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二十五話 普通な生活

 教室は驚くほどに静かだった。


 授業時間中であるという観点から見れば、静謐が保たれているというのは良いことだ。

 しかし教師までもが言葉ひとつ発さないというのは、些か問題がある。


 そして、生徒の1人が机上で燃える教科書を眺めているというのも、いくらか問題があると言えよう。


「あ……!?」


 聞こえてきた声に、荒井カコは視線だけで教室の入り口を見る。

 そこには見慣れた妖怪が、絶句して佇んでいた。


 カコは、殺人現場の第一発見者じみた様子の彼から、再び机の上へと視線を戻す。


 教科書が燃えたのは、ほんの十数秒前のことだった。


 始業式が終わり、さっそく始まった授業。

 科目は数学、生徒たちは気だるげに教科書とノートを開き、渋々数字や記号と向かい合う。


 そんな最中、カコの目の前におどろおどろしい炎が垂れ下がってきた。


 炎はつるべ落としのように、天井から机の上まで、すとんと落ちる。

 妖力に満ちた貴重な人間を、絶対に驚かせてやると気合いを入れていたのだろう。


 荒井カコは鞄から過去帳を取り出し、炎を垂直にぶっ叩いた。


 威勢よく燃え盛っていた炎は、一瞬にして霧散する。

 しかしその火の粉が、机上に開いていた教科書に触れる。

 言葉通り尋常ではない火の粉は、あっという間に教科書を第二の炎へと変える。


 教室中がほぼ同時に気付く。

 カコの机が、教科書が燃えていると。

 だがカコは身じろぎひとつせず、炎を見つめている。


 まるで悪い夢か、出来の悪い映像作品だ。

 そんなあまりにも異様な光景に、誰もが悲鳴さえ忘れた。


 こうして、僅かな時間でこの惨状が完成したわけである。


「先生」


 為す術もない沈黙がしばらく続いたのち、荒井カコはおもむろに挙手した。


「3行目と4行目の間で、b²cos²A+b²sin²Aをb²(cos²A+sin²A)にした上でcos²A+sin²Aに1を代入している、ということですか」


 教師は数秒、呆けた顔をして、ハッと我に返る。

 カコの口から発せられたのは、今しがた自分が黒板に書いていた余弦定理の説明に対しての質問だと、気付いたのだ。


「あ、ああ。そうだな。その理解で良い」


「ありがとうございます」


 回答を得たカコは、再び口を閉じる。

 机の上ではまだ教科書が燃えていた。


 教師は唾を呑み込む。

 その目に勇気の光が、ちらりと瞬いた。


「そ……それで、∠Aが90°だった場合は、cos90°=0だから……」


 授業再開。

 何事も無かったかのように、余弦定理の解説が再開された。


 恐らく、流れを取り戻すには今しかないと思ったのだろう。

 カコがもたらした機を掴み、教師は強引ながらも、教室を事件現場から教育の場に戻した。

 尤も、教室を事件現場にしたのはカコなのだが。


 さて、一部始終を見ていた侃螺は、四つ足の状態でなければ手で顔を覆っているところだった。


 危惧していた事態をここまで早々に目の当たりにするとは、思いもしていなかったことだ。


 こんな調子で、荒井カコは本当に学生としてやっていけているのかと、侃螺はかぶりを振る。

 なお実態として彼女は退学寸前なので、どちらかと言えばやっていけていない。


 やがて10分と少しの時間をかけてカコの教科書は燃え尽き、更に数十分の時間を経て、授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。


「では今回はここまで。冬休みの宿題は来週中には返すからな」


 そう言い残し、数学の教師は逃げるように職員室へと帰っていく。

 まさかその職員室に、このクラスの担任によって回収された、八つ裂きの宿題が待ち構えているとは露知らず。


「終わったー」


「購買行こ、購買」


「あ、俺ちょっと部室寄るわ」


 ところで、たったいま終わったのは、4時間目の授業だった。

 であればこれより1時間は昼休み。

 生徒たちは一斉に動き出し、各々自由に移動し始めた。


「む……」


 教室から出たい生徒たちが入り口にぞろぞろと来るので、侃螺はいったん廊下へ、そして廊下も既に人間で溢れていたので窓の外へと避ける。


 まだ荒井カコのことが気になるところではあるが、こうも忙しなくては居場所が無い。

 しばし思案したのち、侃螺は仕方なく一時後退を決めた。



***



「想像以上だな……」


 零れ出た言葉は、カコの蛮行についてか、学校という場所の活気についてか。

 はっきりしないところではあったが、いずれにせよ、その声はいくらかの疲労感を孕んでいた。


 侃螺が人間たちを避けてやってきたのは、校舎の屋上だった。


 藍町高等学校は、基本的に屋上への侵入を禁止している。

 そのため人間の目に見えない、人ならざる者が休息を取るには、うってつけの場となっていた。


「ふむ、悪くない」


 晴れた空を見上げ、侃螺は息を吐く。

 校舎内をうろついた末、「立ち入り禁止」の札をかけられた扉を見つけられた己の成果に満足げだった。


 若い人間のはしゃぐ声が遠くから聞こえてくるが、それ以外は実に快適。

 天気も良く、侃螺は落ち着いた時間を過ごせそうであった。


「こんにちは」


「っ!?」


 落ち着いた時間が終わった。


 侃螺は突如として現れた声に横を見る。

 当然、そこにはカコが立っていた。


「荒井カコ、貴様なぜ」


「侃螺さんが見えたので」


「ふむ……なるほど、ここは立ち入り禁止ではなかったのか」


「いえ、立ち入り禁止ですよ」


「は?」


 侃螺は顔をしかめる。


 対して、涼しい表情で風に髪を揺らすカコの佇まいは、何ら問題が無いように見えた。

 実のところ、彼女は問題まみれであるのだが。


「なぜ学校に?」


 カコの黒い瞳が侃螺の目を覗く。


「貴様が、貴様の言う『学校』で如何に過ごしているのか、見にきてやったのだ」


「御覧の通り普通です」


「現代では『普通』と言えば『野蛮』の意味なのか」


 ごく普通な拳が侃螺の脳天に突き刺さる。

 荒井カコはパーよりグーでいく派である。


「別に居てもいいですが、特に面白いことはありませんよ」


「ふん。貴様がせめて人間を殺生せぬよう、見張っておいてやる」


 2人が居る場所より下の方、グラウンド横の小さなバスケットコートから、ワーッと騒ぐ若い声が響いてくる。

 どうやら小さな試合が始まったようだった。


 侃螺はふと、その声の中に何かを聞き、二足歩行の人間の姿に変じた。


「……妖怪が交ざっているな」


 コートを見下ろし、彼は呟く。


 傍から見れば、そこに居るのは遊びに興じる4人の男子生徒。

 しかし侃螺と、無論カコの目には、4人の中に在る人間でない者が映っていた。


「あれは憑いてはいない。化けているだけだ。あやつらは知らぬ顔に、気付かぬものなのか」


「その必要が無いからでしょう」


 現代でもしばしば耳にする「怖い話」に、こういうものがある。

 子どもたちが数人、集まって遊んでいる。

 すると知らぬ間に、明らかに1人多くなっている。

 だが誰も、誰が増えたのかわからない。


 カコは侃螺と並んで、男子生徒たちを眺める。


「遊び相手が増えることくらい、よくありますよ」


「ふむ。まあ、無害であるなら障りも無いか。教本を燃やして平然としている人間より、こちらの方が」


 言い終える前に、侃螺の口はカコの普通な拳により閉じられることとなった。

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