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第七章 君がいた夏空

 夏空いっぱいに、エフェメラが降っていた。


 それは星ではなかった。


 流れ星でも、花火でも、蛍でもない。


 誰かが忘れてしまった願い。

 誰かが果たせなかった約束。

 誰かが、それでも消えてほしくないと願った記憶の光。


 淡く、儚く、けれど確かにそこにあるもの。


 僕とリセは、廃校の屋上に立っていた。


 眼下には星見町がある。

 海沿いの家々。

 暗い道路。

 遠くの神社に並んだ灯籠。

 夜の海は黒く、空の光を静かに映していた。


 そのすべてが、夏の終わりの中で息をひそめている。


 リセの手は、まだ僕の手の中にあった。


 けれどその輪郭は、さっきよりも薄くなっていた。

 指先が、光の粒になってほどけていくように見える。


 僕はその手を強く握った。


「痛くない?」


 リセが聞いた。


「痛いのは君の方だろ」


「ううん。痛くないよ」


「本当に?」


「ほんと」


 リセは笑った。


「でも、ちょっとくすぐったい」


「くすぐったい?」


「光になるのって、変な感じ」


「……そんな感想あるかよ」


「あるよ。今、体験中だもん」


 リセはいつもの調子で言った。


 それが余計に苦しかった。


 こんな時まで、彼女は僕を安心させようとしている。


 僕は唇を噛んだ。


「リセ」


「うん」


「消えるな」


 子どもみたいな言葉だった。


 どうしようもなく、情けない言葉だった。


 でも、それしか出てこなかった。


「消えるなよ」


 リセは僕を見た。


 エフェメラの光が、彼女の瞳の中で揺れていた。


「昇」


「僕は書くって言った。君を残すって言った。約束した。でも、やっぱり嫌だ」


 言葉が止まらなかった。


「物語に残るとか、記憶に残るとか、そんな綺麗な言葉じゃ足りない。僕は、君にここにいてほしい。明日も屋上にいて、海でふざけて、バス停でくだらない話をして、音楽室でピアノを弾いてほしい」


 リセは黙って聞いていた。


「君がここにいたって書けても、君がいなくなるなら意味がないじゃないか」


「意味、あるよ」


「ない」


「ある」


「ないよ」


 僕の声が震えた。


「だって、君がいないんだ」


 それを言った瞬間、胸の奥が壊れたみたいに痛んだ。


 リセは少しだけ目を伏せた。


 そして、そっと僕の手を握り返した。


 弱い力だった。


 でも確かに、そこにあった。


「昇」


「……」


「わたしも、いたいよ」


 その声は、とても小さかった。


「明日も屋上で待ってたい。海にも行きたい。昇の書いた続きを読みたい。へんな褒め方もしたい。昇が湿った雑巾みたいな顔してたら、またからかいたい」


「最後のはやめろ」


「やめないよ」


 リセは笑った。


 けれど、その目には涙が浮かんでいた。


「わたしも、消えたくない」


 初めてだった。


 リセが、はっきりそう言ったのは。


「怖いよ。すごく怖い。昇のことを忘れるのも、昇に忘れられるのも怖い。明日が来たとき、わたしだけがどこにもいないのが怖い」


「だったら――」


「でもね」


 リセは僕の言葉を遮った。


「それでも、昇に書いてほしいって気持ちは、本当なの」


 空の光が、また強くなった。


 エフェメラが、降るように瞬いている。


「莉世ちゃんの願いで、わたしは生まれた。昇に会いたいっていう願い。昇の物語を読みたいっていう願い。忘れないでっていう願い」


 リセは胸に手を当てた。


「でも、昇と過ごすうちに、わたしにも願いができた」


「僕に、生きて書いてほしいってやつか」


「うん」


 リセは頷いた。


「昇がこれからも書いてくれたら、わたしは嬉しい。昇が生きて、笑って、迷って、また書けなくなって、それでももう一回ペンを持ってくれたら、それがいい」


「……そんな簡単じゃない」


「簡単じゃなくていいよ」


「また逃げるかもしれない」


「逃げてもいいよ」


「書けなくなるかもしれない」


「そしたら、また一文からでいいよ」


「誰にも読まれないかもしれない」


「わたしが読んだよ」


 その言葉で、僕は何も言えなくなった。


 リセは、僕のノートを胸に抱えていた。


 僕が書いた『夏空のエフェメラ』。


 下手で、不器用で、未完成で、それでも確かに書いた物語。


「わたしが最初に読んだ」


 リセは笑った。


「約束、守れたね」


 約束。


 小さな頃、僕は莉世と約束した。


 物語を書くと。

 最初に読ませると。

 忘れないと。


 僕は忘れていた。


 ずっと、忘れていた。


 けれど、願いは消えなかった。


 夏の空に残って、リセになって、僕の前に現れた。


 そして今、僕はようやく約束を果たした。


 遅すぎるくらい遅く。

 情けないくらい遠回りして。


 それでも、ここまで来た。


「リセ」


「うん」


「莉世は……どうしていなくなったんだ」


 ずっと聞けなかったことだった。


 記憶の中の病院。

 白い壁。

 母に手を引かれる小さな僕。

 会えなかった最後の日。


 リセは少しだけ目を閉じた。


「たぶん、病気だったんだと思う」


「……」


「莉世ちゃんは、夏の終わりに町を離れる予定だった。でも、その前に体調を崩して、病院にいて」


 リセの声は静かだった。


「昇に会いたかった。約束の物語を読みたかった。でも、会えなかった」


 僕は拳を握った。


 思い出したくない現実が、少しずつ形を持っていく。


「僕は、会いに行こうとした」


「うん」


「でも、会えなかった」


「うん」


「それで……忘れたのか」


「忘れたんじゃなくて、閉じ込めたのかもしれない」


 リセは言った。


「悲しすぎることって、そのまま持っていると息ができなくなるから」


 僕は空を見上げた。


 エフェメラの光が滲んで見えた。


 泣いているのだと気づくまで、少し時間がかかった。


「最低だな、僕は」


「最低じゃない」


「忘れないって言ったのに」


「思い出したよ」


「遅すぎる」


「でも、思い出した」


 リセはまっすぐに僕を見た。


「昇は、戻ってきたよ」


「どこに」


「約束の場所に」


 屋上を風が吹き抜ける。


 廃校のフェンスが小さく鳴った。


 ここは、始まりの場所だった。


 僕がリセに出会った場所。

 僕がもう一度、物語を書き始めた場所。

 そして、昔の僕が書くことを夢見ていた町を見下ろせる場所。


 約束の場所。


 そう言われると、不思議と腑に落ちた。


「昇」


 リセが言った。


「最後の章、書いて」


「今から?」


「うん」


「ここで?」


「ここで」


 リセはノートを僕に差し出した。


「わたしがいるうちに、書いて」


 僕はノートを受け取った。


 手が震えていた。


「無理だ」


「書けるよ」


「こんな状態で書けるわけない」


「じゃあ、一文だけ」


 リセは、昔と同じように言った。


「一文がないと、物語は始まらないんでしょ?」


 僕は息を吸った。


 そして、笑ってしまった。


 泣きながら。


「君は本当に、褒めるのも励ますのも下手だな」


「そう?」


「そうだよ」


「でも、効いた?」


「……効いた」


「じゃあ、上手だね」


「ずるいな」


「リセだからね」


 僕は屋上の床に座った。


 リセも隣に座る。


 ノートを開く。


 最後のページ。


 そこには、まだ何も書かれていなかった。


 空から降るエフェメラの光が、白い紙を淡く照らしている。


 僕はペンを握った。


 手は震えていた。


 涙で視界は滲んでいる。


 でも、書いた。


 ――君が消える夏を、僕は物語にする。


 書いた瞬間、リセが小さく息を呑んだ。


「それ……」


「キャッチコピーみたいで、ちょっと恥ずかしいな」


「ううん」


 リセは首を横に振った。


「好き」


 その一言で、もう十分だった。


 僕は続きを書いた。


 夏だけの少女は、光の中で笑っていた。

 彼女は消えたかったわけではない。

 忘れられたかったわけでもない。

 ただ、誰かの願いを届けるために生まれ、最後には自分の願いを見つけた。


 ペン先が紙を走る。


 言葉が溢れてくる。


 悲しい。

 怖い。

 嫌だ。

 離れたくない。


 その全部を抱えたまま、書いた。


 リセは隣で空を見上げていた。


 彼女の体は、少しずつ光になっていく。


 でも、まだいる。


 まだここにいる。


 僕は書いた。


 彼女は言った。

 生きて書いてほしい、と。

 それは、あまりにも勝手で、あまりにも優しい願いだった。

 だから僕は、その願いを憎んで、恨んで、泣いて、それでも最後には受け取るしかなかった。


「昇」


 リセが呼んだ。


 僕はペンを止めずに答えた。


「何?」


「わたしね、思い出したよ」


「何を」


「莉世ちゃんの最後の願い」


 僕の手が止まった。


 リセは空を見上げたまま言った。


「忘れないで、じゃなかった」


「……え?」


「本当はね、こうだった」


 リセは僕を見た。


 その顔は、涙で濡れていた。


 でも、まっすぐに笑っていた。


「のぼるくんが、また笑えますように」


 胸の奥が、崩れた。


 忘れないでほしい。


 会いたい。


 物語を読みたい。


 それもきっと、本当だった。


 でも、その奥にあった一番小さくて、一番深い願い。


 莉世は、僕に自分を覚えていてほしかっただけじゃない。


 僕に、笑ってほしかったのだ。


 僕がいつか、また物語を書いて、誰かと笑って、生きていけるように。


 その願いが、リセをここまで連れてきた。


「そんなの……」


 僕は顔を歪めた。


「そんなの、優しすぎるだろ」


「うん」


「勝手だ」


「うん」


「残される方の気持ちも知らないで」


「うん」


「でも……」


 僕は泣きながら、笑った。


「そういう子だったんだな」


「うん」


 リセは頷いた。


「きっと、そういう子だった」


 僕はまたペンを握った。


 書かなければならない。


 莉世の願いを。


 リセの願いを。


 そして、僕の答えを。


 僕は書いた。


 忘れないことは、立ち止まり続けることではない。

 大切なものを失ったまま、それでも朝を迎えること。

 泣きながらでも、また歩くこと。

 そしていつか、あの夏を思い出して、少しだけ笑えるようになること。


 ペン先が止まらなかった。


 空の光が強くなる。


 リセの輪郭が薄くなる。


 時間がない。


 でも、不思議と焦りはなかった。


 今、僕は書いている。


 リセは読んでいる。


 この瞬間だけは、確かに約束が続いている。


「昇」


「うん」


「読んで」


 僕は書いたばかりのページを見た。


 声が震えた。


 それでも、読んだ。


「君がいた夏を、僕は忘れない。けれど、忘れないという言葉だけでは足りない。僕は君を、悲しみの中だけに閉じ込めない。君が笑ったことを、怒ったことを、変なことを言ったことを、怖いと泣いたことを、最後まで願ったことを、全部書く」


 リセは静かに聞いていた。


「そして僕は、生きる。書けない日があっても、逃げる日があっても、それでもまた戻ってくる。君がくれた夏に、胸を張れるように。君が最初に読んでくれた物語の続きを、いつか誰かに届けるために」


 声が詰まった。


 でも、最後まで読んだ。


「夏空に降るエフェメラは、すぐに消えてしまう。けれど、その光を見上げた僕たちの時間は、消えない。君は夏だけの少女だった。けれど、君がくれた願いは、夏が終わっても続いていく」


 読み終えると、屋上は静かだった。


 風の音。

 遠くの波の音。

 祭りの灯籠。

 エフェメラの光。


 リセは、泣いていた。


「……いいね」


 彼女は言った。


「すごく、いい」


「本当か?」


「うん」


「無理してないか?」


「してないよ」


「最後の読者評価だぞ」


「じゃあ、星五つ」


「軽いな」


「でも、本気」


 リセは笑った。


 その体は、もう半分ほど光になっていた。


 僕はペンを置いて、彼女の方を向いた。


「リセ」


「うん」


「ありがとう」


 言いたいことは山ほどあった。


 行くな。

 そばにいてくれ。

 消えないでくれ。

 まだ話したい。

 まだ一緒にいたい。


 でも、最初に出てきたのは、その言葉だった。


「僕に会いに来てくれて、ありがとう」


 リセは目を細めた。


「わたしも」


「うん」


「昇に会えてよかった」


 彼女は、ゆっくり立ち上がった。


 光の粒が、彼女の足元から空へ昇っていく。


 僕も立ち上がる。


 手を伸ばした。


 リセは、その手を取った。


 温かかった。


 まだ、温かかった。


「昇」


「何?」


「最後に、わがまま言っていい?」


「ああ」


「笑って」


 その言葉に、僕は息を呑んだ。


「無理だろ」


「無理でも」


「泣いてるんだぞ」


「泣きながらでいいよ」


「ひどいな」


「うん」


 リセは笑った。


「最後だから、ひどくする」


 僕は涙を拭った。


 無理やり口元を上げる。


 きっと、ひどい顔だったと思う。


 泣きながら、歪んで、情けなくて、全然綺麗じゃない笑顔。


 でも、リセは嬉しそうに笑った。


「うん」


 彼女は言った。


「それでいい」


 その瞬間、空のエフェメラが一斉に輝いた。


 町全体が、淡い光に包まれる。


 リセの体が、ふわりと軽くなった。


 手の感触が薄れていく。


「リセ!」


「昇」


 リセは最後に、僕の名前を呼んだ。


「書いてね」


「ああ」


「生きてね」


「ああ」


「たまには、ちゃんとご飯食べてね」


「そこもかよ」


「大事だよ」


「……ああ。食べる」


「あと、湿った雑巾みたいな顔はほどほどに」


「最後までそれ言うのか」


「うん」


 リセは楽しそうに笑った。


 そして、少しだけ真面目な顔になった。


「忘れないで、じゃなくて」


 彼女は言った。


「思い出して、笑って」


 僕は頷いた。


「約束する」


「うん」


「約束だ」


 小指を差し出そうとした。


 けれど、その時にはもう、リセの指は光になりかけていた。


 だから僕は、空に向かって小指を立てた。


 リセも、消えかけた手で同じようにした。


 ゆびきりはできなかった。


 でも、それでよかった。


 約束は、触れなくても結べる。


「さよなら、昇」


「さよなら、リセ」


 言いたくなかった。


 でも、言った。


 言わなければ、彼女をちゃんと見送れないと思ったから。


「またな」


 僕がそう付け加えると、リセは少し驚いて、それから一番明るく笑った。


「うん。またね」


 次の瞬間、彼女は光になった。


 音もなく。


 風にほどけるように。


 夏の空へ、淡い粒となって昇っていった。


 僕は手を伸ばしたまま、屋上に立っていた。


 空には無数のエフェメラが瞬いている。


 その中に、ひときわ淡く、やさしい光がひとつ混ざった気がした。


 それがリセなのか、莉世なのか、ただの光なのかはわからなかった。


 でも僕は、しばらくその光を見上げていた。


 泣きながら。


 約束通り、少しだけ笑いながら。


   ◇


 翌朝、星見町の空は、何事もなかったように晴れていた。


 蝉の声はまだ聞こえていた。


 けれど、どこか遠い。


 夏は、終わりかけていた。


 僕は祖母の家の居間で目を覚ました。


 いつ帰ってきたのか、よく覚えていない。


 ただ、テーブルの上にはノートがあった。


 開いたままの最後のページ。


 そこには、僕が書いた文字が残っていた。


 君が消える夏を、僕は物語にする。


 そして、その下に。


 見覚えのない字で、小さく一文が書かれていた。


 ――ちゃんと読んだよ。最初の読者より。


 僕は息を止めた。


 震える指で、その文字に触れる。


 インクは乾いていた。


 夢ではない。


 リセは読んだ。


 確かに、最後まで読んだ。


 僕はその場に座り込んだ。


 涙がこぼれた。


 でも、昨日の夜とは違う涙だった。


 悲しい。


 寂しい。


 会いたい。


 それは変わらない。


 けれど、その奥に、静かな温かさがあった。


 彼女は消えた。


 でも、なかったことにはならなかった。


 僕の中に、ノートの中に、この町の夏の中に。


 リセは確かにいた。


 その日の午後、僕は廃校へ行った。


 屋上には、誰もいなかった。


 フェンスのそばにも、扉の横にも、床に座って空を見上げる白いワンピースの少女はいない。


 ただ、夏の風だけが吹いていた。


 僕はフェンスにもたれ、町を見下ろした。


 星見町。


 海沿いの田舎町。


 夏になると、空に淡く光る星――エフェメラが現れる町。


 ここで僕は、夢を諦めかけていた。


 ここで僕は、忘れていた約束を思い出した。


 ここで僕は、夏だけの少女と出会った。


 そして、彼女を見送った。


「……リセ」


 名前を呼んでも、返事はなかった。


 当たり前だ。


 当たり前なのに、少しだけ胸が痛んだ。


 僕は鞄からノートを取り出した。


 屋上の床に座る。


 ページを開く。


 最後の章は、まだ完全には終わっていなかった。


 別れの夜を書いた。

 リセの言葉を書いた。

 でも、最後の一文がまだだった。


 僕はペンを持った。


 風が吹いた。


 空は青く、雲は白く、海は眩しかった。


 あの日、リセが言った。


 夏は少し進んだよ、と。


 今ならわかる。


 夏は終わる。


 でも、終わるから全部なくなるわけじゃない。


 その季節を生きたことが、次の季節へ持ち越されていく。


 悲しみも、願いも、物語も。


 僕は最後の一文を書いた。


 夏空に消えた彼女の名前を、僕はこれから何度でも書くだろう。


 それで物語は終わった。


 けれど、不思議と終わりだとは思わなかった。


 ノートを閉じる。


 胸の奥に、静かな重みがあった。


 悲しみの重さ。


 約束の重さ。


 これから生きていくための、確かな重さ。


   ◇


 星見町を出る日、駅のホームには誰もいなかった。


 向日葵は少し項垂れていて、夏の終わりを告げているようだった。


 僕は鞄を肩にかけ、列車を待っていた。


 中には着替えと、ノートパソコンと、一冊の大学ノートが入っている。


 来た時と同じ荷物。


 でも、重さはまるで違っていた。


 スマホを開く。


 応募予定のシナリオコンテストのページを保存していた。


 まだ出せるかはわからない。


 完成度も足りないかもしれない。


 落ちるかもしれない。


 たぶん、落ちる方が普通だ。


 でも、それでもいいと思った。


 物語は、誰かに認められるためだけにあるわけじゃない。


 消えてしまいそうなものを、少しだけ残すためにある。


 そして、生きている自分が、ここにいると確かめるためにも。


 列車が来た。


 ドアが開く。


 乗り込む前に、僕は空を見上げた。


 昼の空に、エフェメラは見えない。


 でも、そこに何もないとは思わなかった。


 見えなくても、あるものはある。


 忘れていても、消えていないものがある。


 僕は小さく笑った。


「またな」


 誰に向けた言葉なのか、自分でもわからない。


 莉世に。


 リセに。


 星見町の夏に。


 それとも、昔の僕に。


 列車に乗る。


 窓際の席に座る。


 発車のベルが鳴る。


 星見町の駅舎が、ゆっくりと後ろへ流れていく。


 僕は鞄からノートを取り出した。


 表紙には、少し迷ってからタイトルを書いた。


 夏空のエフェメラ


 その下に、小さくもう一文。


 君が消える夏を、僕は物語にする。


 列車は海沿いを走り出す。


 窓の外では、青い海が光っていた。


 僕は新しいページを開いた。


 まだ何を書くかは決まっていない。


 でも、ペンは持っている。


 書きたいと思う気持ちも、ちゃんとここにある。


 だから僕は、一文目を書いた。


 その夏、僕は消えない光に出会った。


 書き終えた瞬間、窓の外で何かが淡く瞬いた気がした。


 昼の空だった。


 星なんて見えるはずがない。


 エフェメラも、夏の夜にしか現れないはずだった。


 それでも、僕には見えた。


 海の向こう、青い空の奥。


 白いワンピースの少女が、こちらに手を振っているような光。


 僕は笑った。


 今度は、ちゃんと笑えた。


 列車は進む。


 夏の終わりを越えて。


 物語の続きを乗せて。


 僕はノートに向かい、もう一度ペンを走らせた。


 君がいた夏空は、もう遠い。


 けれど、僕は知っている。


 遠い光ほど、長く届くのだと。


 だから僕は、これからも書く。


 夏だけの少女がくれた、儚くて、まぶしい願いの続きを。

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