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久世家戦記・現  作者:
現代編
42/59

第九部 俺は…僕は誰だ

 夜の森。


旅館から離れた山の奥。

虫の音だけが響いている。

エーテルは一人、立っていた。

手のひらを見つめる。

そこには今も創生エネルギーの光が微かに揺れている。


宇宙を作り

命を救い

戦争を終わらせてきた力。


――逃げ道でもあった力。


「……これがある限り」

「俺は壊れ続ける」

静かに呟く。

誰にも聞かせない声。


胸が痛む。

呼吸が重い。

それでも分かっていた。

この力があるから

感情を壊しても立っていられた。


神でいることで

人でいる苦しさから逃げていた。


エーテルは膝をつく。

土に指が沈む。

震えている。

怖い。


この力を失えば

・死ぬかもしれない

・守れなくなるかもしれない

・ただの弱い存在になる


それでも。

「……それでもいい」

声が掠れる。

「俺はもう」

「神じゃなくていい」


空を見上げる。

星も見えない夜。

それでも決めた。


両手を胸に当てる。

創生エネルギーが強く脈打つ。

まるで拒否するように。


「今までありがとう」

「俺を生かしてくれて」

「でも――」

「これからは人間として生きる」


一気に力を引き剥がす。

光が暴れる。

風が巻き起こる。

木々が軋む。


空気が悲鳴を上げる。

エーテルは歯を食いしばる。

叫ばない。

ただ耐える。

骨が軋む。

心臓が焼けるように痛む。

神の力が身体から剥がれていく。


そして——

光が消える。

闇が戻る。


静寂。

その瞬間。


膝から崩れ落ちるエーテル。

呼吸が乱れる。

胸を押さえる。

心臓の鼓動がうるさいほどリアル。


寒い。

痛い。

重い。

初めて感じる“弱さ”。


「……これが」

「人間か」

かすれた笑い。


涙が止まらない。

もう創生エネルギーは感じない。

治癒もない。

無限の力もない。


ただの身体。

ただの命。


それでも。

エーテルは地面に額をつける。

深く息を吸う。

「逃げない」

「壊れても……生きる」

「家族と同じ場所で」

ふらつきながら立ち上がる。

足が重い。

視界が揺れる。

それでも一歩踏み出す。


神を捨てた背中。

人間として歩き出す背中。



 夜。


崖の上。

下は闇。

波の音だけが遠くから響いている。

エーテルは立っている。

もう光はない。

神の気配もない。

ただの人間の体。


風が冷たい。

少し震えている。


「なぁ……」

誰もいない空間に話しかける。

でも相手はいる。

自分だ。


「覚えてるか?」

「最初の星を作った時のこと」


苦笑する。

「全然うまくいかなかったよな」

「海と陸のバランス間違えて、全部沈めた」

小さく笑う。

少しだけ懐かしそうに。


「セラがさ」

『父上、また失敗ですか?』って」

「アークは横で笑ってたな」

「ネメシスは……」


一瞬、言葉が止まる。

風が強く吹く。

「……俺の隣で、黙って手を握ってた」

目を閉じる。

胸が痛い。

でも逃げない。


「戦国の頃も」

「剣握ってさ、必死だったな」

「人間の寿命、短すぎてさ」

「何度見送ったっけ」


深く息を吐く。

「恒一」

名前を出した瞬間、声が少しだけ揺れる。


「お前、笑ってたな」

「神に勝つって、馬鹿みたいに」

「でも本気でさ」

「……俺より人間だった」

少しだけ笑う。


涙は出ない。

もう枯れている。


「宇宙も」

「ネメシスとの戦争も」

「全部、俺の不甲斐なさだ」


「父親ぶって」

「神ぶって」

「でも本当は」

静かに自分に言う。

「ずっと、怖かっただけだろ?」


沈黙。


波の音。

夜風。

「嫌われるのが怖くて」

「失うのが怖くて」

「だから力で守ろうとした」

「力があれば、壊れないと思ってた」


小さく首を振る。

「でも壊れたのは」

「俺のほうだったな」


崖の縁に近づく。

下は闇。

落ちれば終わる高さ。

でも足は止まる。

「なぁ、エーテル」

「お前、何者なんだよ」

自分に問いかける。

返事はない。


「神でもなく」

「父でもなく」

「創生でもなく」

「ただの……」

少しだけ笑う。


弱く。

「かやの隣にいたかっただけの男か」


風が吹く。

一歩、後ろに下がる。

落ちない。

選ばない。

終わらせない。


「俺さ」

「全部覚えてる」

「何百回転生しても」

「何千回死んでも」

「結局さ」


夜空を見る。

星は見えない。

でも分かってる。

「誰かの隣にいたかっただけなんだよ」


静かに息を吐く。

「……弱いな」

「俺」


自分で自分に言う。

否定も肯定もない。

ただ受け入れる。


「でもさ」

「それでいいか」

「神じゃなくていい」

「完璧じゃなくていい」

「壊れててもいい」


胸を押さえる。

ちゃんと鼓動している。

人間の鼓動。

「俺は俺だ」

「エーテルでも」

「久世でも」

「創生でもなく」

「ただの俺」


崖から背を向ける。

一歩踏み出す。

足が重い。

でも進む。


「帰るか」


誰に向けてでもなく。

ただ、自分に言う。



 崖を離れたエーテルは、森の影に身を沈める。

足音を殺し、気配を消し、

かつて神だった頃の癖だけを残したまま。


少し先に灯りが見える。

旅館。

あの場所。

笑い声が風に乗って届く。


かやの声。

ルミナのはしゃぎ声。

セラとアークの言い合い。

レオンの意味不明な機械音。

ネメシスの小さな笑い。

全部、生きてる音。


木の陰から、そっと覗く。

みんながいる。

いつもの光景。

壊れていない日常。

自分がいなくても回っている世界。


かやが笑っている。

少し疲れた顔で、それでも優しく。

ルミナの頭を撫でながら。

「ほら、転ばないの」

って。


その瞬間。

エーテルの胸が、ぎゅっと縮む。

痛いほど。


でも――嬉しい。

(守れてるな)

(俺がいなくても)

(ちゃんと)


ネメシスが一瞬だけ周りを見回す。

何かを感じたように。

エーテルのいる方向を見る。

目が合いそうになる。

エーテルは反射的に一歩下がる。

影に溶ける。


ネメシスは首を傾げる。

「……気のせいか」

そう言って戻っていく。


エーテルは木にもたれる。

深く息を吐く。

震えが止まらない。


「よかった」

小さく呟く。

声にならないくらいの声で。

「笑ってる」

「生きてる」

「それでいい」


目を閉じる。

一粒だけ涙が落ちる。

地面に吸い込まれる。

「俺が壊れてても」

「世界は続くんだな」

もう一度だけ見る。


最後に。

かやの笑顔を。

家族の輪を。

あの場所を。

そして――


背を向ける。

今度こそ振り返らない。

足取りは重い。

でも止まらない。

「さよならじゃない」

「ただ……少し離れるだけだ」


森の奥へ。

光の届かない方へ。

エーテルの姿は闇に溶けて消える。

残るのは、夜の音だけ。

そして変わらない日常。



 翌朝――

旅館の食堂に、いつも通り朝のニュースが流れていた。

湯気の立つ味噌汁。

焼き魚の匂い。

何も変わらない朝。

……変わったのは、テレビの声だった。


「今朝未明、近隣の山林で身元不明の遺体が発見されました――」


画面には、森の入り口。

規制線。

慌ただしく動く人影。


その瞬間。

かやの箸が、音を立てて落ちる。

カラン、と乾いた音。

誰も動けない。


「遺体は成人男性とみられ――」

「身元は現在確認中で――」


ルミナが小さく呟く。

「……森」

ミラも顔を青くする。

「昨日……あっちの方……」

ルークは言葉を失っている。

ネメシスの手が震え始める。

セラは息を吸うことすら忘れて固まっている。

アークは無意識に拳を握りしめていた。

レオンの機械音が、静かに止まる。


かやだけが――

立てない。

椅子にしがみついたまま、画面を見つめ続ける。


(森)

(昨日)

(最後にいた場所)


頭の中で全部つながっていく。

嫌な予感が、確信に変わっていく。


「エーテル……?」

声がかすれる。

誰も否定できない。

誰も「違う」と言えない。


ニュースは続く。

「所持品などはなく――」

「身元の特定には時間がかかる見込みです――」


かやの呼吸が荒くなる。

胸を押さえる。

「やだ……」

「やだやだやだ……」


ルミナが走り寄る。

「ママ……違うよね? エーテルはただ帰ってないだけだよね?」


かやは答えられない。

声が出ない。


ネメシスがぽつりと呟く。

「……昨日、感じた」

「気配……あれ……」


その先が言えない。

部屋の空気が凍る。

音が消える。

世界が止まったみたいに。


かやの目から涙がこぼれる。

静かに。

止まらなくなる。

「……嘘でしょ」

「置いていかないって……」

「一人にならないって……」


誰も抱きしめられない。

誰も慰められない。

全員が同じ恐怖を抱えているから。

テレビでは、淡々と次のニュースへ。

まるで一つの命なんて、日常の一コマみたいに。


かやは震える声で言う。

「確認……行く」

「行かなきゃ……」


その一言で、全員が理解する。

逃げられない。

現実を見に行くしかない。

でも心のどこかで、

みんな同じことを祈っている。


エーテルであってほしくない。

でも、生きていてほしい。



 崖に立ったあの夜。

創生エネルギーを完全に封じる直前、エーテルは最後の力を使っていた。


自分の細胞情報、体温、血液反応、骨格。

すべてを完璧に再現した疑似生命体。

呼吸は止まり、脈は消え、腐敗の進行すら人間と同じ速度。

誰が見ても「死体」だった。


「……これでいい」

静かにそう呟いて、エーテルはそれを崖下へ落とした。


そして振り返らず歩いた。

創生神ではなく

英雄でもなく

父でもなく

ただの“名もない人間”として。


翌朝――

ニュースに映ったのは、その偽造された身体。

完璧すぎて、神ですら見抜けないレベル。


だからこそ。

かやたちは本気で絶望した。

それがエーテルの狙いだった。

(追って来ないように)

(忘れてくれとは言わない)

(でも、俺のいない世界を生きてほしい)


遠くの町へ向かうエーテルは、ポケットの中の通信端末を強く握りしめていた。


最後に聞いたかやの声。

「ありがとう……もう無理だ……」

その言葉が、胸を裂く。

「……ごめんな、かや」

「生きてる方が……きっと残酷だから」


エーテルは創生エネルギーを完全封印。


もう癒せない。

もう戻れない。

もう神じゃない。


怪我をすれば痛い。

疲れれば倒れる。

老いれば死ぬ。

ただの人間になった。


そして静かに旅に出る。

誰にも知られず。

誰にも頼らず。

誰にも愛されない場所へ。


その一方――

かやたちは、遺体を前に完全に崩壊する。

ルミナは泣き叫び、

ネメシスは自分を責め、

セラは正気を失いかけ、

アークは壁を殴り続ける。


誰も立てない。

皮肉なことに。

エーテルは生きているのに、

“死んだ方が楽だった世界”を残していった。



 エーテルは若い姿のまま。

見た目は何も変わらない。

――けれど中身は違った。


創生エネルギーで支えていた“時間の重み”が、

人間の肉体に一気にのしかかる。

本来なら宇宙が何百回終わるほどの年月。

それを一つの身体で受け止めている状態。


最初に現れる異変は些細だった。

・理由もなく膝が砕ける

・呼吸が止まるほど胸が痛む

・視界が白く飛ぶ

・指が動かなくなる


医者に行っても原因不明。

「年齢と症状が一致しません」

「理論上、生きていられない」

そう言われるだけ。


実際の身体年齢は20代。

内部年齢は数百億年。


骨は宇宙の圧縮を受けたように悲鳴をあげ

心臓は恒星を回し続けた負荷を抱え

神経は銀河を走り続けた疲労を溜め込んでいる。


エーテルは理解する。

「……これが神をやめた代償か」


封印した力が守っていたのは

寿命じゃなく“時間そのもの”だった。

しかも悪化は止まらない。


今日は歩けても

明日は立てない。

昨日話せても

明日は声が出ない。


身体は過去の年月を取り戻そうと壊れていく。

それでもエーテルは治さない。

治せる力はもう使わないと決めたから。


夜、一人で笑う。

「……案外、人間って忙しいな」

血を吐きながら。

そして思う。


かやたちが知らなくてよかった、と。

この姿を見せたら

絶対に追ってきてしまうから。


 

 豪雨が、夜の街を叩き潰すように降っていた。

傘なんて意味をなさないほどの雨粒が、容赦なくエーテルの身体を打つ。

髪は顔に張りつき、服は重く水を吸い込んで、まるで鎧のようだった。


それでも、彼は歩く。

ふらつきながら。

引きずるように足を出しながら。

一歩進むたびに、膝が笑う。


骨の奥が砕けるような痛みが走る。

肺に水が溜まったみたいに息が苦しい。

それでも止まらない。

街灯の下を通るたび、一瞬だけ照らされる顔。


血の気はなく、唇は紫色。

目の焦点は合っていないのに、どこか必死に前だけを見ている。


まるで――

生きることそのものにしがみついている人間の顔だった。


神だった頃の威厳も

創生の光も

もうどこにもない。

そこにいるのはただ、

壊れかけの青年ひとり。


突然、足がもつれる。

エーテルは前のめりに倒れ、濡れたアスファルトに手をつく。

衝撃で息が詰まり、喉からくぐもった音が漏れる。


雨水と一緒に、赤いものが地面に落ちた。

「……はは」

かすれた笑い声。

「人間って……こんなに脆かったか」


震える指で口元を拭うが、血は止まらない。

視界がぐらつく。

世界が滲む。

雨なのか涙なのか、もう分からない。


それでも、彼は立ち上がる。

よろけながら、壁に手をつきながら、また歩き出す。


誰もいない道。

誰にも気づかれない崩壊。

豪雨の音だけが、エーテルの呼吸をかき消していく。


頭の中に浮かぶのは、かやの笑顔。

ルミナの声。

家族の温度。

「……会ったら、戻りたくなるからな」


小さく呟いて、首を振る。

だから会わない。

だから一人で消える。

雷が空を裂き、一瞬だけ世界が白く染まる。


その光の中で見えたエーテルの姿は――

まるで既に半分、こちらの世界から消えかけているようだった。


細くなった影。

震える背中。

必死に前へ進む足。

そしてまた闇に戻る。


豪雨の中へ。

誰にも看取られず

誰にも知られず

ただ時間に殺されていく存在として。



 雨はさらに激しくなった。

空が割れたような轟音とともに、滝のような水がエーテルの身体を叩き続ける。

呼吸をするたび、冷たい空気が肺を切り裂く。


もう足の感覚はほとんどなかった。

それでも彼は進む。

なぜか分からない。

生きたいのか、終わらせたいのかすら分からない。

ただ——止まれなかった。


視界の端が黒く染まり始める。

音が遠のく。

雨音が、水の底から聞こえてくるみたいに鈍くなる。


「……あぁ……」

喉から漏れた声は、もう声ですらなかった。

その瞬間、膝が完全に砕けるように落ちた。

エーテルは前のめりに倒れ、顔から水たまりに突っ込む。


冷たい。

息ができない。

必死に腕を動かそうとするが、力が入らない。

指先が、わずかに痙攣するだけ。


脳裏に浮かぶ。

笑うかや。

抱きつくルミナ。

喧嘩ばかりの兄妹たち。


全部、遠い。

まるで他人の人生みたいだった。

「……守れなかったな……」


水の中で泡が弾ける。

「神のくせに……父親のくせに……」


雨水が口に流れ込み、喉を塞ぐ。

咳き込もうとしても、体が反応しない。


視界が完全に暗くなりかけたその時——

彼の耳に、はっきりと聞こえた。


かやの声。

「エーテル」

幻覚だと分かっているのに、反射的に顔を上げようとする。

だが首は動かない。

ただ、涙だけが水に混ざっていく。


「……ごめん……」


そのまま数秒。

いや、数分。

もしかしたら、ほんの一瞬。

エーテルの胸は二度と上下しなかった。


雨は止まらない。

街はいつも通り動いている。

誰一人、

この世界を救った存在が今ここで死んだことを知らない。


救急車も来ない。

悲鳴も上がらない。

ただ一人の青年が、水たまりの中で冷たくなっていくだけ。


翌朝。

ニュースの片隅に小さく流れる。

「身元不明の男性、低体温症と衰弱死」


名前はない。

顔もぼかされている。

それが誰だったのか、誰も分からない。

かやたちは画面を見る。

心臓が凍る。

でも——

それがエーテルだと証明するものは何もない。


希望だけが残る。

そして同時に、

一生消えない後悔も残る。

本物のエーテルは、遠くで倒れている。


誰にも看取られず。

誰にも抱きしめられず。

ただ、世界に捨てられたように。



 雨の中で倒れた身体は、完全には死んでいなかった。

心臓は——

限界の限界で、かすかに動いていた。


人間になったことで弱くなった肉体。

だが同時に、かつて創生神だった名残が“死を拒んだ”。


数時間後。

山道を通りかかったトラック運転手が異変に気づく。

「……おい!?生きてるぞ!!」


泥だらけで、体温はほぼゼロ。

呼吸は糸みたいに細い。


医者は後で言った。

「普通なら確実に死んでる」

それでも彼は生きていた。


病院。

集中治療室。

何日も昏睡状態。

心拍は不安定で、何度も止まりかける。

そのたびに医療機器が悲鳴を上げる。


そして——

ある朝。

指が、わずかに動いた。

瞼が震える。

ゆっくり、ゆっくりと開く目。


「……ここ……どこ……?」

声はかすれて、弱々しい。


看護師が叫ぶ。

「先生!目を覚ましました!」


医師が質問する。

名前は?


「……わからない」


年齢は?


「……わからない」


家族は?


「…………誰も、浮かばない」

完全な記憶喪失。


エーテルという存在も

かやも

創生も

宇宙も

神々も

――すべて消えていた。


残ったのは、

ただの傷だらけの青年。


医師は静かに言う。

「極度のショックと衰弱による逆行性健忘です。過去の記憶がほぼ全て失われています」

戻る保証はない。

むしろ戻らない可能性の方が高い。


夜。

病室の窓から雨上がりの空を眺めながら、青年はぽつりと呟く。

「……なんかさ……」

「すごく大切なものを……失くした気がする」


胸が、理由もなく痛む。

涙が勝手に落ちる。

でも何を悲しんでいるのか分からない。


一方その頃——

かやたちは「死体が本人か分からない」という事実にすがって生きている。

でも時間が経つほど希望は薄れる。


葬式も出せないまま。

毎日が止まったまま。

そして皮肉にも。

エーテルは生きているのに、誰もそれを知らない。

彼自身ですら、自分が誰だったのか知らない。



 白い天井。

消毒液の匂い。

規則的な電子音。

青年は、目を覚ましてからもしばらく自分の身体を動かせなかった。


神だった頃の再生力はもう無い。

創生エネルギーも無い。

残ったのは、数百億年分の負荷を受けた“ただの人間の身体”。


医師が告げる。

「命は助かりましたが……神経系に深刻なダメージがあります」

両脚は、ほとんど動かない。

長時間立つこともできない。

激しい運動は一生無理だろう。


数週間後。

彼は車椅子に乗ることになる。

最初は自分で押せない。

腕にも力が入らない。

リハビリ室で、療法士に支えられながら

少しずつ、少しずつ、前へ進む練習をする。


ガラ…ガラ…


病院の廊下を、ぎこちなく進む車椅子。

窓の外には、普通の街。


学生が笑っている。

会社員が走っている。

彼はそれを、ただ眺める。

「……ああ」

「俺も、ああいう人生だったのかな」

思い出せない。

でも胸が締め付けられる。


リハビリは地獄だ。

足に力を入れようとするが、応えない。

汗が流れる。


震える。

倒れ込む。


それでも彼は言う。

「……もう一回、やります」


理由はない。

でも、諦めたくない。

なぜか“諦めること”が嫌だった。


夜。

病室。

静まり返った空間。

車椅子のブレーキをかけ、窓際に寄る。

「……俺、誰かを守ってた気がするんだよな」


看護師が聞き返す。

「覚えてるんですか?」


「いや……全然。でも……」

胸に手を当てる。

「ここが、空っぽでさ」

涙が、静かに落ちる。


ある日。

小さな子供が入院してきた。

泣きじゃくっていた。

彼は車椅子をゆっくり押して近づく。

ぎこちなく、微笑む。


「大丈夫だよ」

自分でも驚くほど、優しい声だった。

子供は少し泣き止む。


それを見た看護師が、あとで小声で言う。

「あなた、きっと昔も優しかったんでしょうね」

彼は苦笑する。

「……だと、いいな」


ある夕方。

リハビリの帰り道。

車椅子を自分で押しながら、ふと空を見上げる。

夕焼け。

胸が、ズキンと痛む。

一瞬だけ、映像がよぎる。


花火。

笑う女性。

子供の声。


だが、掴めない。

霧のように消える。


彼は静かに呟く。

「……ごめん」

誰に言っているのか分からない。

でも謝ってしまう。


病院生活は続く。

派手な戦いもない。

宇宙もない。

神もいない。


あるのは

・リハビリ

・食事

・眠れない夜

・窓の外の空

・時々理由もなく流れる涙

それでも彼は、生きている。


神ではなく。

創生神でもなく。

エーテルでもなく。

ただの、傷だらけの青年として。



 季節が変わった。


病院の桜が散り、

夏の強い日差しになり、

また落ち葉が舞って、

雪が窓を白く染めた。

それを何度も、彼は車椅子から眺めた。

退院はした。


「自立生活は可能です。ただし車椅子が必要です」


小さなアパート。

段差をなくした部屋。

低いキッチン。

手すりだらけの風呂場。

誰もいない。


朝。

アラームが鳴る。

ゆっくり体を起こし、

ベッド横の車椅子に移る。

慣れるまで何度も転んだ。

床に顔を押し付けたまま動けず、

数時間そのままのこともあった。

それでも、這って戻った。


コンビニへの道。

車椅子のタイヤがアスファルトをこする音。


ガラ…ゴロ……


通学する学生が追い越していく。

誰も彼を見ない。

見ても、すぐ視線を逸らす。


弁当はいつも安いもの。

片手でふたを開けるのに時間がかかる。

箸を落とす。

拾うのにまた時間がかかる。

ため息だけが増えていく。


仕事は在宅の軽作業。

データ入力。

チェック作業。

一日中、モニターと向き合う。

肩と背中が痛む。

でも働かないと生きていけない。


夜。

シャワーで身体を洗うのに30分以上かかる。

脚はほとんど感覚がない。

時々ぶつけて血が出ていても気づかない。

ベッドに戻ると、天井を見る。


「……俺、何してたんだろ」

答えは出ない。


ただ胸が苦しくなる。

たまに夢を見る。

誰かに抱きしめられている夢。


「無事でよかった」


そう言われている。


目覚めると、枕が濡れている。

年を重ねた。

髪に少し白が混じる。

腕の筋肉は細くなった。

車椅子の扱いだけが上手くなった。


街のイベントで花火が上がった夜。

彼はアパートの前で見上げる。

ドン、と音が響くたび胸が震える。

理由も分からず涙が出る。


「……きれいだな」


それだけ。

誰にも気づかれず。

英雄でもなく。

神でもなく。

ただの“生きている人間”として数年。


それでも彼は、生きている。

苦しくても。

孤独でも。

何も思い出せなくても。

生きることだけはやめなかった。



 スマホの画面を見つめて、彼はしばらく固まっていた。


【予約確定】


地元で何か月待ちが当たり前の有名旅館。

テレビでも何度も紹介されている場所。


「……取れたのか、これ」

指が少し震える。

正直、期待半分だった。


車椅子だし

一人だし

どうせ無理だろうって思ってた。

それが、まさかの空き。


胸の奥がじんわり温かくなる。

「こんな人生でも……いいことあるんだな」

誰に言うでもなくつぶやく。


当日。

電車を乗り継いで、送迎バスにも乗せてもらって。

窓の外は山と川と緑。

風が気持ちいい。


旅館に着くと、スタッフがすぐ駆け寄ってくる。

「段差はこちらで対応しますね」

「お部屋もバリアフリー仕様をご用意しております」


やさしい声。

自然な気遣い。

それだけで泣きそうになる。


部屋は広くて、畳の匂いがして、窓の外には庭園。


鳥の声。

水の流れる音。

静か。

彼は車椅子のまま、ぼーっと景色を見る。


「……すげぇ」

久しぶりに心から出た言葉。


夕食。

豪華な和食が並ぶ。

少しずつ切ってもらいながら食べる。

一口ごとに胸がいっぱいになる。


美味しさと、ありがたさで。

温泉も介助付きで入れる。


湯に浸かった瞬間、力が抜けた。


「あぁ……」


身体だけじゃなく、心まで溶ける感じ。


夜、布団に横になる。

障子越しの月明かり。

虫の声。

静寂。

彼は小さく笑った。

「悪くないな……この人生も」

初めて、そう思えた。



 次の日の夕方、

庭園の縁側で彼は車椅子に座って風を感じていた。

竹が揺れて、カラン…と小さな音が鳴る。

そのとき。


「……そこ、風気持ちいいよね」

不意に隣から声。

振り向くと、そこにいたのは――


短めの髪。

整った顔立ち。

柔らかい目。

浴衣姿で、細身で中性的。

男の子なのか女の子なのか、一瞬わからない。


「……あ、うん」


「やっぱり。ここお気に入りなんだ」

その子はにこっと笑って、自然に隣に座る。

距離感が妙に近いけど、不快じゃない。


「一人旅?」


「……まあ、そんな感じ」


「そっか。俺も……いや、私も一人」


一瞬言い直した。

ますますどっちか分からない。

沈黙が来るかと思ったけど、不思議と会話は続いた。


景色の話

料理の話

温泉気持ちよかった話

どうでもいいことなのに楽しい。

「ここさ、来ると全部リセットされる気しない?」


「……する」


「なんか、生きててよかったなーって」

その言葉に、彼の胸が少し締め付けられる。

「君は?」


少し間をおいて聞かれる。

「ここ来て、どう?」


彼は空を見る。

「……久しぶりに、幸せって思った」


その子は目を丸くしてから、ふっと優しく笑う。

「それ最高じゃん」


しばらく並んで夕焼けを見る。

風が吹く。

同じ方向を見る二人。

「ねぇ」


「ん?」


「また明日もここ来よ。時間同じくらいで」


「……いいよ」


「約束ね」

小指を差し出してくる。

彼は少し迷ってから、指を絡めた。

「約束」


その瞬間、胸の奥があったかくなる。

孤独じゃなかった。

久しぶりに。



 夜になると、昼とはまるで別世界みたいに旅館が輝きだした。


行灯の柔らかい光。

廊下に漂う出汁の香り。

静かな三味線のBGM。


そして――

昨日と同じ、信じられないほど豪華な夕食。

湯気の立つ土鍋。

艶のある刺身。

宝石みたいな小鉢料理がずらりと並ぶ。


「……今日もすごいな」

思わず呟くと、


「うちの自慢だからね」

と、あの中性的な子が向かいに座って笑う。


そこへ現れる可愛らしい女将。

優しい目元で、深く丁寧にお辞儀をする。

「本日もお越しいただきありがとうございます。

どうぞ、ごゆっくりお召し上がりくださいね」


声まで柔らかくて、旅館そのものみたいな人。

去り際にちらっとこちらを見るその仕草が、どこか“知っている誰か”に似ている気がして――


彼の胸が少しだけざわつく。

理由はわからない。

でも懐かしい。


「女将さん、綺麗だよね」


と隣の子が小声で言う。

「……うん」

「この旅館、あの人がいるから守られてる感じする」


守られてる――

その言葉が胸に刺さる。

料理を食べながら、二人で今日の出来事を話す。


「昼の庭、風最高だったね」

「温泉も長く入りすぎた」

「料理多すぎて幸せ」

笑うたび、心が軽くなる。


ふと、その子が真剣な顔になる。

「ねぇ」


「ん?」


「ここ来てからさ……君、前より表情増えたよ」


彼は驚く。

「そう?」

「うん。昨日はずっと遠く見てる顔してたのに、今日はちゃんと今見てる」


沈黙。


箸の音だけが響く。

「……ありがとう」


小さく言うと、その子は照れたように笑った。

「こちらこそ」

その時、廊下の奥で女将がこちらを見て微笑んでいた。

まるで――

再会を喜んでいるような目で。



 

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