを思うのは、おこがましいだろうが、嬉しさとどこか誇らしさに似た感情が混ざり合う。
エリアスはチラリとアルフリーダの横顔を盗み見た。ミレイユに向けるアルフリーダの笑顔は、自分に向けられるものよりも柔らかく、声の調子も包み込むように温かみがある。
——ああ、そうか。
ミレイユだけではない。ミレイユだけが救われているのではない。アルフリーダもまた彼女の笑顔に救われているのだ。誰かと肩を並べ、同じ目線で語り、笑い合う。そんな当たり前の時間を、もしかしたらアルフリーダは、ずっと持てなかったのかもしれない。根拠はない。けれど、エリアスはどこか確信していた。
こんな風に彼女の日々が、過ぎて行けばいい。
女性二人の心地よい声の調子に、エリアスは心の底からそう願っていた。
「ミレイユは踊りたい方はいらっしゃるのですか?お可愛らしいから、きっとたくさんの殿方に誘われますね」
アルフリーダの華やいだ声が響いた瞬間、ミレイユの足がふっと止まった。数歩遅れて、アルフリーダが振り返る。
「どうかしましたか?」
アルフリーダの怪訝そうな声が響いた。エリアスは二人との距離を半歩だけ詰め、視線を周囲へと走らせる。まさか、ディランが?それともあいつの仲間でも潜んでいるのか?
子供たちが笑い声を残して駆け抜けていく。通りにはいつもと変わらぬ朝の気配。仕事に向かう男達。大きな桶いっぱいの洗い物を運ぶ女達。家畜の世話に忙しい者たち。広場へ向かう人々の流れも穏やかのそのものだ。エリアスの右手が無意識のうちに、腰の短剣へと伸びていた。
背後の視覚。家々の影。そしてミレイユの視線の先。
「いえ、違うの。ごめんなさい。驚かせちゃって」
ミレイユが慌てたように首を振った。その声に、張りつめていた空気が僅かに緩む。
「あのね、アルフリーダ。エリアスも」
はにかんだ笑顔がこちらを向く。その笑顔の奥の方に、小さな影が揺れているのをエリアスは見逃さなかった。ぎこちなく頷いたとき、アルフリーダの視線と一瞬ぶつかり合う。細い眉が、きゅっと寄る。彼女もまた、同じように戸惑っているのだろうとエリアスは思った。
「二人とも、本当にありがとう。皆と一緒に収穫祭の準備が出来て、私すごく嬉しい。毎朝二人が連れ出してくれて、心から感謝してる。でもね・・・」
なぜ今、礼を?
ミレイユは相変わらず笑顔のままだ。けれどその笑顔の底の方で、何かが一瞬だけ光を放った気がした。それは長い時間をかけて降り積もった”諦め”と言う名の砂に、今にも完全に埋もれようとしている、小さな、小さな宝石のような輝き。
エリアスにはそれが、ミレイユの「希望」の最後の光のように思えた。
ああ、この感じ。覚えがある。大切に守り抜いていた気持ちを、自ら葬り去る決意。
あまりにも重く降り積もり、掬いだすことも困難なほど沈み込んだ、ミレイユの「希望」の光。その上から更に新しい砂が、残酷なほど穏やかに最後の光を埋めていった。
「私、収穫祭には参加しないわ」
その言葉が落ちた時、三人の周囲だけ、静けさに包まれた。広場の方からは、脱穀機の軽快なリズムに混じって、祭りの準備に忙しい人々の声が聞こえてくる。その活気はすぐそこにあるのに、まるで薄い布地を隔てた向こう側の出来事のようだった。
——ルーメン・アマリア。聖レティアが振るった聖剣。
かつての自分がそうだった。あれを修道院長から賜った時。希望さえあれば、努力さえすれば、どんな光にも手が届くと信じていた。あの頃は——本気でそう思っていた。
挑んでは失敗し、また挑み失敗する。その度に、胸の奥に細かな砂が積もっていく。敗北の度に落ちる砂粒は、最初は軽かった。靴に入った砂と同じ。取るに足らない違和感でしかなかった。パッと払えば済むものだと。けれど自分に負ける度に、聖剣に拒絶されるたびに、その乾いた粒子はかすかな音を立てて降り積もり、重みを増していく。緩やかに。確実に。
エリアスの光は見えなくなった。
——もう、諦めよう。
聖剣は応えてはくれなかった。自分の中でとうとう砂が光を覆い隠したとき、エリアスの手は聖剣ではなく、禁忌へと伸びていた。
額を伝い落ちてきた汗が目に入り、エリアスは首にかけていた布で目を拭った。二、三度瞬きをした視界に広場の光景が戻ってくる。
その中にアルフリーダがいる。女たちに混じり、祭りの夜を照らす松明に使う木の棒を選別している。ミレイユは少し離れたところで、棒切れの先端に巻くボロ布を裂いている。
本気で祭りに出ることを諦めているのだろうか?
禁忌であるエクリア=ノクスに手を伸ばし、正当な持ち主にも返そうともしない自分の罪。その罪が消えることはないが、その先で手に入れたアルフリーダとの日々は何にも代えがたいものだ。禁忌とは言え、自分には掴める剣があった。消えない罪と同時に救いも手に入れた。
ミレイユには何がある?彼女の砂を掘り起こす”何か”があれば——
「よお。手伝おうか?」
背中からかけられた声に、エリアスは振り返った。完成にはまだほど遠い祭壇の側に、一人の若い男が照れくさそうな笑みを浮かべて立っている。明るい茶色の髪。名前は確か・・・そう、ルークだ。
「あっちは良いのか?」
エリアスはチラリと脱穀作業中の男たちの方に目をやる。その瞬間、こちらを伺っていたであろう視線が、サッと散っていく。エリアスは小さく息をついた。男同士の牽制か。くだらない。
「まあ、良くはないけど、こっちはお前一人だろう?」
横に寝かせた材木を、ルークがポンと叩く。エリアスはもう一度視線を脱穀作業の方へ向けた。もう誰もこちらを見ていない。そのくせ細い針のような気配だけは、相変わらずチクチクとこっちへ向いている。自分はいい。誰が何をどう噂し合ったところで、どうと言うこともない。けれどルークは?
脱穀作業を抜け出して女たちに近づいたと、余計な妬みを買うことは彼は承知しているのだろうか。
「・・・いいのか?」
「いいって。それにあれ見ろよ」早くも材木を肩に担ぎ上げているルークの視線の先に、ティナがいた。
テキパキと手を動かしながらも、その眼がこちらを見て語っている。
——ふふん。よく来たわね。たっぷり仕事してもらうわよ——
声まで聞こえてきそうだ。ルークが肩をすくめると、明るい茶色の髪が揺れる。
「ティナに目を付けられちゃあな。今更逃げるとか無理だろう?」
エリアスは苦笑した。「じゃあ、それをこっちに持ってきて、ここをこう支えてくれないか」「こうか?」「いや、もう少し右に傾けろ」 ルークを誘導し、祭壇に立てる柱を床板の切れ込みにしっかりとはめ込む。
「あとは倒れないように固定してくれ。手が欲しい時は遠慮なく言え。すぐに行く」「了解」
ルークに祭壇上部の柱を任せて、エリアスは階段の設置作業に取り掛かる。 自分が立てる以外の木槌の音が響き始める。悪くない。
昼休憩を挟み、風が少し冷たくなり始めた午後。ルークのおかげもあって、祭壇はほぼ完成に近いところまで仕上がっていた。ルークの釘を打つ音が止まり、エリアスはチラッと横目で彼の方を見た。
「・・・あのさ」
斜めに傾いた陽を受けて、茶色の前髪がルークの顔を半分ほど隠している。声は脱穀機の音にかき消されそうなほど小さい。
「お前、毎日さ・・・あいつを、ここまで連れて来てるんだってな?」
「あいつ?」
手を止めないと、自分の作業の音で書き消えてしまいそうだ。エリアスは木槌を置いて、出来上がったばかりの短い階段を上った。ルークは言葉の代わりに、顎でそっとエリアスの背後を示す。
祭壇の柱に巻き付ける鮮やかな色の布を畳んでいるミレイユ。午後の光が彼女の亜麻色の髪の上に淡く落ちている。
「・・・だから、あいつだよ」
「ミレイユか?ジュディのやつに頼まれてな。まあ、頼まれたのはアルフリーダだが」
前髪で隠れていない部分が赤い。あまりジロジロ見るのも不躾だ。エリアスはルークの立てた柱を点検するように、わざと目を逸らした。
「・・・そのさ。俺が言うことじゃないけど。・・・ありがとな」
「なんでお前が礼を言うんだ?」
「え!?い、いや・・・だから・・・俺が言うことじゃないって言っただろ・・・!」
ルークが慌てて頭を振る。その上照れ隠しで髪をかき上げるものだから、耳まで染まった顔が丸見えだ。エリアスは、自分の口元がふっと緩むのを感じた。
なるほど、そう言うことか。大方ルークは、ミレイユの幼馴染か何かなのだろう。家に閉じ込められている彼女を気にかけてはいるものの、ディランに阻まれて連れ出すことができないでいたわけだ。
——もしかして、こいつは・・・。
「そ!それよりさ!お前、踊りの練習してんのか?」
唐突な話題の切り替え。あまりにも見え透いた誤魔化し方にエリアスは肩をすくめた。
「踊り?練習するほどの動きじゃないだろう?」
「自信満々だな。さすがは主役だよ」
「主役?何のことだ?」
ルークは呆れたように腰に手を当てて、エリアスを下から覗き込んだ。
「やれやれ、勘弁しろよ。今、婚約中なのはお前らだけだぜ?先に婚約者の手を取って、うまく踊ってくれないと、俺らが困るんだよ」
祭りの踊りは段階的な儀礼になっている。まず女たちが祭壇の周りで輪になって舞い、豊穣を祝う。続いて女達と入れ替わるように男たちが地面を踏み鳴らすようなステップを踏む。そして最後に目当ての女性に手を差し伸べる。毎年目にしてきた光景だが、エリアスは今まで踊ったこともなければ、誰かに手を差し出したこともない。そういう事とは縁がないと思っていた。そんな自分が主役などと言われると、胸の奥の方がそわそわと落ち着かなくなってくる。
「ま、そう言うことだから頑張れよ。期待してるぜ?」
ルークが笑いながら、またエリアスの背中の向こう側に目をやる。大工仕事で火照った顔に、陽だまりのような穏やかな笑みが浮かんでいる。やはりそうだ。ルークはミレイユに、ただの幼馴染み以上の感情を抱いている。エリアスは、ルークに半歩近づいて声を落とした。
「・・・誘うなら、ディランに気を付けろ」
ルークの表情が一変して、キリっと引き締まる。心なしか体も強張っている気がする。
「あいつはお前が思う以上に厄介だ」
エリアスはルークを通り過ぎ、そろそろ片付けを始めている男たちに視線を向けた。重そうな麦袋を担いで貯蔵庫に向かう男たちの中にディランがいる。ディランの家は養蜂家業だが、この時期は養蜂だの、物作りだのと言ってはいられない。奴の陰湿な目がこちらを向く前に、エリアスは腰を落として余った木材を手早く集めて抱え上げた。ルークの視線は相変わらずミレイユの方を向いている。
「それでも・・・」
目線を動かさず、ルークが呟くように言った。
「あいつを守ってやりたいんだ」
エリアスは、材木の束を抱えたまま俯いた。ささくれ立った祭壇の床板に自分の影が落ちている。
守りたいと思う相手がいると言うことが、どれほど人を強くするのか。自分自身が一番良く知っている。顔を上げてアルフリーダを探す。彼女は皆と一緒に、出来上がったリースを、飾りが取れたりしないよう慎重に積み上げている。祭りの前日まで倉庫にでもしまっておくのだろう。視線に気が付いたのか、アルフリーダがこちらに向かって微笑みかけた。エリアスはそれに軽く手を挙げて応える。
「ミレイユは祭りに参加しないと言っていた」
ルークの肩がピクリと反応する。
「あの兄貴のせいか?」
「多分な。で、お前はどうするつもりだ?」
隣に並んで立ち、エリアスはルークの瞳を見据えた。ルークは一瞬だけ目を見開き、その後強く唇を噛みしめる。
「どうするって・・・決まってんだろ。あいつが来ないって言うんなら——」
「言うんなら?」エリアスは、静かに目を細めた。日が更に傾き、家々の影が覆いかぶさるように、ここまで伸びてくる。ルークはエリアスから目線を外し、また片付けを急ぐ女達の方に向き直った。
「——俺が迎えに行くだけだ」
その言葉にエリアスは小さく息を吸い込んだ。その迷いのない声音が、胸の奥に静かに響いた。
「・・・そうか」
エリアスは階段を降り、広場の端で木材を積み上げ、夜露がかからないように筵を広げて覆った。早くもどこかの家の煙突から、夕餉の支度の匂いが漂ってくる。ルークの決意を否定する気はない。むしろ、その真っすぐさが眩しいとさえ思う。片付けを終わらせるとエリアスはふと視線を巡らせた。ルークはまだ広場にいて、拾い忘れた釘が落ちていないか確認しているようだ。エリアスはその背中に歩み寄ると低く声をかけた。
「困ったら、いつでも頼れよ」
驚いたようにルークが振り返る。エリアスを認めると、ふっと唇を緩めて笑った。
「ああ。ありがとな。さてっと。俺も帰るとするか」
「今日は助かった。また頼む」
「ああ、またな」
軽く手を挙げてルークが腰を上げる。その背中が夕暮れの影に溶けていくのを見届けてから、エリアスも静かに広場を後にした。




