### 第2巻 第三章:シノの選択
### 第2巻 第三章:シノの選択
地下空間の空洞には、何千、何万という「忘れられた思い出」が結晶の欠片となって浮遊していた。それは美しい星空のようでもあったが、僕にとっては、誰かの人生の断片がゴミのように捨てられた墓場にしか見えなかった。
「この街の人々は、自分にとって辛すぎる記憶を、全て結晶に変えてここに捨てていたのね」
シノは静かに歩を進め、その欠片の一つにそっと触れた。
瞬間、彼女の細い身体が激しく光り、揺れる。彼女の目から、堰を切ったように涙がこぼれ落ちた。それは、街のどこかの誰かが捨てた初恋の記憶、大切な別れの記憶、そして二度と帰らない誰かへの執着だった。
「レイ、見て……。こんなに温かい。こんなに切ないのに、どうして捨ててしまうの」
彼女は苦しげに笑う。その笑顔が、あまりに痛々しい。
「私が歌えば、この人たちの記憶を返してあげられる。……でも、そうすれば私は、私の記憶と引き換えに、彼らの心を満たすことになるわ。この記憶を私のものとして消化し、歌に変えて空へ還すの」
彼女の言葉の意味を理解した瞬間、心臓が凍りつくのを感じた。
「待て、シノ。それじゃあ、君自身の『記憶』はどうなる?」
僕の問いかけに、シノは寂しげに瞳を伏せた。
「私は人間じゃない。みんなの忘れられた感情が集まってできた形のない存在よ。だから、私が誰かの記憶を背負うたびに、私は私でなくなっていく。……でも、それが私の役割なら、それでいい」
彼女の瞳には、死を恐れない静かな決意が宿っていた。彼女は僕の制止を振り切り、広大な空洞の真ん中へと進み出る。彼女の歌声が、地下の澱に染み込み、空間全体を震わせ始める。
僕がこれまで必死に書いてきた譜面など無意味だと言わんばかりに、彼女の旋律は、聴く者の心を抉るほどに鋭く、そして美しかった。彼女が歌うたび、彼女の輪郭が薄くなり、結晶の粒子となって消えていくのが見える。
「やめろ、シノ! それ以上歌うな!」
僕は駆け寄ろうとするが、彼女の声が生み出す波動の壁に阻まれる。
彼女が救おうとしているのは街の人々だ。しかしその対価として、彼女自身がこの地下の闇に溶け出そうとしていた。僕はただ、彼女が消えていく姿を、音楽のカーテン越しに見つめることしかできなかった。
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