### 第3巻 第一章:沈黙の調律師
### 第3巻 第一章:沈黙の調律師
僕の世界からは、音が完全に消失していた。
広場を埋め尽くしたシンフォニーの余韻さえも、今の僕にはただの色彩のないデータとしてしか認識できない。聴力を失うということは、世界との接地面が一つ減るということだ。けれど、絶望はしていなかった。
僕はモニターの前に座り、キーボードを叩く。
入力されるのは、物理的な音ではなく、シノがかつて紡いだ歌の周波数と、僕の鼓動が記録されたバイナリデータだ。
僕の目の前には、何千もの波形が蠢いている。
高い山のようなフォルテシモ、谷のようなピアニッシモ。音としては届かないけれど、視覚情報としてそれらは確かにそこにある。僕はそれを、プログラムのコードへと一つひとつ書き換えていく。
「……ここが、今の君の歌声か」
画面上のカーソルが、メトロノームのように左右に揺れる。
物理的な音源は遮断された。けれど、僕は知っている。シノが今もどこかで歌っているということを。その歌声は、街の深層にある電磁波のネットワークを通じて、微細なノイズとなって僕の端末に届いているのだ。
僕にとって、今のモニターのカーソルは唯一のメトロノームだった。
リズムが崩れれば、世界は再び結晶の静寂に飲み込まれる。
僕は、かつてないほど精密な譜面を書き続けていた。
それはもう、耳で聴くための音楽ではない。目と、指先と、そして僕の心臓だけが共有できる、純粋な理論上の音楽。
「シノ。君の声が、データになって僕の身体を通り抜けていく」
僕は目を閉じ、指先をキーボードに置く。
聞こえなくても、わかる。今の僕の指が刻むリズムこそが、この管理された街に唯一存在する「自由」の鼓動なのだから。
僕は、音なき世界で孤独を研ぎ澄ます。
いつかまた、君の歌を直接感じられるその時まで。僕は静寂を塗り替えるための、たった一つの旋律を書き上げようとしていた。




