二十九話 ようたいの者
「こんにちは」
カコは表情を少しも変えずに挨拶をする。
まるで、外出先でご近所さんに会った時のように。
そこそこ最近、酒瓶で殴った相手に対する態度とはとても思えない。
反して結華は、嫌悪感丸出しの表情。
殴られた側の態度としては模範的だろう。
「なぜここに――」
結華はそう言いかけるが、女子生徒たちの困惑した顔を見、言葉を止める。
そして代わりに、つい先ほどまでの上品な笑みを顔に戻した。
「あら、校外学習か何かでいらしたの?」
断じて荒井カコにではなく、女子生徒たちに向けて、彼女は言う。
「は、はい」
「そうです」
女子生徒たちはホッとしたように頷いた。
「遠宮さんと、稲川さんです」
カコがそう付け足した途端、結華の口元が引きつる。
いやにぬるい風が彼女らの傍を通っていった。
建付けの悪い戸よろしくガタつく空気に、カコの半歩後ろに立つ侃螺は更に半歩後ろに下がる。
面倒くさい、と顔に書いてあるようであった。
「華瑚嶌は良いところですわ。ぜひ楽しんでいってくださいな。……ああ、もし危ない人間や怪しい物を見かけたら、私に連絡をくださいまし」
ギリギリ理性に感情が勝ったのであろう、結華は努めて穏やかに話を続ける。
あくまで女子生徒たち、改め遠宮と稲川に対して。
「わかりました」
荒井カコは平気で返事をする。
「あなたには言っておりませんわ!」
感情が逆転勝利を収めた。
が、結華はすぐにハッとして、また張りぼての笑顔を立て直す。
「こほん。……こちらが連絡先ですわ。私、危険物調査の会社に勤めておりますの。民間企業ですが、各地の自治体とも連携していますのよ」
彼女はそう説明しながら、遠宮と稲川に名刺を手渡した。
シンプルな白地のそれには電話番号と共に、「株式会社 陽泰会」、「二級調査員 苑ノ崎結華」との文言が書かれていた。
「へえ……」
遠宮たちは感嘆の声を漏らしつつ、手元のスマートフォンで検索をかける。
すると確かに、陽泰会なる会社のホームページがヒットし、連携先だという自治体のページにもその名が載っていた。
「ふむ。妖退連とやらだけでなく、斯様な組織にも属しているのか」
「隠れ蓑ですね」
侃螺の言葉に反応したカコに、遠宮たちは「えっ?」と目を丸くする。
背景事情を知らず、侃螺の声も聞こえない彼女らからすれば、カコがおもむろに誹りを放り投げたようにしか見えなかったからだ。
しかし結華は余裕の表情で、ふっと笑った。
「まあ、隠れ蓑だなんて。ちゃんとした会社ですわよ。少なくともあなたのような道徳を知らず敬意を知らず自分本位で野蛮で粗暴で反社会的で非人間的で不健全な交友関係に漬かっている不埒者よりは!」
暴言の濁流である。
余裕も何もあったものではない。
「言われているぞ、荒井カコ」
「あなたはそもそも論外! ですわこの妖怪風情が!」
言い終えてから、結華は我に返る。
しかし時すでに遅く、目の前では遠宮と稲川が訝しげな視線をこれでもかと送っていた。
なお肝心のカコはどこ吹く風である。
「……とにかく。縁がありましたら、またお会いしましょう」
これ以上は掘った墓穴を更に深くするだけだと判断したのだろう。
結華は無理やり話を締め括り、踵を返した。
「えっ……と……。い、行こっか?」
遠宮がぎこちない笑顔を作って言う。
彼女にも、そして稲川にも、非常にげんなりとした空気が漂っていた。
***
さて、思わぬ遭遇により他の班よりも出遅れる形とはなったが、カコたちもようやく自由行動を開始した。
最初の行き先は、稲川の希望である海岸。
海から遠い地域で暮らす彼女は、かねてから綺麗な海を見たいと手を挙げていたのだ。
4人で駅からゆっくり歩くこと十数分。
昔ながらの住宅地を抜ければ、サッと視界が開ける。
「わ……!」
稲川は口を明け、顔を輝かせた。
目の前いっぱいに広がるのは、良く晴れた空と、青い海。
海岸に視線を沿わせれば、雄大な山が構えてもいる。
波立つ水面は陽光を反射して不規則に煌めき、寄せては返す様は優美な生き物のようであった。
「綺麗ですね」
「ふむ、悪くない。人間が少ないのが特に良い」
沖の方で、ぽしゃんと魚が跳ねる。
カコはしばらく海を見た後、稲川たちの方に顔を向けた。
「海は好きですか」
「えっ? あ、うん、好き。っていうか、憧れるっていうか」
突然ごく普通の質問をされ、戸惑いながらも稲川は答える。
「あ……荒井さん、は、どう?」
「見る分には」
カコは短く発する。
含みのある回答だが、何のことは無い。
海水の塩分でベタつくのがあまり好きではないだけである。
だがそうとは知らない稲川は、カコの発言を深読みしたのか、気まずそうに口を閉じてしまった。
「あの山は?」
続いてカコは、遠宮に尋ねる。
指差したのは右手に見える大きな山。
つんと尖った山頂のそれに、カコはいくらかの興味を覚えていた。
「確か……魂源岳っていうらしいよ。山頂に鳥居があるんだって」
「そうですか」
「の、登ってみる? ……のは、さすがに時間的にも体力的にもキツいか」
あはは、と遠宮は苦笑いをする。
彼女なりに、荒井カコとのコミュニケーションを試みているようだった。
「はい。登るのはまた、時間のある時に」
「懸命な判断だな」
横から口を挟む侃螺を一瞥し、カコは踵を返した。
「次はどこへ行きましょうか」
「ええと……荒井さんは、行きたい場所、無いの?」
稲川はおっかなびっくり尋ねる。
どこにいくつあるかもわからない彼女の逆鱗に触れないように、あるいは触れてもすぐに手を離せるように。
「…………」
カコは口を閉じ、侃螺を見る。
その仕草が、どうやら意見を求めるもののようだと侃螺が気付くには、若干の時間を要した。
「どこへなりとも、行けばよかろう。私は貴様とこやつらを見守ってやっているだけだ」
ふん、と彼は鼻を鳴らす。
土地勘が無ければ地図も持たないくせして、引率者気取りである。
特段リクエストは無いと受け取ったカコは、遠宮たちの方へ視線を戻した。
「では、カフェに」
「カ……!?」
遠宮と稲川は揃って目を見開く。
世の理をゴム毬か何かだと思っていそうな荒井カコが、カフェなどという文化的な空間に関心を持っているとは、思いもよらなかったのである。
しかしそんな無礼な驚きを口にできるはずもなく、彼女らは出かけた言葉を呑み込んだ。
「あっ……い、良いと、思う! うん、華瑚嶌のおしゃれカフェ、堪能しちゃお!」
「お昼もまだだったし、丁度いいね!」
女子高生としては、ごく一般的。
故に荒井カコとしては、異常に見える。
実のところは、案外カコはそうした平穏な楽しみも好むところがあるのだが。
そうとは知らない遠宮たちは冷や汗をかきつつ、しおりを開いた。
「ここからだと……このお店が近いかな。日本茶と抹茶スイーツが売りの和風カフェだって」
「わあ、俄然お腹減ってきた!」
遠宮と稲川はきゃっきゃと盛り上がる。
その傍らで、カコは侃螺に自分のしおりを見せた。
「スイーツ、食べますか」
「要らぬ。茶だけで十分だ。甘味はさして好まぬ」
素っ気なく言いつつも、お茶を飲む気は当然のようにあるらしかった。
カコは満足そうに頷いて、しおりを閉じる。
と、その時だった。
「わっ!」
びゅう、とにわかに強風が吹き、稲川が目を瞑って小さく悲鳴を上げる。
カコは軽い紙製のしおりが飛ばないよう強く掴み、侃螺も煩わしげに目を細めた。
そして、風が去った後。
「……遠宮?」
稲川は呆けた声を出す。
先ほどまでそこに立ち、彼女と共にしおりを覗き込んでいた遠宮の姿が、忽然と消えていた。




