第六章 エフェメラの夜
夏の終わりは、いつも唐突に近づいてくる。
昨日まで永遠みたいに続いていた蝉の声が、ふと弱くなる。
昼の陽射しはまだ痛いほど強いのに、夕方の風だけが少し冷たくなる。
海の色も、空の高さも、ほんの少しだけ変わっていく。
星見町の夏も、例外ではなかった。
八月の終わりが近づいていた。
そして、エフェメラの光は日に日に増えていた。
夜になると、町の空には淡い光がいくつも浮かぶ。
星よりも近く、蛍よりも遠い。
生まれては消え、生まれては消える、短い命の光。
商店の老婆は言った。
「今年は、ほんによう出るねえ」
それは、夏の終わりが近いということだった。
リセが消える日が、近づいているということでもあった。
僕はその事実を、できるだけ考えないようにしていた。
けれど考えないようにすればするほど、空の光は僕にそれを思い出させた。
リセは相変わらず、毎日笑っていた。
屋上で空を見て、海辺で裸足になって、バス停で何も来ないバスを待って、音楽室でたどたどしいピアノを弾いた。
けれど、前とは違うことがあった。
リセの姿が、ときどき薄く見えるようになったのだ。
最初に気づいたのは、廃校の廊下だった。
夕方、窓から差し込む光の中をリセが歩いていた。
白いワンピースの背中。
紺色の髪。
軽い足音。
その姿が、ふっと陽射しに溶けるように揺らいだ。
「リセ?」
僕が呼ぶと、彼女は振り返った。
「なに?」
「今……」
「うん」
リセは、困ったように笑った。
「見えた?」
「……少し」
「そっか」
それだけだった。
彼女は驚きもしなかった。
まるで、ずっと前から知っていたみたいに。
「いつからだ」
「昨日くらいからかな」
「どうして言わなかった」
「言ったら、昇が変な顔するから」
「今してるだろ」
「うん。予想通り」
リセは笑った。
でも、その笑顔は少しだけ寂しかった。
「痛いのか?」
「ううん。痛くないよ」
「苦しくは?」
「平気」
「本当に?」
「ほんと」
リセはそう言って、両手を広げて見せた。
「ほら、ちゃんといる」
その言葉が、胸に刺さった。
ちゃんといる。
僕は頷きたかった。
けれど、喉の奥が詰まって声が出なかった。
ちゃんといるのに。
目の前にいるのに。
彼女は少しずつ、この世界から遠ざかっている。
その夜、僕は眠らなかった。
祖母の家の居間に座り、ノートを開いた。
目の前には、これまで書いてきた文章がある。
星見町の夏。
廃校の少女。
エフェメラの言い伝え。
忘れられた願い。
夏の子。
少しずつ積み重ねてきた言葉。
まだ荒い。
下手なところも多い。
説明しすぎている部分もあるし、逃げている部分もある。
それでも、そこには確かにリセがいた。
屋上で笑うリセ。
海で転びかけるリセ。
バス停で誰かを待つリセ。
神社で泣くリセ。
ピアノを弾くリセ。
莉世の名前を思い出したリセ。
僕はペンを握った。
書かなければならない。
リセが最後まで読むと言ったから。
僕も、最後まで書くと決めたから。
けれど、手が動かなかった。
書き上げたら終わってしまう。
そんな子どもじみた恐怖が、胸の奥にこびりついていた。
物語を書き終えることが、リセとの別れを認めることのように思えた。
「……馬鹿だな」
僕は小さく呟いた。
書かなければリセが残るわけじゃない。
それはわかっている。
リセ自身が言った。
書かなくても、きっと消える。
なら、僕にできることはひとつしかない。
書くこと。
彼女がここにいたことを、できるだけ正確に、できるだけ真っ直ぐに。
僕は深く息を吸い、ペン先をノートに落とした。
夏の終わりが近づくにつれて、彼女の輪郭は薄くなっていった。
それでも彼女は笑っていた。
まるで、自分が消えることより、誰かの心に残ることの方を信じているみたいに。
書き始めると、少しずつ言葉が続いた。
怖さは消えなかった。
でも、怖いままでも書けるのだと知った。
翌日、僕はリセに原稿を見せた。
場所は、いつもの屋上だった。
空は高く、風は少しだけ涼しかった。
遠くの海は青く、町は静かで、蝉の声だけがまだ夏を引き止めている。
リセはフェンスのそばに座り、僕のノートを膝に置いていた。
「読んでいい?」
「そのために持ってきたんだろ」
「でも、緊張する」
「読む側が?」
「うん。最初の読者だから」
リセは少し得意げに言った。
僕は苦笑した。
「じゃあ、厳しく頼む」
「泣いたら勝ち?」
「何にだよ」
「昇に」
「勝負なのか」
「創作は戦いだって、昇の顔に書いてある」
「そんな顔してるか」
「してる。わりといつも」
リセは笑って、ノートを開いた。
そして、読み始めた。
風が吹く。
ページがめくれる音がする。
僕はフェンスにもたれて、町を見下ろしていた。
読まれている間の時間は、ひどく長く感じた。
昔、誰かに文章を見せるのが怖かった。
下手だと思われるのが怖かった。
つまらないと言われるのが怖かった。
才能がないと決めつけられるのが怖かった。
でも今は、それとは違う怖さがあった。
ちゃんと残せているだろうか。
リセの笑い方を。
言葉の温度を。
ふと見せる寂しさを。
彼女がここにいたという、その確かさを。
やがて、リセの手が止まった。
「昇」
「……何?」
「わたし、こんなに変?」
「かなり」
「ひどい」
「でも、嘘は書いてない」
「海で転びかけたって、まだ書いてある」
「大事な場面だからな」
「大事かなあ」
リセは頬を膨らませた。
けれど、すぐに表情を緩めた。
「でも、嬉しい」
「そうか」
「うん。わたし、ちゃんといるね」
その言葉に、胸が詰まった。
リセはページを撫でるように指でなぞった。
「ここにいる」
「……ああ」
「昇が書いてくれたから、昨日のわたしも、一昨日のわたしも、消えてない」
彼女は笑った。
その笑顔は、今まで見たどの笑顔よりも綺麗だった。
そして、今までで一番悲しかった。
「まだ終わってない」
僕は言った。
「最後まで書く。ちゃんと」
「うん」
「だから、最後まで読め」
「約束したもん」
リセは小指を立てて見せた。
僕も、自分の小指を軽く上げた。
その仕草が子どもみたいで、少し笑えた。
でも、泣きそうにもなった。
その日の夕方、リセは僕をバス停へ連れていった。
何度も来た、夕焼けのバス停。
錆びたベンチ。
古い時刻表。
誰も待っていない停留所。
リセはベンチに座り、隣をぽんぽんと叩いた。
「昇も座って」
「バスでも待つのか」
「ううん。今日は話したいことがある」
その声がいつもより静かで、僕は黙って隣に座った。
夕陽が道を赤く染めている。
遠くで波の音がした。
「昇」
「うん」
「わたしの願い、わかったよ」
心臓が小さく跳ねた。
第五章の最後、僕はノートに書いた。
彼女は、誰かの願いから生まれた。
けれど最後に願ったのは、彼女自身だった。
でも、その願いが何なのか、僕にはまだわからなかった。
「聞いていいのか?」
「うん。聞いてほしい」
リセは空を見た。
まだ夜には早い。
でも、薄い空の中に、淡い光が一つだけ浮かんでいた。
「莉世ちゃんの願いは、昇に会うことだった。昇の物語を読むことだった。忘れないでって伝えることだった」
「ああ」
「それは、もう少しで叶うと思う」
リセは静かに言った。
「でもね、わたしの願いは、それだけじゃなかった」
「何なんだ」
リセは少しだけ笑った。
「昇に、生きて書いてほしい」
言葉が出なかった。
「わたしが消えたあとも」
リセは続けた。
「莉世ちゃんを忘れないためだけじゃなくて、わたしを残すためだけじゃなくて。昇自身のために、書いてほしい」
「……僕自身のために」
「うん」
「そんな立派なものじゃない」
「立派じゃなくていいよ」
リセは僕を見た。
「下手でも、遅くても、誰にも読まれなくても、昇が書きたいと思ったものを書いてほしい」
「それが、君の願い?」
「うん」
リセは頷いた。
「だって、昇が書いてる時、少しだけ生きてる顔をするから」
胸の奥が、痛いくらい熱くなった。
リセの言葉は、いつもまっすぐすぎる。
僕が避けてきた場所に、何の迷いもなく触れてくる。
「僕は……」
声が詰まった。
「僕は、ずっと書けなかった」
「うん」
「書けない自分が嫌だった。書いても認められない自分が嫌だった。夢を諦めたくせに、諦めきれない自分が一番嫌だった」
「うん」
「だから、もう全部終わったことにしたかった。昔の約束も、夢も、書きかけの物語も」
僕は手を握りしめた。
「でも、君が来た」
リセは黙って聞いていた。
「君が来て、僕は思い出した。書きたいって思ってた自分を。誰かに読ませたいって願った自分を。忘れたくないものがあったことを」
言葉にすると、どうしようもなく恥ずかしかった。
でも、もう止めなかった。
「リセ」
「うん」
「僕は、君が消えるのが怖い」
「うん」
「怖いし、嫌だし、できるなら止めたい」
「うん」
「でも、それでも書く」
リセの瞳が揺れた。
「君が消えないようにじゃない。君がここにいたことを、僕が逃げずに受け止めるために書く」
「……うん」
「そして、そのあとも書く」
言った瞬間、自分の中で何かが決まった気がした。
約束ではなく、宣言だった。
誰かに認められるかどうかはわからない。
才能があるかどうかもわからない。
完成させられるかどうかも、まだ怖い。
でも、それでも。
もう一度、書く。
その選択だけは、僕自身のものだった。
リセは目を伏せた。
夕陽の光が、彼女の頬に落ちている。
「よかった」
「よかった?」
「うん」
リセは笑った。
「わたし、ちゃんと願えた」
その瞬間、彼女の輪郭が少し薄くなった。
夕陽の光が、彼女の体を透かすように見えた。
「リセ!」
僕は思わず手を伸ばした。
リセの手を掴む。
掴めた。
まだ温かい。
でも、前よりも頼りなかった。
「大丈夫」
「大丈夫じゃないだろ」
「うん。ほんとは、ちょっと怖い」
リセは初めて、そう言った。
僕は息を呑んだ。
「怖いよ、昇」
彼女の声が震えていた。
「消えるの、怖い。忘れられるのも怖い。ひとりになるのも怖い。何もなくなるのも、すごく怖い」
リセの手が震えている。
僕はその手を握りしめた。
「でもね」
リセは涙をこぼしながら笑った。
「それでも、昇に書いてほしいって思うの」
「……どうして」
「昇が書いた物語の中なら、怖くても、寂しくても、ちゃんと意味がある気がするから」
僕は何も言えなかった。
言葉を書くことを選んだくせに、こんな時に限って言葉が見つからない。
だから、ただ彼女の手を握った。
バスは来なかった。
夕陽だけが少しずつ沈んでいく。
そして空には、淡い光が増え始めていた。
エフェメラの夜が近づいていた。
星見神社の夏祭りは、八月最後の夜に行われるという。
祭りといっても、今では小さなものらしい。
昔のように町中の人が集まるわけでもない。
屋台がたくさん並ぶわけでもない。
ただ神社に灯籠が並び、夜になると高台からエフェメラを見る。
それが、星見祭。
忘れた者は思い出し、待つ者は夢に会う夜。
その日が、三日後に迫っていた。
僕は家に戻ってから、原稿を書き続けた。
昼も夜も、時間の感覚がなくなるほど書いた。
リセと会う時間以外は、ほとんどノートに向かっていた。
眠くなれば少し横になり、目が覚めればまた書いた。
食事は適当だった。
商店で買ったパンとおにぎり。
ぬるい麦茶。
たまに老婆が「ちゃんと食べんさい」と言って惣菜を持たせてくれた。
僕は書いた。
自分のために。
莉世のために。
リセのために。
そして、書いているうちに気づいた。
これは悲しいだけの物語ではない。
たしかに別れはある。
消えるものもある。
戻らない時間もある。
けれど、リセと過ごした夏は、悲しみだけではなかった。
海で笑った。
バス停でふざけた。
音楽室で変な褒め方をされた。
屋上でくだらない話をした。
神社で願った。
まぶしい時間だった。
儚いから美しいのではない。
確かにそこにあったから、美しいのだ。
だから僕は、リセをただ「消える少女」として書きたくなかった。
彼女は笑う。
怒る。
からかう。
泣く。
怖がる。
願う。
夏だけの存在だとしても、彼女はちゃんと生きていた。
そのことを書かなければ、この物語は嘘になる。
三日後。
星見祭の夜。
僕は完成した原稿を鞄に入れ、星見神社へ向かった。
夕暮れの町には、いつもと違う静かな高揚感があった。
神社へ続く坂道には、小さな灯籠が並んでいる。
紙の中で揺れる橙色の光。
遠くから聞こえる祭囃子のような音。
子どもの声。
大人たちの低い話し声。
祭りは本当に小さかった。
綿あめの屋台が一つ。
ラムネを売る机。
古い提灯。
境内に集まった町の人たち。
でも、その小ささが星見町らしかった。
僕は境内を見回した。
リセはまだ来ていなかった。
社殿の奥、祠の方へ向かう。
願い札を納めた祠は、灯籠の光に照らされていた。
僕はその前に立った。
「書いたよ」
誰に向けて言ったのか、自分でもわからない。
莉世に。
リセに。
昔の僕に。
鞄の中の原稿が、少し重く感じた。
そのとき、背後から声がした。
「昇」
振り返る。
リセがいた。
白いワンピースではなかった。
淡い水色の浴衣を着ていた。
髪は少しだけ結われていて、いつもより大人びて見える。
けれど、その姿はひどく薄かった。
灯籠の光が、彼女の輪郭を透かしている。
「リセ……」
「変かな」
「いや」
僕は首を横に振った。
「似合ってる」
リセは少し照れたように笑った。
「昇が素直に褒めた」
「今日くらいはな」
「じゃあ、今日は記念日だ」
「なんの記念だよ」
「昇が素直記念日」
「ださいな」
「ひどい」
いつもの会話だった。
でも、いつものようには笑えなかった。
リセも、それに気づいていたのだと思う。
彼女は僕の鞄を見た。
「書けた?」
「ああ」
「最後まで?」
「最後まで」
リセは息を呑んだ。
そして、ゆっくり笑った。
「そっか」
「ああ」
「読ませて」
「ここで?」
「ううん」
リセは空を見上げた。
「屋上で読みたい」
僕は頷いた。
祭りの人混みを抜け、僕たちは廃校へ向かった。
夜の廃校は、昼間よりもずっと静かだった。
校門を抜ける。
暗い廊下を歩く。
階段を上る。
その間、リセは何も言わなかった。
僕も何も言えなかった。
ただ、足音だけが響いていた。
屋上の扉を開ける。
そこには、信じられないほどの空が広がっていた。
エフェメラの光が、町の空いっぱいに満ちていた。
淡い光が無数に浮かび、ゆっくりと瞬いている。
星空というより、誰かの記憶が空に溢れ出したみたいだった。
海も、町も、廃校も、リセの横顔も、すべてがその光に照らされている。
「……きれい」
リセが呟いた。
「ああ」
僕は鞄から原稿を取り出した。
厚くなったノート。
何日もかけて書いた、僕の物語。
タイトルは、最初に決めたままだった。
夏空のエフェメラ。
リセは両手でそれを受け取った。
その手は少し透けていた。
でも、ちゃんとノートを持っていた。
「読んでいい?」
「うん」
リセは屋上の床に座った。
僕は少し離れた場所に立ち、空を見上げた。
エフェメラが降るように光っている。
ページをめくる音が聞こえる。
風が吹く。
リセが僕の物語を読んでいる。
子どもの頃に交わした約束。
忘れてしまった願い。
もう一度会いたいと願った少女。
その願いから生まれた、夏だけのリセ。
すべてが、ここに繋がっていた。
僕は目を閉じた。
怖かった。
これが終わったら、何かが変わってしまう。
たぶん、戻れなくなる。
でも、もう逃げたくなかった。
やがて、ページをめくる音が止まった。
リセは最後のページを見つめていた。
長い沈黙。
僕は息をするのも忘れていた。
そして、リセが言った。
「昇」
「……うん」
「ありがとう」
その声は、震えていた。
リセはノートを胸に抱いた。
「わたし、ここにいたね」
「ああ」
「莉世ちゃんも、ここにいた」
「ああ」
「昇も、ちゃんとここにいた」
僕は頷いた。
もう声が出なかった。
リセは立ち上がった。
その瞬間、空のエフェメラが一斉に強く輝いた。
彼女の体が、淡い光に包まれる。
「リセ!」
僕は駆け寄った。
リセは僕を見て、泣きながら笑った。
「昇」
「まだだ」
僕は言った。
「まだ、最終章を書いてない」
リセは目を見開いた。
「まだ終わってない。君が読んだのは、僕がここまで書いた物語だ。最後は、今から書く」
「……昇」
「だから、勝手に終わるな」
情けない声だった。
わがままだとわかっていた。
それでも言わずにはいられなかった。
リセは少し困ったように笑った。
「うん」
彼女は僕の手を取った。
「じゃあ、最後まで一緒にいよう」
僕はその手を握り返した。
空には、無数のエフェメラが瞬いている。
夏の終わりの夜。
忘れた者は思い出し、待つ者は夢に会う夜。
リセの輪郭は、光の中で少しずつ薄くなっていた。
それでも彼女は、確かにそこにいた。
僕の手の中に。
僕の目の前に。
僕の物語の、最後のページの前に。
そして僕は思った。
この夜を書かなければならない。
君が消える夜ではなく。
君が確かに生きた夜として。
夏空いっぱいに、エフェメラが降っていた。




