第五章 夏の子
それから数日、僕は毎日のようにリセと会った。
朝起きて、ノートを開く。
昨日のことを少し書く。
昼になると町へ出て、廃校の屋上へ向かう。
リセは、いつもそこにいた。
フェンスにもたれて空を見ている日もあれば、屋上の床に座って雲を数えている日もあった。
たまに僕より先に校舎の中を歩いていて、音楽室や図書室の前で立ち止まっていることもあった。
そのたびに、彼女は言う。
「ここ、知ってる気がする」
けれど、はっきりとは思い出せない。
星見神社の祠で願い札を見つけてから、リセの記憶は少しずつ揺れ始めていた。
白い帽子の女の子。
僕と交わした約束。
夏が終わったら町を離れるという言葉。
そして、のぼるくんに、もういちどあえますように、と書かれた願い札。
それらは僕の記憶でもあり、リセの中に残る誰かの願いでもあった。
けれど、肝心なことはまだわからなかった。
あの女の子の名前。
どうして僕は忘れてしまったのか。
リセがなぜ今、僕の前に現れたのか。
そして。
リセは、本当に夏が終われば消えてしまうのか。
僕はそのことを考えないようにしていた。
考えれば、今ある時間が壊れてしまいそうだったからだ。
その日、僕たちは廃校の音楽室にいた。
屋上は暑すぎた。
昼の星見町は、空気ごと火にかけられているみたいで、立っているだけで汗が流れた。
音楽室は校舎の三階の端にあった。
壁には色あせた作曲家の肖像画が並び、黒板には十年前に書かれたままの五線譜が薄く残っている。
隅には古いアップライトピアノが置かれていた。
「弾けるのか?」
僕が聞くと、リセはピアノの前に座ったまま首を傾げた。
「たぶん」
「出た、たぶん」
「でも、指が知ってる気がする」
リセはそう言って、そっと鍵盤に指を置いた。
ぽん、と音が鳴った。
少し狂った、古いピアノの音。
それでもリセは目を閉じて、ゆっくりと指を動かした。
短い旋律だった。
たどたどしくて、途中で何度か止まる。
けれど、そのメロディにはどこか懐かしさがあった。
雨上がりの匂い。
夕方の教室。
誰もいない廊下。
遠くで聞こえるチャイム。
そんな景色が、音の中から立ち上がる。
「……その曲」
僕は思わず呟いた。
リセが手を止める。
「知ってる?」
「わからない。でも、聞いたことがある気がする」
「わたしも」
リセは鍵盤に目を落とした。
「誰かが弾いてたのかな」
「君じゃなくて?」
「うん。たぶん、あの子」
あの子。
白い帽子の女の子。
リセは、最近その子のことをそう呼ぶようになっていた。
自分ではない。
けれど、自分の中にいる。
自分の元になった、誰か。
その距離感が、リセ自身にもわからないのだと思う。
「昇」
「何?」
「わたしって、誰なんだろうね」
その問いは、とても静かだった。
僕はすぐに答えられなかった。
リセは笑っていた。
でもその笑顔は、いつもの明るいものではない。
泣きそうになる前に、先に笑ってしまったような顔だった。
「リセはリセだ」
僕は言った。
何度も言っている言葉だった。
でも、それ以外に答えが見つからなかった。
「それ、昇の決め台詞?」
「悪いか」
「悪くないよ。ちょっと安心する」
リセはまた鍵盤に触れた。
ぽん、ぽん、と音が鳴る。
「でもね、昇。わたし、思うんだ」
「何を?」
「わたしは、あの子が願ったことの全部じゃない」
リセはゆっくりと言葉を選ぶように話した。
「あの子の寂しさとか、会いたい気持ちとか、約束を覚えていてほしいって願いとか。そういうものが集まって、わたしになったんだと思う」
「……」
「でも、あの子の人生全部じゃない。あの子が好きだったものも、嫌いだったものも、家族の顔も、最後にどうなったのかも、わたしは知らない」
リセは僕を見た。
「だから、わたしは空っぽなんだと思ってた」
「空っぽじゃない」
少し強い声が出た。
リセが驚いたように瞬きをする。
「空っぽなわけないだろ」
僕は続けた。
「君は海で笑った。バス停で寂しそうな顔をした。神社で泣いた。音楽室でピアノを弾いた。僕をからかって、変なこと言って、たまにすごく真面目なことを言う」
「うん」
「それは、君のものだ」
リセは黙って僕を見ていた。
「たとえ始まりが誰かの願いだったとしても、今ここで何を感じるかは、リセのものだろ」
言ってから、少し恥ずかしくなった。
でも、撤回する気はなかった。
リセはしばらく黙っていた。
やがて、ほんの少しだけ笑った。
「昇、今日は主人公っぽいね」
「いつもは違うのか」
「いつもは、ちょっと湿った雑巾みたい」
「最低だな」
「でも、今日は干したて」
「褒め方が下手すぎる」
リセはくすくす笑った。
その笑い声を聞いて、僕は少しだけ救われた気がした。
音楽室を出たあと、僕たちは校舎の中を歩いた。
廊下には夏の光が差し込んでいる。
窓の外では、校庭の雑草が風に揺れていた。
リセは教室の前で立ち止まった。
三年一組。
僕が昔いた教室だった。
「入る?」
リセが聞いた。
「……ああ」
扉を開けると、埃っぽい空気が流れ出した。
机と椅子はまだいくつか残っていた。
黒板の端には、誰かが昔書いた落書きが薄く残っている。
僕は窓際の席に目を向けた。
そこに、小さな僕が座っていた気がした。
ノートを広げて、物語を書いている。
周りの声なんて聞こえないくらい、夢中で。
その後ろから、白い帽子の女の子が覗き込む。
――のぼるくん、またお話?
胸が痛んだ。
僕は机に手を置いた。
「ここで書いてた」
「うん」
「たぶん、あの子もここにいた」
「うん」
リセは教室の後ろに立ち、黒板を見ていた。
「ねえ、昇」
「何?」
「昔の昇は、楽しそうだった?」
「どうだろうな」
「今より?」
その質問は痛かった。
僕は少し考えてから答えた。
「今より、怖いもの知らずだったと思う」
「怖いもの知らず」
「自分には何かできるって、根拠もなく思ってた。いつかすごいゲームを作って、誰かを泣かせたり笑わせたりできるって」
「いいじゃん」
「今考えると、ただの子どもの勘違いだ」
「でも、その勘違いがないと、物語って始まらないよ」
リセは黒板に指を滑らせた。
白い埃が、指先につく。
「昇は、まだ勘違いしていいと思う」
「三十前の男が?」
「何歳でも」
「世間はそんなに優しくない」
「世間じゃなくて、昇が昇に優しくないだけじゃない?」
僕は返す言葉を失った。
リセは時々、こういうことを平気で言う。
こっちが何年もかけて積み上げた言い訳を、たった一言で崩してくる。
「……君はずるいな」
「ずるい?」
「ずっと空から見てたみたいに言う」
「空から見てたのかも」
「またファンタジーか」
「この話、ファンタジーでしょ?」
リセは笑った。
僕も、少しだけ笑った。
そのときだった。
教室の窓の外で、淡い光が瞬いた。
昼間なのに。
僕は目を疑った。
「今の……」
リセも窓の外を見ていた。
校庭の向こう。
夏の陽射しの中に、白く淡い光が浮かんでいる。
夜に見るエフェメラよりもさらに薄く、今にも消えそうな光。
「昼間にも出るのか?」
「普通は出ない」
リセの声が硬くなった。
「じゃあ、あれは?」
「呼んでる」
「誰を?」
リセは答えなかった。
ただ、教室を飛び出した。
「リセ!」
僕も慌てて後を追う。
階段を駆け下り、校庭へ出る。
夏の熱気が一気に体を包んだ。
リセは校庭の真ん中で立ち止まっていた。
淡い光は、彼女の前に浮かんでいる。
まるで、小さな蛍の群れがひとつに集まったようだった。
リセが手を伸ばす。
「待て。触って大丈夫なのか?」
「わからない」
「わからないなら――」
「でも、呼んでるの」
リセは光に触れた。
瞬間、光が弾けた。
風が吹いた。
熱いはずの夏の校庭に、冷たい空気が流れ込む。
僕の視界が白く滲んだ。
また、記憶だった。
星見小学校の校庭。
けれど、今度は前よりも鮮明だった。
小さな僕と、白い帽子の女の子がいる。
女の子は笑っていた。
顔が見えた。
大きな瞳。
少し丸い頬。
よく笑う口元。
リセに似ている。
でも、やっぱりリセではない。
「ねえ、のぼるくん」
女の子が言う。
「わたしの名前、覚えてる?」
小さな僕は胸を張った。
「当たり前だろ」
「じゃあ言って」
「天宮……」
そこで、記憶の音が歪んだ。
名前の部分だけが、波にさらわれたみたいに聞こえない。
女の子は頬を膨らませる。
「ちゃんと言ってよ」
「言ったよ」
「聞こえなかったもん」
「じゃあ、もう一回」
小さな僕が口を開く。
でも、また名前は聞こえなかった。
僕は胸を押さえた。
なぜだ。
どうしてそこだけ思い出せない。
景色が変わる。
夕暮れの教室。
女の子は僕のノートを読んでいる。
「この女の子、最後に消えちゃうの?」
「うん」
「どうして?」
「そのほうが泣けるから」
「のぼるくん、ひどい」
「物語だから」
「じゃあ、消えた子はどうなるの?」
「読む人の心に残る」
「ほんとに?」
「たぶん」
「じゃあ、わたしも残る?」
小さな僕は顔を上げた。
「何が?」
「わたしがどこかに行っても、のぼるくんのお話に書いてくれたら、残る?」
小さな僕は少し考えてから、力強く頷いた。
「残るよ」
「約束?」
「約束」
女の子は嬉しそうに笑った。
でもその笑顔の奥には、子どもらしくない寂しさがあった。
景色がまた揺れる。
病院の匂いがした。
白い壁。
廊下。
遠くの足音。
小さな僕が、誰かに手を引かれている。
母の声が聞こえる。
――今日は、会えないって。
小さな僕は言う。
――でも、約束したんだ。
――また今度にしよう。
――今度っていつ?
答えはない。
病室の扉が遠ざかっていく。
白い帽子の女の子は、その向こうにいるはずだった。
でも、僕は会えなかった。
また景色が変わる。
夏の終わり。
星見神社。
女の子が願い札を書いている。
のぼるくんに、もういちどあえますように。
その下に、今度こそ名前が見えた。
天宮莉世。
あまみや、りせ。
僕は息を呑んだ。
リセ。
同じ音。
けれど、漢字が違う。
莉世。
天宮莉世。
彼女が、あの子の名前だった。
その瞬間、記憶の中の女の子がこちらを向いた。
僕を見て、笑った。
「忘れないでね、のぼるくん」
景色が壊れた。
気づくと、僕は校庭に膝をついていた。
息が荒い。
リセはすぐそばに立っていた。
彼女の目から涙がこぼれていた。
「……名前」
僕は呟いた。
「思い出した」
リセが震える声で言った。
「あの子の名前」
「天宮莉世」
僕が言うと、リセは小さく頷いた。
「わたしと同じ音」
「ああ」
「でも、わたしは莉世じゃない」
「うん」
リセは胸に手を当てた。
「わたしは、あの子の願いから生まれたリセ」
その言葉は、とても静かだった。
もう迷っていないようにも見えた。
でも、その静けさが逆に怖かった。
「リセ……」
「昇。わたし、わかったよ」
「何が?」
「どうして、夏が終わる前に思い出さなきゃいけないのか」
リセは空を見上げた。
昼の空は青く、エフェメラの光はもう消えていた。
「莉世ちゃんの願いが、まだ終わってないから」
「願い……」
「昇に会いたい。昇の物語を読みたい。忘れないでほしい」
リセは僕を見た。
「その願いを叶えるために、わたしはここにいるんだと思う」
僕は黙った。
聞きたくなかった。
その先を。
「願いが叶ったら、どうなるんだ」
それでも、聞かずにはいられなかった。
リセは少しだけ笑った。
「たぶん、わたしは消える」
夏の音が遠くなった。
蝉の声も、波の音も、風の音も、何もかも。
ただ、リセの言葉だけが耳に残る。
消える。
わかっていたはずだった。
伝承にも書いてあった。
エフェメラの光が消えるとともに、夏の子も失われる。
でも、本人の口から聞くのは違った。
「そんなの、納得できるわけないだろ」
僕は言った。
声が掠れていた。
「願いが叶ったら消える? じゃあ叶えなければいいのか? 僕が書かなければ、君は残るのか?」
リセは首を横に振った。
「違うと思う」
「何が違うんだよ」
「わたしは、夏だけの存在だから」
「まだ夏だ」
「うん。でも、夏は終わるよ」
当たり前の言葉だった。
でも、その当たり前がひどく残酷だった。
「だったら、終わらなければいい」
「昇」
「物語を書かなければ、約束を終わらせなければ、君は――」
「昇」
リセの声が、僕の言葉を止めた。
彼女は泣いていた。
でも、笑ってもいた。
「わたしを残すために、昇が書けなくなるのは嫌だよ」
「……」
「わたしは、昇に書いてほしくてここにいるんだよ」
その言葉で、僕は何も言えなくなった。
リセは近づいてきて、僕の手を取った。
彼女の手は温かかった。
願いから生まれた存在だとか、夏だけの子だとか、そんな説明が嘘みたいに。
ちゃんと、温かかった。
「昇。書いて」
リセは言った。
「わたしのことも、莉世ちゃんのことも、昇のことも。全部、書いて」
「書いたら、君が消えるかもしれない」
「書かなくても、きっと消える」
「そんなこと言うな」
「でも、消える前に残せるものがあるなら、わたしはそれがいい」
リセは僕の手をぎゅっと握った。
「だって、昇が書いてくれたら、わたしは物語になれる」
胸が痛かった。
どうしてこの子は、こんなことを言えるんだろう。
自分が消えるかもしれないのに。
怖いはずなのに。
それでも、僕に書けと言う。
僕はずっと、書くことから逃げていた。
才能がないから。
認められないから。
怖いから。
傷つきたくないから。
でも、本当は違ったのかもしれない。
書けば、何かが終わってしまうことがある。
書いた瞬間、戻れなくなることがある。
物語にするということは、失ったものを失ったものとして認めることでもある。
僕はそれが怖かったのだ。
「……わかった」
僕は小さく言った。
リセが顔を上げる。
「書く」
声は震えていた。
でも、言えた。
「君のことを書く。莉世のことも書く。僕が忘れていたことも、逃げていたことも、全部書く」
「うん」
「でも、ひとつだけ約束してくれ」
「何?」
「最後まで読むって言ってくれ」
リセは目を見開いた。
そして、涙をこぼしながら笑った。
「うん」
彼女は小指を差し出した。
「約束」
僕はその小指に、自分の小指を絡めた。
昔と同じように。
でも、今度は忘れない。
絶対に。
その日の夕方、僕たちは海辺へ行った。
リセが行きたいと言ったからだ。
波打ち際には、夕陽が長く伸びていた。
海は赤く染まり、遠くの水平線がぼんやりと光っている。
リセは靴を脱ぎ、裸足で砂浜を歩いた。
「昇」
「何?」
「莉世ちゃんのこと、少しだけわかった」
「ああ」
「でもね、不思議なんだ」
「何が?」
「悲しいのに、嬉しい」
リセは海を見た。
「名前を思い出せたからかな。あの子が、ちゃんといたってわかったから」
「そうだな」
「忘れられてたけど、なくなってたわけじゃなかった」
その言葉は、僕の胸にも染みた。
僕は莉世を忘れていた。
でも、彼女がいた事実は消えていなかった。
願い札が残っていた。
この町が覚えていた。
エフェメラが光っていた。
そして、リセが現れた。
忘れることと、存在しなかったことは違う。
僕はようやく、それを理解し始めていた。
「昇は、怖い?」
リセが聞いた。
「怖いよ」
「何が?」
「書くこと。思い出すこと。君が消えるかもしれないこと」
「うん」
「でも、一番怖いのは」
僕は少し間を置いた。
「また忘れることだ」
リセは僕を見た。
「忘れないよ」
「どうしてそう言える」
「昇はもう書き始めてるから」
「それだけ?」
「それだけで十分」
リセは笑った。
「言葉にしたものは、少し強くなるんだよ」
夕陽が沈みかけていた。
空の端に、淡い光がひとつ浮かんだ。
エフェメラ。
それはまだ弱く、すぐに消えてしまいそうだった。
でも、その光を見て、僕は初めて少しだけ綺麗だと思った。
寂しさだけではなく。
怖さだけでもなく。
そこに、確かに願いがあるのだと思えた。
家に戻ると、僕はすぐにノートを開いた。
今日は、逃げなかった。
ピアノの音。
三年一組の教室。
昼間に現れたエフェメラ。
天宮莉世という名前。
リセの正体。
そして、最後まで読むという約束。
僕は書いた。
夏の子は、人間ではなかった。
けれど、人間ではないからといって、心がないわけではなかった。
彼女は笑い、怒り、泣き、そして願った。
誰かの願いから生まれた彼女が、いつしか自分自身の願いを持つようになっていた。
そこまで書いて、僕は手を止めた。
リセ自身の願い。
それは何だろう。
莉世の願いはわかった。
昇に会いたい。
昇の物語を読みたい。
忘れないでほしい。
では、リセは?
リセ自身は、何を願っているのだろう。
僕は窓の外を見た。
夜空には、エフェメラがいくつも瞬いていた。
昨日よりも多い。
夏の終わりが近づいている。
そのことを、空が告げているようだった。
僕はノートに一文を書き足した。
彼女は、誰かの願いから生まれた。
けれど最後に願ったのは、彼女自身だった。
ペンを置いた。
まだその願いの形は見えない。
でも、必ず書かなければならないと思った。
リセが何を願い、何を選ぶのか。
その最後まで。
僕は、書く。
今度こそ、忘れないために。




