表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
久世家戦記・現  作者:
現代編
43/59

第十部 自己犠牲のその先に

 布団に入って、灯りが落ちる。

天井を見つめながら、彼の胸の奥がじんわり疼いていた。


——あの女将。


笑い方。

声の高さ。

人を包むような空気。

全部が初対面じゃない。


「……絶対、どこかで……」


思い出そうとすると頭がズキッと痛む。

映像が浮かびそうで、霧みたいに消える。

会ったことがある。

それも一度や二度じゃない。


もっと長く。

もっと深く。

大切だった人。

そんな感覚だけが残っている。


廊下を歩く足音。

静かに障子が揺れる気配。

(……女将さん?)


もちろん誰もいない。

でも胸が妙に落ち着く。


まるで――

そばに来て見守ってくれているみたいで。


「変だな……」


旅館に来てからずっとそうだ。

安心するのに

切なくて

懐かしくて

涙が出そうになる。

理由はわからないのに。


彼は目を閉じる。

すると一瞬だけ、脳裏に浮かぶ。

誰かの名前を呼んでいる自分。

必死に守ろうとしている自分。

温かい手を握っている自分。

顔は見えない。


でも心だけが叫んでいる。

――失いたくない。

はっと目を開ける。

心臓が早鐘みたいに鳴っていた。


「……俺、誰を……」

答えは出ない。

ただ一つ確かなのは。

あの女将は

彼の過去と深く繋がっている存在だということ。

偶然なんかじゃない。



 夜は静かに更けていく。

虫の声と、遠くの川の音。

豪華な布団に包まれているのに、彼の心はなぜか落ち着かない。

安心できる場所のはずなのに

胸の奥がずっと締めつけられている。


「……不思議だな」


こんなに優しく迎えられて

こんなに居心地がいいのに

ここに来てから、ずっと“喪失感”がある。

ふと、窓の外を見る。


月明かりに照らされた庭。

その景色を見た瞬間、心臓が跳ねた。

(……ここ、知ってる)


来たことがある。

それも最近じゃない。


何百年、何千年、もっと――

とてつもなく長い時間。


頭を押さえる。

「くっ……」

記憶は出てこないのに、感情だけが溢れる。


この庭で

誰かと笑っていた

誰かを抱きしめていた

誰かを失って泣いていた

全部“ここ”だ。


そして、また思い出す女将の顔。

料理を運んできた時の優しい目。

疲れていないか気遣う声。

ただの旅館の女将とは思えないほど

心に刺さる存在。


「……知らない人のはずなのに」


なのに、会えなくなる気がして怖くなる。

その頃――別の部屋。


かやは帳簿を閉じて一息ついていた。

「今日のお客さん……」

なぜか気になる。


年老いて、車椅子で、それでも穏やかな目をしたあの男性。

見た瞬間、胸がズキッとした。

理由は分からない。


ただ、

“放っておいてはいけない人”

そんな直感だけがあった。

「変ね……」

今まで何万人も客を迎えてきたのに

こんな感覚は初めてだった。


一方、エーテルは布団の中で小さく呟く。

「俺……ここで何かを失った……」

でも同時に思う。

ここは

誰かを守った場所でもある、と。


悲しいのに

懐かしいのに

温かい。

矛盾だらけの感情。

そして無意識に、口からこぼれる。

「……かや……」

自分でも驚く。


名前なんて知らないはずなのに。

誰の名前かも分からないのに。

なのに、胸がぎゅっと苦しくなる。



 朝の光が、縁側にやわらかく差し込んでいた。

鳥の声。

木々を揺らす風。


どこか懐かしくて、胸が少し痛む静けさ。

彼は車椅子を縁側に寄せ、ぼんやりと庭を眺めていた。


「……かや」


昨日、無意識にこぼれたその名前。

意味も理由も分からないのに、

口に出すたび心臓が締めつけられる。


まるで――

生きる理由そのものを呼んでいるみたいに。

「知り合いだったのかな……それとも……」

記憶を探ろうとすると、頭の奥がズキズキ痛むだけだった。


けれど感情だけははっきりしている。

大切だった。

失いたくなかった。

守りたかった。

それが“かや”。


庭の手入れをしている女将の姿が視界に入る。

白いエプロン、まとめた髪、柔らかな横顔。

胸が一瞬で苦しくなる。

(……違う、知らない人のはずだ)


そう思うのに、目が離れない。

彼女が笑うと安心して

彼女が遠ざかると不安になる。

理屈じゃない。


「どうしてだよ……」


自分でも分からない感情に戸惑っていると、

女将がこちらに気づいた。

「おはようございます。よく眠れましたか?」


その声を聞いた瞬間。

心の奥で何かが崩れた。

懐かしさと痛みが一気に溢れる。


「……はい」

震えそうになるのを必死で抑える。


女将はお茶を差し出しながら、少し照れたように言った。

「縁側、気持ちいいですよね。昔からここ、好きなんです」


その言葉に彼の胸が跳ねる。

“昔から”

なぜかその言葉が深く刺さる。

沈黙が流れる。

風が二人の間を通り抜ける。


彼は意を決して口を開いた。

「あの……変なこと聞いていいですか」


「はい?」


「……“かや”って名前、よくある名前ですか?」


かやは一瞬きょとんとして、微笑った。

「ええ、まぁ……でもどうして?」


彼は正直に答える。

「昨日、夢か何かで……その名前を呼んでて」

「すごく大事な人みたいに」


その瞬間。

かやの胸がズキッと痛んだ。

理由は分からない。

ただ涙が出そうになるほど苦しくなる。


「……そう、ですか」

声が少しだけ震える。


彼は気づかない。

その目が、ずっとかやを追っていることに。

そしてかやも気づかない。

この人を見るたび、心が壊れそうになる理由を。


記憶を失っても

魂はちゃんと覚えている。

だから引き合ってしまう。


 

 縁側での会話から数日後。

彼はずっと考えていた。

この旅館にいると、胸の奥が不思議と落ち着くこと。


かやの声を聞くと、痛みが和らぐこと。

ここに“居場所”がある気がすること。

そしてある昼下がり。


彼は意を決して女将の前に立った。

「……あの、かやさん」


「はい?」


「突然で変だと思うんですけど……」


少し言葉を探しながら、真っ直ぐ目を見る。

「ここで働かせてもらえませんか」


かやの手が止まる。

「え……?」


「今の仕事、もう辞めようと思ってて……

理由はうまく説明できないけど……」


胸に手を当てて続ける。

「この旅館にいると、生きてる感じがするんです。ここにいるべきだって……ずっと前から決まってたみたいな」


かやの喉が鳴る。

そんな言い方――

あまりにも“あの人”と同じだった。

(やめて……その言い方……)


心の奥がざわつく。

「でも……体、大丈夫なんですか?」


「重いことはできませんけど、掃除とか受付とかなら……それに、誰かの役に立ちたいんです」

少し照れたように笑う。

「昔はきっと、誰かを守る仕事してた気がするんで」


その瞬間。

かやの目が揺れた。


「……」


しばらく沈黙。

庭の風鈴が鳴る。


「……いいですよ」

かやは優しく言った。

「無理のない範囲で」


彼の顔がぱっと明るくなる。

「本当ですか!」


「ただし、倒れたら即休憩ですから」


「はい!」

子供みたいな笑顔だった。


その姿を遠くから見ていた家族たち。

ルミナが小さく呟く。

「……おかえり、って言いたくなる」

ミラもルークも言葉を失っている。


誰よりも――

かやが一番動揺していた。


その夜。

かやは布団の中で涙をこぼす。

(どうしてこんなに苦しいの……

初対面の人なのに……)

でも心は叫んでいる。


――違う。

この人は“初対面じゃない”。


彼は働き始める。

ほうきの持ち方が異様に綺麗で

重たい荷物を無意識でかばう動き

危険を察知する反射神経

全部、“人間じゃない何か”の名残。


でも本人は気づかない。

そして少しずつ――

旅館にエーテルの面影が戻り始める。

記憶のないまま。

魂だけが帰ってきて。



 夕方、旅館が一番忙しい時間。

彼は受付の横で帳簿をまとめていた。

かやは厨房と客席を行き来しながら指示を出している。

その時だった。


廊下の奥――

重たい梁が、ミシッと嫌な音を立てる。

老朽化した天井が、崩れかけていた。

誰も気づいていない。


落ちる先には――かや。


次の瞬間。

彼の身体が勝手に動いた。

考えるより先。

脚が踏み出て、腕が伸びていた。


「危ない!!」


自分でも驚くほど大きな声。

かやの身体を強く抱き寄せ、転がる。


――ドンッ!!!!


梁が床を叩き割る轟音。

木片が飛び散る。

埃が舞う。

痛みが遅れて来た。

背中と肩に、鋭い衝撃。


息が詰まる。

視界が白くなる。


それでも――

彼は腕を緩めなかった。

かやを胸に抱いたまま。


「……大丈夫か」

震える声。

「怪我……してないか」


かやは呆然としていた。

目の前にあるのは、

自分を庇って血を滲ませている男。


「なんで……」


かやの声が掠れる。

「なんでそこまで……」

彼は苦笑する。

「わからないです……

でも……」

胸を押さえながら小さく言う。

「あなたが傷つくのだけは……

嫌だった」


その言葉。

完全に――エーテルだった。


血が床に落ちる。

家族が駆け寄る。


ルミナが泣きそうな声で叫ぶ。

「パ……!」

ミラが口を塞ぐ。

呼んじゃだめだと。


かやの手が震えながら彼の頬に触れる。

「……あなた……誰なの」

涙が溢れる。

「どうしてそんな顔で……

そんな声で……

そんな守り方で……」


彼はぼんやり笑った。

「ごめんなさい……

でも……守れてよかった」

その瞬間、かやの心が確信する。


――この人だ。

間違いない。

どんな姿でも。

どんな記憶がなくても。

この魂は。


救急車の音が近づく中、

彼は意識を失いながら小さく呟く。

「……かや……」

無意識で名前を呼んでいた。



 治療は応急処置だった。

幸い骨折は免れたが、背中と肩は包帯だらけ。

医師からはきっぱり言われている。

「最低でも数日は安静です。動いたら悪化しますよ」


彼は素直に頷いていた。

……その場では。


だが数時間後。

病室のカーテンが静かに揺れた。

包帯姿の彼が、そっとベッドから降りている。


点滴を外し、ふらつきながら廊下へ。

「……直さなきゃ」


小さく呟く。

「また崩れたら……危ないから」


旅館に戻ると、夜だった。

職人を呼ぶ準備をしている家族をよそに、

彼は脚立を引きずって天井の下へ向かう。 


「ちょ、ちょっと!?」

かやが慌てて駆け寄る。

「何してるの!?

さっき縫ったばかりなのよ!」


彼は困ったように笑う。

「でも……放っておけなくて」

「あなたの旅館でしょう?

大事な場所だから」


脚立に登った瞬間、よろける。

血が包帯ににじむ。

それでも手を伸ばして、梁を支えようとする。


「危ないから!!」

かやが叫ぶ。

「どうしてそんなに無茶するの!!」


彼は振り返り、静かに言う。

「だって……」

少し考えてから。

「ここが壊れたら、あなたが困るから」


その一言で、かやの胸が締め付けられる。

理由がいつも同じ。

自分のためじゃない。

誰かのため。

それが――エーテルそのもの。


「……お願い」

かやの声が震える。

「自分を大事にして」

「あなたが傷つく方が……私はつらい」


彼はきょとんとする。

しばらく沈黙。

そして申し訳なさそうに笑う。

「ごめんなさい……癖なんです」

「昔から……誰か守る方が楽で」


知らないはずの過去。

でも身体が覚えている。

かやはもう耐えきれず、彼を抱きしめる。

「もう一人で頑張らないで……」

「ここには、あなたを守る人もいるの」


彼の身体が少し震える。

なぜか涙が出そうになる。

理由はわからないのに。


「……あの」

小さく言う。

「あなたにこうされると……

安心するんです」

「初めて会った気がしない」



 それから数日。


彼はもう車椅子を使わなくなっていた。

最初は縁側から庭まで。

次は廊下を往復。

そしていつの間にか、旅館の敷地を一周できるようになっていた。


息は少し荒れるけど、倒れない。


「……歩けてる」


自分で驚いたように呟く。

病院では数歩で限界だったのに、

ここでは自然と足が動く。

理由は単純だった。

働いているから。


朝は掃除。

昼は客の案内。

夕方は庭の手入れ。

重い物は持たせてもらえないけど、

動いている時間は長い。

それなのに——不思議と身体が楽だった。


かやが様子を見ながら言う。

「無理してない?」


彼は首を振る。

「むしろ……動いてる方が楽です」

「止まってると、身体が重くなる気がして」


それを聞いて、かやは少しだけ微笑む。

「あなた、働くの向いてるのかもね」


彼は照れたように笑う。

「旅館って……いいですね」

「人の役に立ってる感じがして」


夕方。

縁側に座って夕焼けを眺めながら、彼はぽつりと呟く。

「ここに来てから……痛みが減りました」

「身体だけじゃなくて……心も」


かやは隣に座る。

「場所って大事なのよ」

「安心できる場所は、人を強くするの」


彼は少し考えてから言う。

「じゃあ……ここは俺にとって」

「帰る場所なんですね」


その言葉に、かやの胸がきゅっとなる。

「……そうね」


夜になると、もう普通に歩いて食堂まで行けた。

客にも顔を覚えられて、

「若いのに頑張るねぇ」

「感じのいい子だね」

なんて声をかけられる。 

彼はそのたびに少し誇らしそうに笑う。


そして布団に入る前、必ず思う。

疲れてるのに、嫌じゃない。

むしろ生きてる感じがする。

(ここでなら……生き直せる気がする)


名前も過去も曖昧なのに。

それでも。

エーテルは神じゃなくなっても、

“誰かの居場所を守る存在”のままだった。

ただ今は——

守られながら回復している。



 最初は「女将さん」だった。

でもある日、彼は勇気を出して聞いた。

「……お名前、なんていうんですか?」


かやは一瞬だけ止まり、それから優しく笑った。

「かやよ」


「かやさん……」

その名前を、彼は大事そうに口の中で転がした。


それから少しずつ。

厨房で静かに指示を出す女性。

「セラさん、ですね」


「ええ。覚えてくれたの?」


「はい。優しい声なので」

セラは一瞬、言葉を失う。


庭で竹刀を振る長身の男。

「アークさん」 


「おう。もう覚えたのか」


「動きが派手なので……」

アークは苦笑する。


機械をいじっている男。

「レオンさん」


「呼び捨てでもいいぞ」


「いえ、さん付けが落ち着きます」


工房にこもる女性。

「イリスさん」 


「記憶力いいわね」


「何度も見てますから」


帳簿をつけている男。

「ナポリネスさん」 


「……覚えなくていい」


「いえ、大事な人の名前は覚えたいです」

ナポリネスは目を逸らす。


庭の花に触れている穏やかな女性。

「グアラさん」


「ありがとう。嬉しいわ」


一番距離を取っている青年。

「……ネメシスさん」


ネメシスは一瞬、息を止める。

「……なんで敬語なんだよ」 


「皆さんに敬語なので」


「……そっか」

その横顔は少し寂しそうだった。


そして庭。

子供たちの笑い声。

「ルミナさん」


「さん、いらないよー!」


「……ルミナ、さん」


「むー!」


「ミラさん、ルークさん」


「覚えてくれたんだ!」


彼は少し照れて笑う。

「毎日見てますから」

名前を覚えるたびに、

胸の奥が少しだけ温かくなる。

同時に、どこかが少しだけ痛む。


夜。

一人で布団に入りながら、彼は小さく呟く。

「不思議だな……」

「初めて会った気がしない」


でも思い出せない。

霧がかかったみたいに、何かが奥で揺れている。


かやは廊下で立ち止まり、障子越しに彼の声を聞いていた。

「……名前を呼ばれるだけで、こんなに嬉しいなんて」


その言葉に、かやの目が潤む。

彼はまだ気づかない。

自分がずっと呼び続けてきた名前だということを。

何千年も。

何万回も。



 ネメシスはずっと我慢していた。

名前を呼ばれても、

敬語で距離を取られても、

目を合わせてもどこか「初対面」のままなことも。

全部。


ある夕方。

庭でルミナたちが遊んでいて、

彼は縁側に座って休んでいた。

ネメシスはその後ろに立っていた。

拳が震えていた。


「……なあ」


彼は振り返る。

「ネメシスさん、どうしました?」


その“さん”。

それが、最後の一押しだった。

ネメシスは一歩で距離を詰める。

「やめろよそれ」


「え……?」


「その呼び方」

「俺は——」

声が震える。

「そんな他人じゃねぇだろ……!」


彼は戸惑う。

「す、すみません……失礼でしたか?」


その言葉に、ネメシスの目が潤む。

「違う……そうじゃねぇ……」

歯を食いしばって叫ぶ。

「お前は俺の——」


喉が詰まる。

「俺の全部だったんだよ!!」


彼は立ち上がろうとしてよろける。

ネメシスが反射的に抱きとめる。

その瞬間。

胸に顔を埋めたネメシスの手が、離れなくなる。


「離れんなよ……」

「もう置いていくなよ……」

「何回消えるんだよ……」

声が嗚咽に変わる。


彼の心臓が、異様に早く打つ。

理由も分からず、涙が滲む。

「……ごめんなさい」

「でも……苦しいです」

「あなたを離したくない」


ネメシスは顔を上げる。

涙だらけで笑う。

「それでいい」

「それがエーテルだ」

「それが……父上だ」


その言葉に、彼の頭がズキリと痛む。

光の欠片みたいな記憶が一瞬走る。

抱きしめた小さな手


泣きじゃくる少年

「父上、行かないで」


彼は震えながら呟く。

「……父上?」


その瞬間、ネメシスの涙が止まらなくなる。

「思い出せなくてもいい」

「生きててくれりゃそれでいい……!」


縁側の影で、かやがその光景を見ていた。

口を押さえて、声を殺して泣いていた。

エーテルはまだ戻っていない。

でも——

“家族の心”だけが、先に彼を取り戻し始めている。


 

 夕方。


仕事を終えた彼は、少し戸惑った顔で帳場に立つ。

かやは帳簿を閉じる。

「どうかしましたか?」


彼は少し困ったように笑う。

「今日、ネメシスさんに……」 

一瞬、言葉を選ぶ。

「“父上”と呼ばれました」


かやの指が、止まる。

紙をめくる音が止む。

空気が凍る。


「……そう」

声は穏やか。

けれど、目だけが揺れる。


「何か失礼をしましたかね」

彼は申し訳なさそうに言う。

「私、そんな年齢でもありませんし……」

少し笑って続ける。

「冗談でしょうか」


その瞬間。

かやの心臓がきつく締まる。

(冗談じゃない)


それでも彼は知らない顔をしている。

「それで、あなたは何て返したの?」

かやは静かに聞く。


彼は少し考える。

「……“父上?”と聞き返しました」


「そしたら、泣かれてしまって」


困ったように眉を下げる。

「私は何もしていないのに」


かやは顔を伏せる。

笑っているのに、目元が滲む。

「あなたはね」

一呼吸置く。

「何もしてないわけじゃないの」


彼は首を傾げる。

「……?」


かやは立ち上がり、彼の前に立つ。

距離が近い。

彼は少し緊張する。

「あなたは——」

喉が詰まる。

言えない。

“エーテル”なんて。

“創世神”なんて。

“家族の中心”なんて。


代わりに、かやはそっと彼の胸に手を当てる。

「ここ、痛くなかった?」


彼は驚く。

「……え?」


「“父上”って言われたとき」


彼は、ゆっくり目を伏せる。

「……少しだけ」

胸を押さえる。

「変な感じがしました」

「懐かしいような……でも思い出せない」

「すごく、大事なものを忘れているような」


かやの瞳から、涙が一粒落ちる。

すぐに拭う。

「そう」

小さく笑う。

「なら、それでいいわ」


彼は戸惑う。

「よく、ないでしょう?」


かやは首を横に振る。

「いいの」

「今はそれでいい」

そして少しだけ、意地悪く笑う。

「でもね」

「もしまた“父上”って呼ばれたら」

彼をまっすぐ見る。

「今度は否定しないであげて」


彼はゆっくり頷く。

「……分かりました」

少し照れくさそうに言う。

「不思議ですね」

「ネメシスさんにそう呼ばれても、嫌じゃなかった」


かやの手が、震える。

(嫌なはずない)

(だってあなたは……)

でも言わない。

まだ。


その夜。

ネメシスは一人、庭で空を見上げていた。

彼はそっと隣に座る。

「ネメシスさん」


ネメシスが振り向く。

「……なんだよ」


彼は少しぎこちなく笑う。

「今日のことですが」

「“父上”と呼ばれるのは、悪くない気がしました」


ネメシスの目が見開かれる。

「だから」


彼は続ける。

「もし、あなたがそれで安心するなら」

「……そう呼んでも構いません」


ネメシスの呼吸が止まる。

震える声。

「本気で言ってんのか……」


彼は真面目に頷く。

「ええ」

「理由は分かりませんが」

「あなたを泣かせるのは、あまり良くないと……本能が言っています」


ネメシスの目から、また涙が溢れる。

でも今度は、少しだけ笑っていた。

「……ずるいな」

「記憶なくても、そういうとこは変わらねぇ」


遠くから見ていたかやは、小さく呟く。

「帰ってきなさいよ……ばか」



 朝から彼はいつも通り働いていた。

廊下を拭き、庭を整え、荷物を運び、笑顔で客に頭を下げる。

完璧だった。

——少し、視界が揺れることを除けば。


一瞬だけ床が傾く。

「……」

壁に手をつく。

鼓動がやけに重い。

(立ちくらみか)

そう思って、すぐ背筋を伸ばした。


今日は団体客が多い。

自分が抜けたら迷惑がかかる。

だから何事もなかったように動き続ける。


昼前。

重い荷物を持ち上げた瞬間、指先が痺れた。

力が抜けかける。

箱が傾く。


「っと……」

ギリギリで抱え直す。


近くにいたレオンが目を細めた。

「大丈夫か?」


彼はすぐ笑う。

「ええ、少し力が入らなかっただけです」

「疲れですかね」


レオンはじっと見る。

「……顔色がよくない」

「休め」


彼は首を振る。

「いえ、大丈夫です」

「これくらいで休んでいたら仕事になりません」


午後。

歩くたびに身体が少し遅れる。

心臓が一拍遅れて動くような感覚。

息が浅い。

それでも笑顔は崩さない。

布団を運び、食事を運び、頭を下げ続ける。


その様子を、かやはずっと見ていた。

最初は気のせいだと思った。

でも。


歩幅が不自然。

壁に触れる回数が増えている。

笑顔がほんの一瞬遅れる。

——エーテルの癖だ。

限界を隠すときの。


夕方。

庭で重い桶を持ち上げた瞬間。

彼の腕が震えた。

次の瞬間。

視界が一気に暗くなる。

音が遠のく。


「……あ」

膝が折れた。

桶が地面に落ち、水が弾ける。

彼はその場に崩れ落ちた。


「エーテル!!」

かやが駆け寄る。

ネメシスも、セラも、アークも走ってくる。


彼は必死に起き上がろうとする。

「だ、大丈夫です……」

「仕事が……」

立とうとして、また倒れそうになる。


かやが抱き留める。

「もういい!」

声が震える。

「いいから動かないで!」


彼は混乱した顔でかやを見る。

「でも……迷惑が……」


かやの目に涙が溜まる。

「あなたが倒れるほうが迷惑なの!」

「なんでいつもそうなの……!」


ネメシスが歯を食いしばる。

「最初からフラついてただろ!」

「なんで言わねぇんだよ!」


彼は小さく答える。

「……働けなくなるのが怖かったんです」

「ここに居られなくなる気がして」


空気が凍る。


かやの手が震える。

「あなたは……」

「働かなくても、居場所なのに……」


彼は目を伏せる。

「それが、分からなくなる時があるんです」

「役に立たないと、捨てられる気がして」

「誰かの役に立っていないと……存在していい気がしなくて」


その言葉に、全員が息を呑む。

それは創世神の言葉じゃない。

傷ついた“人間”の思考だった。


かやは彼を強く抱きしめる。

「もう十分役に立ってる」

「生きてるだけでいいの!」

「倒れるまで働くなんて許さない!」


彼の視界がぼやける。

胸の奥が熱くなる。

「……すみません」

そのまま意識が遠のいた。



 倒れたあの日のあと。

「無理はするな」と何度も言われた。

彼も「はい」と素直に頷いた。

けれど——


翌朝。

何事もなかったように、誰よりも早く起きていた。

廊下を静かに歩き、掃除を始める。

指先が、少しだけ痺れている。

でも気づかないふりをする。


布団を運ぶ。

腕に力が入りきらない。

一瞬、視界が白くなる。

それでも表情は崩さない。


客に頭を下げる時、ほんの少しだけ動作が遅れる。

誰も気づかないレベル。

——でも、家族は気づく。


昼。

厨房から重い鍋を運ぶ途中。

膝が震える。

壁に手をつく。

深呼吸。

(まだ大丈夫だ)

自分に言い聞かせる。


午後。

階段を下りる途中で足がもつれる。

一段踏み外しかける。

ギリギリ手すりを掴む。

心臓が嫌な打ち方をする。

でも、そのまま笑顔でフロントに戻る。


ネメシスは遠くから見ている。

気づいている。

けど近づけない。

距離を取っている自分が、今さら何を言うんだ、と。

拳を握り締める。


夕方。

庭で落ち葉を掃いている彼。

ほうきを持つ手が微かに震える。

指の感覚が、少しずつ薄くなっていく。

それでも止めない。

動いていないと、不安になる。

役に立っていないと、怖くなる。 


夜。

布団を敷き終えたあと、廊下で一瞬立ち止まる。

天井が揺れる。

音が遠くなる。

視界の端が黒く欠ける。


それでも——

壁を叩いて自分を起こす。

「……まだだ」

誰にも聞こえない声。


その夜。

かやが静かに呟く。

「悪化してるよね」

セラは目を伏せる。

アークは無言で拳を握る。

レオンは淡々と言う。

「神性を封じた代償だろうな」

「身体の時間が追いついてきている」


翌日も。

また次の日も。

彼は普通を演じる。

笑って、働いて、支えて。

痺れも、ふらつきも、隠して。

でも。

ある日。

ルミナが、廊下の角で彼を見つける。

彼は壁に額をつけて立っていた。


呼吸が浅い。

手が震えている。


「……大丈夫?」


彼は振り向く。

いつもの優しい笑顔。

「うん」

「少し立ちくらみだよ」


でも。

その笑顔の奥にある、限界。

ルミナは、初めて気づく。

これは“疲れ”じゃない。

壊れていってる。



 廊下の角。

誰も来ない時間を計算して。

彼は柱に手をつき、膝から崩れ落ちる。

喉が焼けるように熱くなる。

胸の奥がひっくり返る感覚。


次の瞬間——

「ごほっ……!」

赤黒い液体が床に散る。


口を押さえても止まらない。

指の隙間から血が滴る。

呼吸が追いつかない。

肺が潰れるように痛む。


震える手で袖を口に押し当てる。

音を殺す。

歯を食いしばる。

(見せるな)

(誰にも)

(絶対に)

しばらくして、ようやく治まる。


床に残った血を雑巾で拭く。

完璧に消す。

臭いも残さない。

鏡を見る。

顔色は最悪。

でも口角を持ち上げる。


無理やり。

「……よし」

いつもの表情が戻る。


数分後。

フロントに立つ彼は、普段通り。


「いらっしゃいませ」

声は穏やか。

姿勢も綺麗。

誰も異変に気づかない。


厨房で皿を運ぶ。

腕が痺れて力が抜けそうになる。

それでも落とさない。

笑う。


「大丈夫ですよ」


客にお茶を出す。

手が震える。

袖でそっと隠す。

目を細めて微笑む。


その裏で。

喉には鉄の味がずっと残っている。

胸は焼け続けている。

視界は時々歪む。


それでも歩く。

それでも働く。

それでも優しくする。


夜。

誰もいない庭。

再び喉がせり上がる。

「っ……!」

草の上に血が広がる。


息ができない。

身体が折れる。

吐いて、吐いて、吐き続ける。


その後、川の水で口をすすぎ、

顔を洗い、

何事もなかったように戻る。


「お疲れさまでした」


かやに微笑む。


「今日も助かりました」


セラに頭を下げる。


「大丈夫?」

と聞かれても、


「はい、元気です」

と答える。


誰も知らない。

彼の体内では、時間が一気に追いつき始めていることを。

神だった寿命が、

人間の限界に無理やり押し戻されていることを。


 

 朝。


鏡の前。

彼の顔は紙みたいに白い。

唇は色を失っている。

目の下には濃い影。

一晩で一気に老けたようだった。


彼は引き出しを開ける。

女将やイリスが使っている化粧道具。

ファンデーション。

チーク。

リップ。

(……これくらいなら)


震える指で肌に塗る。

血色が戻っていく。

病人の顔が、働ける人間の顔に変わる。

唇に色をのせる。

目の下を丁寧に隠す。

「……よし」


鏡の中には、昨日と同じ“元気そうな自分”。

誰も倒れそうだなんて思わない顔。


だが立ち上がった瞬間、

世界がぐにゃりと歪む。

視界が黒く狭まる。


膝が抜けそうになる。

彼は自分の頬を叩く。

パン、と乾いた音。

「……しっかりしろ」


もう一度。


「まだ倒れるな」

さらに強く。

「ここで倒れたら迷惑だろ」


心臓が暴れる。

息が荒れる。

それでも背筋を伸ばす。


廊下を歩く。

足元がふわふわする。

床が揺れているみたいだ。


それでも歩幅は乱さない。

「おはようございます」


いつも通りの声。

いつも通りの笑顔。

かやが一瞬だけ彼を見る。

ほんの一瞬。

違和感。


でも——

化粧のおかげで分からない。

「……今日もよろしくね」


「はい」

内心、彼はほっとする。

(まだ……バレてない)


だが頭の奥では警報が鳴り続けている。

ぐわん、ぐわん、と耳鳴り。

視界の端が暗くなる。

手の感覚が薄れる。


それでも働く。

それでも笑う。

それでも気づかせない。

そして心のどこかで思っている。

(このまま死ぬなら……ここがいい)

(みんなのそばで)

(役に立ったままで)



 会議室。

旅館のこれからの予定、予約状況、修繕の話。

彼はいつも通り端の席に座って、静かに聞いていた。

背筋を伸ばして。

手は膝の上。

表情も穏やか。


(大丈夫……今日も普通だ)

(普通でいればいい)


最初は指先が震えただけだった。

小さく、気づかれないくらい。

寒いのかな、と思われる程度。


でも次第に——

肩が揺れる。

腕が震える。

歯がカチカチ鳴り始める。


「……?」

セラが違和感に気づく。

「大丈夫?」


彼は反射的に笑おうとする。

「だ、大丈夫で——」


その瞬間。

胸の奥から、熱いものがこみ上げる。

息が詰まる。

視界が真っ白になる。

「っ……!」


口元を押さえた。

間に合わなかった。

赤が、床に落ちる。


一滴。

また一滴。


会議室が凍りつく。

「え……?」

「ちょっと……!?」


彼の身体は震えが止まらない。

呼吸も浅く、早い。

それでも必死に言う。

「す、すみません……大丈夫ですから……」

「少し……むせただけで……」


かやが立ち上がる。

顔色が一気に変わる。

「そんなわけないでしょ!!」


彼はまだ笑おうとする。

唇に残った赤を袖で拭って。

「迷惑かけて……すみません……」


でも笑顔はもう保てない。

目がうるんで、焦点が合っていない。

膝から力が抜ける。

ドサッ、と音を立てて崩れ落ちる。


「呼吸が浅い!」

「医者!!早く!!」


床に横たわりながら、彼の意識は遠のく。

耳にみんなの声がぼやけて届く。

(あぁ……やっぱり……)

(隠しきれなかったな……)

(でも……)


薄れる意識の中で、最後に思う。

(それでも……ここで倒れられて……よかった……)



 床に倒れた彼。

視界は滲み、音は遠い。

誰かが名前を呼んでいる。

誰かが肩を揺さぶっている。


でも——

彼の中で、何かが叫んだ。

(まだ倒れるな)

(まだ終わるな)

(まだ……役に立てるだろ)


指が、床を掴む。

震えながら、必死に。


「……だい、じょうぶ……です……」


声はかすれている。

それでも、彼は身体を起こそうとする。

腕に力が入らない。

何度も崩れる。

それでも。


「まだ……働けます……」

「会議……続けてください……」


血が喉に絡んで咳き込む。

赤がまた落ちる。

それでも彼は立とうとする。

(ここで休んだら……)

(また迷惑をかける)

(また捨てられる)

(役に立てなくなる)


その恐怖が、身体を無理やり動かしていた。


「無理しないで!!」


誰かの声。

でも聞こえない。


「まだ……立てるんです……」

「俺……使えますから……」

膝がガクガク震えながら、ついに立ち上がる。


一歩。

ふらつく。

二歩目で崩れかける。

壁に手をついて、必死に支える。

息は荒く、顔は真っ白。


それでも彼は、頭を下げた。

「すみません……少し気分悪くなっただけで……」

「すぐ戻りますから……」


その姿はもう働く人間じゃなく、壊れかけの人だった。

心だけが叫び続けている。

(まだ価値を証明しろ)

(まだ必要とされろ)

(倒れたら終わりだ)


でも身体は、限界を超えていた。

視界が暗くなる。

音が消える。


「……あ……」


力が抜ける。

再び床へ。

今度は受け身すら取れなかった。

完全に意識が落ちる直前、

彼の中の声だけが悔しそうに呟く。

(……まだ……やれたのに……)



 床に崩れ落ちて、視界がほとんど闇に沈んだその瞬間――

彼の中で、**はっきりとした“声”**が響いた。

(立て)

(こんなところで終わる人間じゃないだろ)

(お前は――役に立つために生きてきたんだ)


誰の声かは分からない。

優しくもない、慰めもしない。

ただ、冷たく現実を突きつける声。

(倒れて守られる側になるつもりか?)

(それで満足か?)

(働けなくなったら、お前には何が残る)


胸が痛む。

肺が悲鳴をあげている。

それでも――その声は続く。

(役に立ってこそ本望だろ)

(必要とされてこそ存在だろ)

(今ここで終わったら、お前は“ただの迷惑”になる)


指が再び動いた。

さっきよりも遅く、重く。

床を引っ掻くようにして身体を引き寄せる。


「……まだ……」

かすれた声。

誰に向けた言葉でもなく、自分に言い聞かせるように。

「まだ……死んでられない……」


視界は揺れる。

心臓は破裂しそう。

それでも彼は、歯を食いしばった。

(そうだ)

(終わるな)

(ここで倒れる人生じゃない)


身体が悲鳴をあげても、無視する。

痛みも、苦しさも、全部切り捨てる。

「……俺は……役に立つ……」

「それだけで……いい……」


まるでそれが生きる理由のすべてかのように。

ふらふらと上体を起こす。

誰かが止めようと手を伸ばす。

でも彼は弱く首を振った。


「大丈夫……です……」

「迷惑……かけませんから……」


その言葉が一番、痛々しかった。

“助けて”じゃなく

“迷惑になりたくない”。


彼の中の声が最後に囁く。

(そうだ)

(それでいい)

(壊れてもいいから立て)

(価値を証明し続けろ)


そして彼はまた一歩、無理やり前に出る。

身体はもう限界なのに、

意志だけがゾンビみたいに動かしている状態。

 


 

 

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ