散歩前の犬。
彼との同棲が“始まって”1週間が経った。
大変だけどなんとか大学にも通っている。
すぐに景との生活は自然なものになった。
最初こそ戸惑ったが、生活しているうちに私と景との間にルールができてきた。
朝ごはんは先に起きた方。…だいたい景。
スイーツを買う時は相手の分も買う。
買い物は一緒に行く。
スマホの中には、一年と二ヶ月のデートの記録が写真フォルダに残っていた。水族館やひまわり畑。雪だるまを作る動画やカラオケ。そのほとんどが景の笑顔だった。私の写真は数枚しか無かったが、そのどれもが幸せに満ちていた。
この人は私といる時こんなに幸せそうな顔をしていたんだと、覚えていない自分に胸が痛んだ。
過去の私について聞いた時、景は愛おしそうな顔で思い出話を聞かせてくれた。
景は決して過去の私と今の私を比べることはなかった。
私はそんな彼に罪悪感を感じている。
この数日でわかったことは彼が私のことを本当に大好きだということ。
私が失った一年と二ヶ月の記憶は、私と彼にとってかけがえのないものだったということ。
玄関の扉が開く。
「ただいま、つむぎ。」
「おかえり。景さん。」
挨拶も自然にできるようになった。
しかし、「景」と呼ぶには及ばなかった。
彼は今日の晩御飯は俺が作るよといいながらカバンを置いて炊事場に立つ。
エプロンを付ける仕草にどこか懐かしさを覚えた。
鼻歌を歌いながら上機嫌に包丁を握っている。
「ねぇ景さん。今の私と生活してて、楽しい?」
一瞬、包丁のリズムが崩れた。
「楽しいよ、すごく。毎朝つむぎの顔が見れて幸せ。」
彼の言葉に嘘は見当たらなかった。
彼は私が好きだと言ってくれる。
でも私は、今の私は、彼のことが好きなのか分からない。
景は手を止め、真っ直ぐにこちらを見る。
「大好きだよ、つむぎ。」
「……ありがとうございます。景さん。」
無愛想に思われたかもしれないが、そう返すのが精一杯だった。
「ちょっと部屋に籠ってくる。」
「いってらっしゃい。できたら呼ぶからね。」
ベッドの上で悶える。まだドキドキしている。
顔が熱い。胸が苦しい。心が痛い。
何百回と聞いてきたであろう言葉。
今の私は初めて耳にした言葉。
涙が溢れそうになる。
魂が彼に惚れているのだ。
一年と二ヶ月前からずっと。
…決めた。
今の私のまま、しっかり彼を見て好きになろう。
いつか記憶を取り戻すかもしれない私のためにも。
そう決意し、眠った。晩御飯はハンバーグだった。
正直、景のことをほとんど知らない。
今の景は私にとって親しみのある初対面という不思議な立場にある。
食べ物の好き嫌い、好きな色や季節、こだわりや趣味なんかも分からない。
聞けば教えてくれるだろうが、それは同時に何も覚えてないということを改めて突きつける行為に他ならない。
デートをしよう。
お互いを、いや、彼を知るにはそれが一番だ。
夕食中、それとなく空いてる日を聞いてみた。来週の木曜日とのことだ。ちょうど一週間後。最高のデートプランを計画してみせる。
あっという間に水曜日の夜。景の手料理は相変わらず美味しい。完全に胃袋を掴まれていた。
自室でノートを開き指を滑らせながら最高のデートプランの確認をする。
「デート、でーと……明日は朝八時には家を出たいから遅くても六時には起きて、七時間は寝たいから───。」
独り言が止まらない。
心が浮ついてにやけているのが分かって恥ずかしい。
結局、早く寝て明日の自分に一任するという結論に落ち着いた。
「明日の私、頼むよ。」
眠れたのは目を閉じて十五分ほど経ってからだった。
──六時起床。
アラームが叫ぶ前に起きた。さすが私。
手早く朝食を作る。トーストにジャム。タマゴサラダに牛乳。景ほどではないが朝食としては及第点だろう。
景は生活リズムを崩さないために毎朝七時半に目を覚ます。時間までに朝食を食べてお出かけの準備をしておかないと。
やがて景の部屋からアラームが聞こえた。
「おはよう、景さん。いつも早起きすごいね。」
お出かけ準備万端の私と、卓に並べられた朝食を見て少し驚いた様子だ。
「おはようつむぎ。朝ごはん用意してくれてありがとう。」
彼は朝食をたべながら私をまじまじと見る。変だろうか。
「“木曜日は一日私にほしい”って言ってたけど、何するの。」
「……私とデートしよ。景さん。デートプランも考えてきたんだ。」
景は目を見開いている。完全に眠気が吹っ飛んだようだ。朝食を一瞬で片付け、準備を始めた。どことなく、散歩前の犬のような雰囲気を感じた。
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