第二十三部 みんな愛してる
朝の空気は冷えているのに、
庭の木々はどこか柔らかい。
久世庵の門が、ゆっくりと開く。
「本日より、営業再開いたします」
エーテルはいつも通り、穏やかに頭を下げた。
声も出ている。
足取りも普通。
顔色も悪くない。
――完璧だった。
かやは横で様子を見る。
違和感はある。
でも、倒れるほどではない。
ルミナは元気に走り回る。
ネメシスは受付を手伝う。
旅館は、何事もなく動き出した。
厨房では橘蒼が鍋を振るい、
フロントでは琥珀が会計をこなし、
難波塾も今日から再開。
すべてが“いつも通り”。
だが。
客が途切れた瞬間、
エーテルの指がわずかに震える。
湯呑みを持つ手が、一瞬だけ力を失う。
すぐに握り直す。
誰にも気づかれない。
縁側で外国人客と話す。
「ニーホンの冬は静かで美しいですね」
「えぇ、音が吸い込まれるんです」
微笑む。
でも視界の端が、少し黒く滲む。
(立て。まだいける)
自分に命じる。
昼過ぎ。
団子を焼きながら、ルミナが聞く。
「パパ、今日は元気?」
「当たり前だろ」
自然な笑み。
本当に、完璧だった。
だが、裏庭に回った瞬間。
誰もいない場所で、
一瞬だけ膝が落ちる。
音は立てない。
地面に手をつき、深呼吸。
「……大丈夫」
そう言って、立ち上がる。
自然エネルギーは使わない。
頼れば、戻れなくなる気がするから。
今は“人として”やる。
夕方。
満室。
笑い声。
温泉の湯気。
団子の甘い匂い。
久世庵は活気に満ちている。
その中心で、エーテルは立っている。
ただ立っているだけで、空気が整う。
でも本人は分かっていた。
整えているのは空気じゃない。
――崩れかけの自分だ。
夜。
帳簿を確認しながら、かやが言う。
「今日、いい滑り出しだったね」
「あぁ」
「やっぱりあなたがいると違う」
エーテルは一瞬だけ目を伏せる。
「……そっか」
その夜。
一人になった部屋で、
布団に倒れ込む。
天井を見上げる。
視界が揺れる。
心臓の鼓動が重い。
でも笑う。
「ほらな、まだいける」
外では雪が静かに降っている。
久世庵は今日も無事に終わった。
家族は誰も気づいていない。
エーテルは守りきった。
――今日だけは。
――その夜。
久世庵が静まり返ったあと。
エーテルは誰にも告げずに外へ出た。
向かった先は森でも山でもない。
街の外れ。
ライトに照らされ続ける広場。
そこに立っているのは――
英雄・恒一の像。
人類を救った男として、
今もなお語り継がれている存在。
エーテルはその前で立ち止まる。
見上げる。
石でできた、まっすぐな背中。
拳を握りしめ、未来を見据える姿。
「……相変わらず眩しいな」
かすれた声。
ここはかつて、
久世だった頃の“仲間”が称えられている場所。
自分は神になり
宇宙を創り
家族を得て
それでも――
最後まで“人間として正しかったのは恒一”だった。
エーテルはゆっくり像の前に座り込む。
冷たい石畳。
背中を恒一像にもたれさせる。
「俺さ……」
「全部持ってたのにさ……」
「一番大事なもの守れなかった」
夜風が吹く。
旗がはためく音だけが響く。
「お前ならどうした?」
「俺みたいに逃げたか?」
「それとも…ちゃんと向き合ったか?」
返事はない。
ただの像だ。
でも――
エーテルにはわかっている。
恒一なら逃げなかった。
壊れても立った。
エーテルは苦笑する。
「ずるいよなぁ……」
「英雄ってさ」
「死んでから完成するんだもんな」
胸を押さえる。
鼓動が乱れる。
視界が揺れる。
「俺はまだ生きてて」
「それでも…もう限界なんだ」
恒一像を見上げながら、ぽつり。
「羨ましいよ」
「お前は…最後まで人間でいられて」
しばらく沈黙。
やがてエーテルは小さく頭を下げる。
「ごめんな」
「俺はもう…英雄になれそうにない」
「ただの逃げる父親だ」
そのまま、動かなくなる。
像の足元に寄りかかるように。
まるで――
英雄に看取られるように。
久世庵ではまだ誰も知らない。
エーテルが
恒一の元へ行ったことも、
限界が近いことも。
久世庵。
夜。
団子屋の片付けも終わり、
フリースペースも静まり返る。
雪が残る庭に、月明かりが落ちている。
かやは帳簿を閉じた。
ぱたり、と音がやけに大きく響く。
何も問題はない。
売上も順調。
塾も問題なし。
旅館の予約も埋まっている。
なのに――
胸が、ざわつく。
「……」
何かが、抜け落ちたような感覚。
手が、冷たい。
指輪に触れる。
無意識に。
エーテルの気配。
いつもなら感じるはずの“体温”みたいなもの。
それが、ない。
「……エーテル?」
小さく呟く。
返事はない。
当然だ。いないのだから。
でも今までだって、
少し離れても“わかった”。
どこにいるか、
元気かどうか、
生きているかどうか。
それが今――
空白。
かやは立ち上がる。
廊下に出る。
静まり返る館内。
木の床のきしむ音だけが響く。
ネメシスの部屋の前を通る。
歌声が微かに漏れている。
ルミナの部屋は電気がついている。
みんな、いる。
いるのに。
「……嫌な感じ」
心臓が早い。
理由がわからない。
理屈じゃない。
女将としてじゃない。
ただの、妻として。
指輪がじんわり熱を帯びる。
ほんの一瞬。
すぐ消える。
まるで、
遠くで何かが途切れかけたみたいに。
「……どこにいるの」
声が震える。
かやは外へ出る。
冬の夜気。
吐く息が白い。
空を見上げる。
星が静かに瞬いている。
その下で――
恒一像の前に座り込むエーテルのことを、
まだ知らない。
でも確実に、
心が言っている。
“今、行かなきゃ後悔する”
かやは迷わず歩き出す。
雪を踏みしめる音。
足取りは速くなる。
その頃。
広場。
恒一像の下。
エーテルの呼吸は浅く、弱く。
視界は霞んでいる。
「……寒いな」
誰に言うでもなく。
遠くで、
雪を踏む音がした。
雪の広場。
英雄・恒一像の前。
エーテルは膝をついていた。
肩で息をして、指先が震えている。
視界が滲む。
身体が、言うことをきかない。
その背後から――
「エーテル!!!」
かやの声が夜を裂く。
振り返ろうとして、ふらつく。
「……かや……?」
その瞬間。
力が抜けて――
前に倒れかける。
かやが駆け寄って、抱き止める。
冷たい身体。
ありえないほど軽くなった背中。
「なにしてるの!!
こんなところで!!」
声が震えている。
「倒れたらどうするの!!」
エーテルは弱く笑う。
「……ごめんな」
「ちょっと、会いに来ただけだ」
かやの手がぎゅっと服を掴む。
「一人で来るなって言ったでしょ……!」
「最近ずっとおかしいのに!!」
その時。
エーテルの視線が――恒一像へ向く。
静かに。
まるで吸い寄せられるように。
「……」
ゆっくり、かやの腕から離れる。
ふらつきながら、一歩。
「エーテル!?
離れないで!!」
「大丈夫……」
弱々しい声。
「ちょっとだけだから」
二歩。
三歩。
雪の上に、血が一滴落ちる。
かやが息を呑む。
「……え?」
エーテルは恒一像のすぐ前に立つ。
手を伸ばして、像の台座に触れる。
冷たい石。
「恒一……」
声がかすれる。
「お前が守った世界……」
「俺、ちゃんと守れてるかな」
膝がガクッと落ちる。
そのまま座り込む。
「なぁ……」
「俺、もう神じゃないんだ」
「ただの人間になってさ」
「……正直、怖い」
かやは後ろで立ち尽くしている。
近づきたいのに、足が動かない。
エーテルは像を見上げて笑う。
「お前みたいにさ……」
「最後まで強く生きたかった」
その瞬間。
身体が大きく揺れる。
咳き込み――雪の上に赤が散る。
「エーテル!!!!!」
かやが駆け寄る。
抱きつく。
「お願いだから離れないで!!」
「私ここにいる!!」
エーテルの視界はぼやけながらも、
かやの顔だけがはっきり映る。
「……かや」
震える手で頬に触れる。
「俺さ……」
「生きたいよ」
涙が一滴、落ちる。
「でも……」
「みんなに迷惑かけたくない」
かやは首を振る。
「迷惑じゃない!!」
「一緒に生きるって決めたでしょ!!」
エーテルの唇がわずかに動く。
「……ごめんな」
また身体が崩れ落ちる。
完全に力が抜けて、かやの腕の中へ。
冷たい雪の上。
恒一像の影。
かやの叫びだけが響く。
雪の中。
かやの腕の中で、エーテルの意識は完全に落ちた。
「エーテル!!」
呼びかけても反応はない。
呼吸はある。
でも浅い。異常に浅い。
像の前に膝をついたまま、かやは震える手でスマホを握る。
「グアラ……今すぐ来て」
声が壊れている。
数分後。
救急車のサイレンが夜を裂く。
担架に乗せられるエーテル。
顔色は青白い。
雪の上に残った血が、現実を突きつける。
救急搬送。
病院の白い光。
ストレッチャーが廊下を走る。
「意識レベル低下!」
「血圧下がってる!」
医療スタッフの声が飛び交う。
かやは廊下で立ち尽くす。
指輪を握りしめたまま。
「……嫌だよ」
小さく、こぼれる。
家族も駆けつける。
ネメシスは何も言わない。
ただ壁を殴る。
ルミナは静かに震えている。
アークは無言で天井を睨む。
手術室のランプが点灯。
赤い光。
長い沈黙。
数時間後。
医師が出てくる。
「命は……取り留めました」
空気が戻る。
でも。
「ただし――」
全員の心臓が止まる。
「極度の過労と、原因不明の内部負荷」
「これ以上無理をすれば、次は保証できません」
ネメシスが唇を噛む。
「……なんで言わなかったんだよ」
ルミナは涙を拭きながら。
「いつも平気な顔するんだもん……」
病室。
静かな機械音。
酸素マスクをつけたエーテル。
点滴。
心電図の規則正しい波。
かやがベッドの横に座る。
そっと手を握る。
「……生きたいって言ったよね」
「聞こえてたからね」
涙が落ちる。
そのとき。
ピクリ、と指が動く。
まぶたが、わずかに震える。
ゆっくり、開く。
焦点の合わない視線。
そして。
かやを見つける。
酸素越しに、かすれた声。
「……怒らないでくれよ」
弱い笑み。
「ちょっと……寝ただけだ」
かや、泣きながら笑う。
「馬鹿」
「本当に馬鹿」
エーテルは目を閉じる。
意識は戻った。
でも身体は、まだ限界。
病室の静寂。
モニターの電子音が一定のリズムを刻む中、
グアラだけが異変を感じ取っていた。
床にそっと手を当てる。
――かすかに、震えている。
まるで脈が弱くなった心臓みたいに。
「……来てる」
低く呟くグアラ。
イリスが振り向く。
「何が?」
「地球の生命循環そのものが落ちてる」
エーテルの自然エネルギー。
それは力じゃなく、地球の呼吸そのものだった。
彼が無理をして削り続けてきたことで、
地球はずっと“延命されていた”。
そして今――
その支えが限界を迎えている。
医療データを見つめながらレオンが震える声で言う。
「エーテルの生命反応と……地殻エネルギーの減衰が完全に同期してる」
「これは偶然じゃない」
アークが拳を握りしめる。
「つまり……」
グアラが静かに続ける。
「エーテルが倒れたら、地球も倒れる」
かやの顔から血の気が引く。
「そんな……じゃあ無理させちゃいけないのに……」
グアラは首を振る。
「逆だ」
「無理をやめたから、今まで抑えていた“歪み”が一気に表に出始めてる」
地球はずっとエーテルの自然エネルギーで
傷を縫い止められていただけ。
今その糸がほどけ始めている。
気候異常
海流の乱れ
地殻活動の活発化
すべてが静かに連動し始めている。
その瞬間、エーテルがうっすら目を開く。
弱々しく笑う。
「……やっぱりか」
「俺が弱ると……世界も弱るよな」
かやが叫ぶ。
「そんなこと考えなくていい!!」
「生きてよ!!」
エーテルは苦しそうに息を整えながら。
「生きるよ……生きたい」
「でもな……」
「俺が休むってことは、地球が耐えてきたツケが一気に来るってことだ」
沈黙。
誰も否定できない。
グアラがついに言う。
「選択肢は三つしかない」
① エーテルが再び自然エネルギーの循環核に戻る(=命削り続ける)
② 地球の歪みを別の方法で肩代わりする存在を作る
③ この星は数十年〜数百年で崩壊
ネメシスが震えながら叫ぶ。
「そんなの……父上が犠牲になる未来じゃないか!!」
エーテルは微笑む。
「だから今まで黙ってた」
「知ったら止められると思ったから」
かや、涙をこぼしながら。
「それでも……それでも一人で背負うなよ……」
エーテルはそっとかやの指輪に触れる。
「背負うんじゃない」
「守ってるんだ」
「この星も、家族も」
テレビのニュース速報。
「専門家によりますと、月が通常軌道よりわずかに地球へ接近していることが観測されました」 「ただちに衝突の危険はありませんが、潮位の上昇、地殻活動への影響が懸念されています」
スタジオの空気が重い。
旅館のロビー。
テレビの光が揺れる。
ナポリネスが静かに言う。
「……月の公転誤差0.003%。あり得ない」
イリスがモニターを展開する。
「潮汐力が増幅してる。これは偶然じゃない」
グアラが目を閉じる。
「地球の生命脈が弱まると、重力の均衡も乱れる」
「月はただの衛星じゃない。地球と対になってる存在」
つまり。
エーテル=自然エネルギー循環核
地球=生命の器
月=重力と潮汐の安定装置
この三つが三角均衡を保っていた。
今、エーテルが弱ったことで
その三角が歪み始めている。
夜。
外に出ると、月が大きい。
明らかに大きい。
ルミナが呟く。
「……近い」
ネメシスが拳を握る。
「月が近づくってことは……」
アークが続ける。
「地球の引力が弱まってる」
つまり逆説的に。
地球が“軽くなっている”。
生命エネルギーが減衰し、
惑星としての重力安定性が落ちている。
病室。
エーテルは天井を見つめる。
「……月は優しいからな」
「俺が倒れたのを感じて、近づいてる」
かやが震える。
「助けに来てるってこと?」
エーテルは小さく笑う。
「いや」
「支えようとしてる」
月が近づくとどうなるか。
異常潮位
火山活動活発化
大気流の乱れ
地軸微変動
でも本当の問題はそこじゃない。
ナポリネスが冷静に告げる。
「このまま接近が続けば、ロッシュ限界に入る可能性がある」
レオンが低く言う。
「月が砕ける」
砕けた月の破片は――
地球へ降り注ぐ。
静寂。
ルミナが震えた声で。
「止める方法は?」
グアラはエーテルを見る。
エーテルは目を閉じたまま。
「俺が立てば戻る」
かやが即座に否定。
「ダメ」
「それはもうダメ」
病室。
モニターの心音だけが鳴っている。
エーテルは月のニュースも、医師の言葉も聞いていないように
ただ――恒一像の方角を見つめている。
震える指が、ゆっくり持ち上がる。
「あそこに……連れて行って」
それだけ。
理由は言わない。
説明もしない。
感情も見せない。
かやが問いかける。
「どうして?」
エーテルは視線を逸らさない。
「……行きたいだけだ」
ナポリネスが察しかけて口を開く。
エーテルは静かに遮る。
「聞くな」
その一言で全てが止まる。
ルミナが涙を浮かべる。
「なんで黙るの……」
エーテルは優しく頭を撫でる。
「大丈夫だ」
それ以上は言わない。
ネメシスが怒鳴る。
「大丈夫な顔してねぇだろ!!」
沈黙。
ただ息だけが苦しそうに上下する。
かやはもう分かってしまっている。
説明しない時のエーテルは、決断を終えている時だ。
救急車の中。
窓に映る月が異様に近い。
誰も理由を聞けない。
誰も止められない。
恒一像の前。
エーテルは自分の足で立つ。
フラつきながらも、像のすぐそばまで歩く。
そして振り返る。
「……ここでいい」
かやが震える声で言う。
「エーテル……何をするつもり?」
エーテルは小さく笑うだけ。
「さぁな」
沈黙。
月がゆっくりと空を支配していく。
風が止まる。
鳥の声も消える。
エーテルは像に背を預け、空を見上げる。
そしてただ一言。
「……久々だな、恒一」
理由は最後まで語られない。
でも――
この場所を選んだ時点で全員が悟る。
ここは
“別れの場所”だということを。
恒一像の前。
月は確かに近い。
空気が重い。
誰も言葉を発せない。
エーテルは像に背を預けたまま、
ただ月を見上げている。
何も説明しない。
何も弁明しない。
その少し後ろ。
グアラだけが、目を伏せている。
拳を握りしめている。
数時間前――
病室で。
他のみんなが出たあと。
エーテルはグアラだけを呼んだ。
声は弱い。
でも目だけは、はっきりしていた。
「月が……本当に落ちる兆候が出たら」
一拍。
「ジンに連絡しろ」
グアラは息を止める。
「全員連れて、宇宙へ逃がせ」
「……あなたは?」
グアラは分かっていて聞いた。
エーテルは少しだけ笑う。
「俺は残る」
「地球は今、俺と繋がってる」
「俺が抜けたら、バランスが崩れる」
「月が引き寄せられてるのは……」
そこで言葉を切る。
言い切らない。
でも、答えは明白だった。
グアラは震える。
「それって……」
エーテルは首を横に振る。
「言うな」
「これは俺の役目だ」
「創世神とかじゃなくて」
「この星に最後まで居座った責任だ」
現在。
恒一像の前。
月はさらに大きい。
潮の流れが変わり始めている。
風が渦を巻く。
ネメシスがエーテルの肩を掴む。
「帰ろう」
「もういいだろ」
エーテルは何も言わない。
ただ優しく、その手を外す。
ルミナが泣く。
「なんで黙るの……」
エーテルは視線を月から逸らさない。
かやは気づき始めている。
エーテルが“戻る気がない”ことに。
グアラだけが知っている。
エーテルは、月を引き止めるつもりだ。
自分を楔にして。
自分の存在を重力の釘にして。
もし月が本当に落ちるなら。
エーテルは自然エネルギーを一点集中させる。
自分の命と引き換えに、
軌道をずらす。
だから逃げろと言った。
だから説明しない。
だから理由を語らない。
グアラの瞳に涙が溜まる。
でも言えない。
言ったら、全員が残る。
残ったら、全員死ぬ。
エーテルは小さく呟く。
「グアラ」
それだけ。
名前だけ。
グアラは歯を食いしばる。
「……はい」
その返事の中に、全部が入っている。
月が、さらに近づく。
空が軋む。
地面が震える。
エーテルはゆっくり立つ。
「来るな」
それだけ。
振り返らない。
月が異様な速さで大きくなる。
空の色が歪む。
重力が乱れ始めて、砂利が浮く。
その瞬間――
グアラが動く。
一切の迷いなし。
エーテルを見ることすらしない。
「全員、行くよ」
声は震えてない。
むしろ冷たすぎるほど落ち着いている。
ネメシスが叫ぶ。
「父上が――!」
グアラは腕を掴んで引きずる。
「見るな」
「今見たら戻る」
ルミナが泣きながらエーテルに手を伸ばす。
「パパ!!」
グアラはその体を抱き上げて背を向けさせる。
「ごめんね」
「でもこれは命令なの」
かやが振り払おうとする。
「離して!!!」
「エーテルがいるのに!!!」
グアラは初めて声を荒げる。
「行け!!!」
空気が震えるほどの怒声。
「ここに残ったら全員死ぬ!!」
「それをあの人は望んでない!!」
かやは理解してしまう。
その言葉の重さを。
エーテルが“戻る気がない”理由を。
「……うそ」
「うそでしょ」
力が抜ける。
グアラはその隙に抱き寄せる。
「ごめん」
「ほんとにごめん」
アークも、セラも、ネメシスも、ルミナも。
全員を自然エネルギーの結界で包み、強制転送。
抵抗できない。
グアラは本気だ。
転送直前。
ネメシスが叫ぶ。
「父上ぇぇぇぇ!!」
エーテルはようやく振り返る。
優しく微笑って。
口だけ動かす。
「生きろ」
光が弾ける。
みんな消える。
その場に残ったのはエーテルだけ。
月の引力が本気で地球を引き始める。
海が盛り上がり、空が裂ける。
エーテルは静かに息を吐く。
「……恒一」
像に手を置く。
「お前が守った星、今度は俺が守る」
自然エネルギーが世界規模で解放される。
地殻が光る。
空が緑と金に染まる。
重力の流れが無理やり書き換えられていく。
エーテル自身が重力の核になる。
存在そのものがアンカーになる。
遠くの宇宙船で。
かやは床に崩れ落ちる。
「……あの人、戻らないつもりだった」
グアラは泣かない。
ただ唇を噛み切るほど噛みしめている。
「エーテルはね」
「最初から“生き延びる選択肢”を持ってなかった」
宇宙船が離脱していく光が、空に細い線になる。
その下で――
エーテルは恒一の像の前に立っていた。
呼吸は荒い。
膝は笑っている。
それでも、倒れない。
「……まだだ」
震える声でそう呟き、
エーテルは――
地面に手を突っ込む。
岩盤ごと、土ごと、自然エネルギーを掴み取るように。
次の瞬間。
ズ ド ォ ォ ォ ン――――
地鳴りが世界を割る。
恒一像の足元から、
とてつもない樹木が噴き上がる。
ただの木じゃない。
根は地球のマントル近くまで伸び
幹は雲を貫き
枝は空を支えるように広がる。
まるで――
地球そのものを固定する杭。
エーテルは歯を食いしばる。
「月が引くなら……」
「俺が引き返してやる……!!」
樹木の根が大陸を縫い止めるように広がり、
自然エネルギーが重力そのものを書き換え始める。
地球が“動かない存在”へ変えられていく。
空では月の進行が減速。
ギギギ……と軌道が歪む。
だがその代償は即座に来る。
エーテルの腕がひび割れるように光り、
血の代わりに自然エネルギーが零れ落ちる。
「っ……はは……」
「やっぱ……重いな……星一個は……」
宇宙船の中で。
ルミナが突然胸を押さえる。
「……パパ、今……無理してる」
ネメシスも顔色を失う。
「父上の気配が……削れてる……」
エーテルは樹木に寄りかかりながら立ち続ける。
足はもう感覚がない。
それでも、笑う。
「恒一……」
「お前が人間で守ったなら」
「俺は神じゃなくて……ただの父親として守る」
樹木がさらに巨大化。
枝が空に“自然の結界”を張り巡らせる。
月の重力は完全に遮断され始める。
だがエーテルの視界が暗くなる。
呼吸が浅くなる。
「……くそ」
「まだ……耐えろ……俺」
その時。
樹木の内部で――
何かが脈打つ。
まるで心臓のように。
自然エネルギーが“意思”を持ち始める。
地球そのものが、
エーテルを支えようとし始めていた。
エーテルは、自分の胸にそっと手を当てた。
心臓の鼓動が――
自然エネルギーの脈動と重なっているのを感じる。
「……もう、力じゃ足りないか」
かすれた笑み。
「ならさ……俺自身をくべるしかないよな」
次の瞬間。
エーテルの身体が
光の粒子へと崩れ始める。
肉体が壊れているわけじゃない。
命そのものがエネルギーへ変換されている。
骨が、血が、記憶が、感情が――
すべて自然エネルギーへ。
「痛ぇな……」
「でもさ……」
「子供たちが生きるなら、安いもんだろ」
砕け散る粒子が、巨大樹へ吸い込まれていく。
すると樹木はさらに成長。
雲を突き抜け、成層圏を越え、
宇宙空間にまで枝を伸ばす。
まるで――
地球と宇宙を繋ぐ生命の塔。
月の進行は、完全停止。
いや――
押し返され始める。
自然そのものが月を拒絶している。
だがエーテルの身体はもう半透明。
指先から、肩から、胸から、
次々と光になって消えていく。
「ルミナ……」
「ネメシス……」
「みんな……」
「ちゃんと……生きろよ……」
宇宙船の中。
ルミナが突然叫ぶ。
「やめて!!!」
「パパの命が削れてる!!」
ネメシスは泣き崩れる。
「父上……それ以上したら戻れなくなる……!!」
エーテルは聞こえていない。
もう声を発する力すら
自然エネルギーへ変換されている。
それでも――
最後に微笑む。
「これで……いい」
「神じゃなくて……父親として……」
樹木が完全体へ進化。
地球の自転軸すら安定させ、
月の重力を永久封印レベルで遮断。
宇宙のバランスが再構築される。
エーテルの身体は、光に砕け散り始める。
肩の一部が崩れ、腕の輪郭が粒子になる。
胸の端が欠け、脚から光がこぼれていく。
それでも――
人の姿はまだ残っている。
無理やり形を保っているように。
「……っは……」
息をするたび、身体がきしむ。
砕けるたびに、自然エネルギーが巨大樹へ流れ込む。
「ほら……まだ立てるだろ……」
「全部持ってくなよ……」
樹木はさらに成長。
だがその代償。
エーテルの右腕が肘から先、光となって消える。
太腿が崩れ、片脚で立つ形になる。
胸の左側が透け、心臓の鼓動が見える。
それでも倒れない。
倒れることを拒否している。
「……父親ってのはさ……」
「最後まで立ってるもんだろ……」
宇宙船の中で叫ぶルミナ。
「もうやめて!!!」
ネメシスは震えながら叫ぶ。
「それ以上砕けたら……戻れない……!!」
エーテルは聞こえない。
いや――聞こえているけど、止まらない。
止まれない。
肩が崩れ、背中が裂け、光が噴き出す。
それでも人の形は必死に保たれている。
まるで存在そのものが意地で立っているように。
「……まだ……足りないな……」
「月を……完全に……止めるには……」
さらに命を流し込む。
身体の輪郭がボロボロになりながらも、
顔だけは、まだはっきり残っている。
微笑んでいる。
「……大丈夫だ」
「帰れなくても……」
「守れたなら……それでいい」
巨大樹が完成形へ。
地球全体を包むほどの自然結界が形成され、
月の影響は完全遮断。
宇宙のバランスが安定する。
その瞬間。
エーテルの身体は――
崩れかけのまま、辛うじて立っている。
半分以上は光。
半分は人。
もう奇跡レベルで保っている状態。
風が吹けば壊れそうなのに、
それでも立つ父の姿。
そして静寂。
世界は救われた。
だがエーテルは――
まだそこにいる。砕けながら。
月は、止まった。
巨大樹は役目を終え、静かに枯れていく。
自然エネルギーの流れが途切れた瞬間――
エーテルの身体に走る、限界の亀裂。
肩から、腕から、少しずつ光が剥がれ落ちる。
だが――
完全には崩れない。
エーテルは歯を食いしばる。
「……まだだ」
「まだ……来てないだろ……」
砕ける痛みを無視して歩く。
ふらつきながら、恒一像の前へ。
静かに座り込む。
「待ってるからな……」
「最後くらい……顔、見せろよ……」
指が崩れ、光になって消えていく。
それでも拳を握る。
「逃げるな……エーテル……」
「ここで……耐えろ……」
胸にひびが走る。
呼吸が苦しい。
視界が揺れる。
「……俺は神だろ」
「最後くらい……意地張れよ……」
そのとき――
遠くから叫び声。
「エーテル!!」
「お父さん!!」
「父上!!」
かやの声。
ルミナの声。
セラ、アーク、ネメシス、みんなの声。
エーテルの目が見開かれる。
弱く笑う。
「……来たな」
身体が大きく崩れそうになるのを、必死で抑える。
恒一像に手をつき、耐える。
かやが駆け寄る。
震える手で抱きしめる。
砕ける身体が光をこぼしながらも、まだ温かい。
「なんで……なんで一人で……!」
エーテルは震える声で答える。
「……守りたかった」
「それだけだ……」
ルミナが泣きながら抱きつく。
「やだ……消えないで……!」
ネメシスも震えながら手を握る。
セラは言葉を失い、ただ涙を流す。
エーテルは一人一人を見る。
目に焼き付けるように。
「ごめんな……」
「置いてく形になって……」
「でもな……」
「俺は……」
胸のひび割れが光を噴き出す。
限界が近い。
「お前たちに会えて……」
「家族になれて……」
「本当に……幸せだった」
かやが首を振る。
「そんなこと言わないで……一緒に帰ろ……!」
エーテルは優しく微笑う。
「帰れないさ……」
「もう……体が自然そのものだからな……」
エーテルはゆっくり手を伸ばし、
かやの頬にそっと口づける。
温もりがまだ残っている、最後のキス。
「かや……俺の人生で一番の奇跡だった」
「お前に出会えたことが、全部を救ってくれた」
次にルミナへ。
泣きじゃくる小さな身体を引き寄せ、額にキス。
「ルミナ……お前は希望そのものだ」
「笑って生きろ。俺の分まで」
ネメシスへ。
震える手を包み込み、優しく頬に口づける。
「ネメシス……愛を教えてくれてありがとう」
「お前は誰よりも優しい」
セラへ。
目を合わせた瞬間、エーテルは少し照れたように笑う。
頬にキス。
「セラ……長女としてずっと支えてくれてたな」
「誇りだ」
アークへ。
拳を軽く合わせてから、頬にキス。
「アーク……強くなったな」
「お前がいたから俺は父でいられた」
イリス、ナポリネス、グアラ、メクルへも一人ずつ。
それぞれの頬に、しっかりと。
「ありがとう」
「生まれてきてくれてありがとう」
「俺の子供でいてくれてありがとう」
最後にもう一度、かやを見る。
視界がぼやける。
身体のひびが一気に広がる。
「……なあ」
「俺、幸せだったよ」
かやは首を振る。
「一緒に帰ろ……お願い……」
エーテルは静かに微笑む。
「帰りたかった」
「生きたかった」
「でもな……守れたなら、それでいい」
その瞬間。
光が身体の内側から溢れ出す。
「愛してる……みんな」
次の瞬間――
エーテルの身体は、家族の腕の中で静かに砕け散る。
爆発じゃない。
痛みのない、優しい崩壊。
無数の光となって空へ舞い上がる。
風が吹く。
光は月へ、空へ、世界へ溶けていく。
恒一像の足元には、小さな芽が残る。
エーテルが最後に守った“未来”。
家族の泣き声だけが、静かな世界に響いていた。




