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第四章 忘れられた願い

 翌朝、僕は雨の音で目を覚ました。


 障子の向こうが、いつもより暗い。

 畳に落ちる光は白くなく、灰色だった。


 屋根を打つ雨音が、古い家の中に静かに響いている。


 星見町に来てから、初めての雨だった。


「……雨か」


 布団の上で呟く。


 夏の雨は、嫌いではなかった。


 空気の熱が少しだけ冷まされて、町全体が息をひそめるような感じがする。

 蝉の声も遠くなり、波の音も雨に紛れて聞こえにくい。


 けれどその朝の雨は、どこか寂しかった。


 昨日の夜、屋上で見たエフェメラの光。

 神社の絵馬。

 図書館の郷土誌。

 そして、夢の中の声。


 ――のぼる。


 あの声が、耳の奥に残っていた。


 僕は起き上がり、居間へ向かった。


 テーブルの上には、開いたままのノートがある。

 昨夜書いた文字が、薄暗い部屋の中で静かにそこにあった。


 夏空のエフェメラ。


 タイトルとして書いたその言葉を見た瞬間、少しだけ胸が熱くなる。


 でも同時に、怖くもなった。


 書けば書くほど、僕はリセに近づいている。

 エフェメラに。

 この町の伝承に。

 そして、僕自身が忘れてしまった何かに。


 近づきたいのか、逃げたいのか、自分でもわからなかった。


 僕はペンを手に取った。


 けれど、何も書けなかった。


 窓の外では、雨が降り続いている。


 今日はリセに会えるのだろうか。


 屋上に行くには、少し強い雨だった。

 それに、廃校の屋上は濡れているだろう。危ない。


 でも、昨日リセは言った。


 明日も調べよう、と僕が言ったら、彼女は笑って頷いた。


 うん、と。


 僕は立ち上がった。


「……行くだけ行ってみるか」


 傘を持って、家を出た。


 雨の星見町は、昨日までとは違う町みたいだった。


 アスファルトは黒く濡れ、側溝には水が流れている。

 海は灰色に霞み、空と境目が曖昧になっていた。


 夏なのに、少し肌寒い。


 商店の前を通ると、昨日の老婆が軒先に立っていた。


「あら、寺尾さんとこの」


「あ、おはようございます」


「こんな雨の中、どこ行くとね」


「ちょっと、廃校の方まで」


 そう答えると、老婆は少しだけ眉を寄せた。


「廃校?」


「はい」


「あそこは雨の日、床が滑るけん気をつけんさい」


「はい」


 僕が歩き出そうとすると、老婆はふと思い出したように言った。


「そういえば、あんた昨日、エフェメラのこと聞いとったね」


「ああ、はい」


「調べとるん?」


「少しだけ」


「なら、星見神社の裏にある祠は見た?」


「祠?」


「社殿の奥に、小さか祠があるたい。昔はそこに願い札を納めとったらしいよ」


「願い札……」


 初めて聞く言葉だった。


「絵馬とは違うんですか?」


「似たようなもんやけどね。昔は、誰にも言えん願いを書いて納めたらしい。会いたい人に会いたいとか、忘れたくないとか」


「それ、今も残ってるんですか?」


「さあねえ。昔の話やけん。でも祠ならまだあると思うよ」


 老婆は雨空を見上げた。


「エフェメラがよう出る年は、昔の願いが起きるって言う人もおったね」


「昔の願いが、起きる……」


「まあ、年寄りの昔話たい」


 老婆はそう言って笑った。


 けれど僕には、その言葉がただの昔話とは思えなかった。


 昔の願いが起きる。


 もしリセが本当に「願い」から生まれた存在なら。

 その願いを書いた誰かがいたのなら。


 その手がかりが、神社の祠に残っているかもしれない。


 僕は老婆に礼を言って、廃校ではなく、星見神社へ向かった。


 石段は雨で濡れていた。


 一段上るたびに、靴の裏が滑りそうになる。

 木々の葉から雨粒が落ち、傘を叩いた。


 境内には、やはり誰もいなかった。


 昨日見た社殿も、絵馬掛けも、雨の中では少し暗く見える。


 リセの姿はない。


「……そりゃそうか」


 少しだけ落胆した自分に気づいて、僕は苦笑した。


 僕は社殿の横へ回った。


 昨日は気づかなかったが、奥へ続く細い道があった。

 木々の間を抜ける、苔むした石畳の道。


 傘を少し傾けながら、その道を進む。


 すると、小さな祠が見えた。


 腰ほどの高さの石造りの祠。

 屋根には苔が生え、正面の扉は木でできている。

 かなり古いものらしく、扉の端は黒ずんでいた。


 僕は祠の前で足を止めた。


 雨音だけが聞こえる。


 妙に静かだった。


「……勝手に開けていいのか、これ」


 独り言を言ってから、少し迷う。


 文化財とかだったらまずい。

 でも、鍵はかかっていないように見えた。


 僕は手を伸ばし、そっと木の扉に触れた。


 その瞬間、背後から声がした。


「そこ、開けるの?」


 僕は思わず肩を跳ねさせた。


 振り返ると、リセが立っていた。


 傘を持っていない。


 白いワンピースは濡れているはずなのに、不思議と雨を弾いているようにも見えた。

 髪も、肌も、少し湿っているだけで、ずぶ濡れではない。


「リセ……」


「おはよう、昇」


「おはようって……君、いつからいたんだよ」


「昇が、開けていいのかって言ったあたり」


「毎回ちょうど怖いところで出てくるな」


「そう?」


「そうだよ」


 僕は息を吐いた。


 けれど、彼女の顔を見て、少し安心している自分がいた。


「傘は?」


「忘れた」


「濡れるだろ」


「夏の雨だから平気」


「平気じゃないだろ」


「昇は心配性だね」


「普通だ」


 僕は傘を少しリセの方へ差し出した。


 彼女は一瞬きょとんとして、それから僕の隣に入った。


 肩が触れそうな距離。


 雨音が、少し近くなった気がした。


「ここ、知ってるのか?」


 僕は祠を見ながら聞いた。


「うん」


「やっぱり来たことがある?」


「たぶん」


「そのたぶん、今日はやけに重いな」


 リセは答えなかった。


 祠を見つめる横顔は、昨日の神社で見たときと同じだった。


 何かを思い出しそうで、でも届かない。

 そんな顔。


「ここには、願い札っていうのが納められてたらしい」


「願い札……」


「誰にも言えない願いを書くものだって。会いたい人に会いたいとか、忘れたくないとか」


 リセの指先が、小さく震えた。


「昇」


「何?」


「開けて」


「いいのか?」


「うん。たぶん、開けなきゃいけない」


 その言い方には、いつもの曖昧さとは違う確かさがあった。


 僕は頷き、祠の扉に手をかけた。


 木は湿っていて、冷たかった。


 ゆっくり力を入れると、扉はぎい、と小さな音を立てて開いた。


 中には、古い木箱が入っていた。


 箱の表面には埃と湿気の跡があり、紐で縛られている。

 長いあいだ、誰にも触れられていなかったようだった。


 僕は慎重に箱を取り出した。


 屋根のある祠の前にしゃがみ込み、紐をほどく。


 リセは隣で息をひそめていた。


 蓋を開けると、中には何枚もの紙が入っていた。


 和紙のような古い札。

 ほとんどは変色していて、文字もにじんで読めない。


 僕は一枚ずつ、慎重にめくった。


 家族が無事でありますように。

 病が治りますように。

 あの人が帰ってきますように。

 忘れませんように。

 もう一度、会えますように。


 どれも、誰かの切実な願いだった。


 胸が少し苦しくなる。


 人は、こんなにもたくさんの願いを抱えて生きていたのか。


 そして、そのほとんどは叶わなかったのかもしれない。


 紙をめくる手が、ある一枚の前で止まった。


 それは他の札より少し新しかった。

 といっても、十分に古い。十年以上は前のものだろう。


 文字は子どもの字だった。


 たどたどしく、少し歪んだひらがな。


 ――のぼるくんに、もういちどあえますように。


 僕は息を呑んだ。


 雨音が遠くなった。


 指先が冷たくなる。


「……のぼる」


 リセが小さく呟いた。


 僕はその札から目を離せなかった。


 のぼるくん。


 僕の名前。


 偶然かもしれない。


 この町に「昇」という名前の人間が、他にいたのかもしれない。


 でも。


 心のどこかが、それを否定していた。


 これは僕に向けられた願いだ。


 そうわかってしまった。


 札の下の方には、かすれた名前が書かれていた。


 あま……


 雨染みで、その先は読めない。


 天宮、だろうか。


 リセが隣で口元を押さえた。


「リセ?」


「……痛い」


「え?」


「胸が、痛い」


 彼女は自分の胸を押さえ、苦しそうに顔を歪めた。


 僕は慌てて札を箱に戻そうとした。


 けれどその瞬間、強い風が吹いた。


 傘が煽られ、祠の木々がざわめく。

 箱の中の札が一枚、ふわりと舞い上がった。


 リセがそれに手を伸ばす。


 僕も同時に手を伸ばした。


 指先が触れた。


 その瞬間――


 景色が変わった。


 雨の神社が消えた。


 代わりに、夏の光が溢れた。


 僕は、小学生くらいの少年になっていた。


 いや、正確には、見ているだけだった。

 自分の記憶の中の自分を、少し離れた場所から眺めているような感覚。


 星見小学校の校庭。


 強い日差し。

 白い雲。

 蝉の声。

 水飲み場の銀色の蛇口。


 そこに、小さな僕がいた。


 手にはノートを持っている。


 そして、その隣に、小さな女の子がいた。


 白い帽子。

 薄いワンピース。

 細い腕。


 顔はまだ、ぼんやりしている。


 でも、声は聞こえた。


「のぼるくん、またお話書いてるの?」


 小さな僕は、少し得意げに頷いた。


「うん。今度は空から女の子が落ちてくる話」


「落ちたら痛いよ」


「そういう意味じゃなくて、宇宙から来るんだよ」


「うちゅう?」


「星の向こうから」


「すごいね」


 女の子は素直に感心した声を出した。


 小さな僕は、それが嬉しくてたまらない顔をしている。


「できたら読ませてあげる」


「ほんと?」


「うん。僕、大きくなったらゲームを作る人になるんだ」


「ゲーム?」


「そう。物語があって、絵があって、音楽があって、みんなが泣いたり笑ったりするやつ」


「のぼるくんなら、できるよ」


 女の子は迷いなく言った。


 小さな僕は少し照れて、ノートで顔を隠した。


「まだ全然できてないけど」


「じゃあ、わたしが最初に読む人になる」


「約束?」


「約束」


 女の子は小指を差し出した。


 小さな僕も、小指を絡める。


 ゆびきりげんまん。


 その声が、夏の校庭に溶けていく。


 景色が揺れた。


 次の瞬間、場所は海沿いの道になっていた。


 夕暮れ。


 僕は女の子と並んで歩いている。


 女の子は白い帽子を押さえながら、海を見ていた。


「わたし、夏が終わったら、ここからいなくなるんだって」


 小さな僕は立ち止まった。


「どこに行くの?」


「わかんない。遠いところ」


「帰ってこないの?」


「たぶん」


 小さな僕は黙り込む。


 女の子は無理に笑った。


「でもね、のぼるくんのお話ができたら、読みにくる」


「絶対?」


「絶対」


「じゃあ、僕、書くよ。夏が終わるまでに」


「うん」


 女の子は嬉しそうに笑った。


「忘れないでね」


 その言葉で、胸が締めつけられた。


 小さな僕は言った。


「忘れないよ」


 言ったはずだ。


 確かに。


 なのに、僕は忘れていた。


 その子の名前も。

 顔も。

 約束も。


 全部。


 景色がまた揺れた。


 神社だった。


 夕暮れの星見神社。

 小さな女の子が、祠の前にしゃがみ込んでいる。


 白い帽子は、少し汚れていた。


 彼女は願い札に、震える手で文字を書いていた。


 のぼるくんに、もういちどあえますように。


 そして、その下に名前を書いた。


 天宮――


 そこで、景色が壊れた。


 雨音が戻ってきた。


 僕は祠の前に座り込んでいた。


 手には、あの願い札がある。


 隣にはリセがいた。


 彼女は膝をつき、両手で顔を覆っていた。


「リセ、大丈夫か?」


 僕が声をかけると、彼女はゆっくり顔を上げた。


 その瞳から、涙がこぼれていた。


 初めて見た。


 リセの涙だった。


「思い出した」


 彼女は震える声で言った。


「少しだけ、思い出したの」


「何を……?」


「約束」


 リセは僕を見た。


「昇と、誰かの約束」


 僕は何も言えなかった。


 記憶の中の女の子。


 白い帽子。

 僕の物語を最初に読むと言った子。


 あの子は、リセなのか?


 いや、違う。


 小さな女の子とリセは似ている。

 でも完全には同じではない。


 あの子の願いから、リセが生まれたのだとしたら。


 リセは、あの子そのものではなく、あの子が残した願いなのかもしれない。


 僕は願い札を見つめた。


「僕は……忘れてた」


 声が震えた。


「約束したのに。忘れないって言ったのに。書くって言ったのに」


 ずっと書けなかった理由が、少しだけわかった気がした。


 僕は夢を諦めたんじゃない。


 もっと前に、最初の約束を裏切っていた。


 誰かに読ませるために書く。

 誰かのために物語を作る。


 その最初の気持ちを、僕はどこかに置き去りにしていた。


 だから、何を書いても空っぽだった。


 リセは首を横に振った。


「忘れたかったんじゃないよ」


「でも、忘れてた」


「きっと、忘れないと苦しかったんだよ」


「そんなの、言い訳だ」


「言い訳でもいいよ」


 リセは静かに言った。


「今、思い出したから」


 雨が降り続いている。


 祠の前の地面に、小さな水たまりができていた。


 僕は願い札を両手で持った。


「この子の名前、読めなかった」


「うん」


「でも、天宮って書いてあった気がする」


 リセは小さく頷いた。


「わたしの名前も、天宮」


「偶然じゃないよな」


「たぶん」


 リセは少しだけ笑った。


 でもその笑顔は、とても弱かった。


「昇、わたしね」


「うん」


「わたしは、その子じゃないと思う」


「……」


「でも、その子の願いを覚えてる」


 リセは胸に手を当てた。


「もう一度、昇に会いたい。昇の物語を読みたい。忘れないでほしい。そういう気持ちが、ここにあるの」


「リセ……」


「だから、わたしはたぶん、その願いから生まれたんだと思う」


 言葉にされると、胸が痛かった。


 伝承の通りだった。


 夏の子。

 人々が忘れてしまった願いの形。

 夏の間だけ人の前に姿を見せる存在。


 リセは、人間ではないのかもしれない。


 けれど、そんなことはどうでもよかった。


 目の前で泣いている彼女を見て、伝承だとか、現象だとか、そんな言葉で片づけられるはずがなかった。


「リセはリセだよ」


 僕は言った。


 リセが顔を上げる。


「願いから生まれたとか、誰かの記憶だとか、そういうのはまだわからない。でも、今ここにいるのはリセだ」


「……うん」


「僕は君と話した。海に行った。バス停に座った。神社で願った。屋上でエフェメラを見た」


 言いながら、胸の奥が熱くなる。


「それは、なかったことにはならない」


 リセは目を伏せた。


「でも、消えるかもしれない」


「消えない」


「どうして?」


「僕が書くから」


 その言葉は、自然に出た。


 自分でも驚くくらい、迷いがなかった。


「君のことを書く。君がここにいたことを書く。君が笑ったことも、変なこと言ったことも、海で転びかけたことも、全部」


「転んでないよ」


「じゃあ、それも書く」


 リセは泣きながら、少し笑った。


「昇の物語、ひどいね」


「最初から名作は無理だ」


「でも、読みたい」


「読むんだろ。最初の読者なんだから」


 そう言った瞬間、僕は気づいた。


 昔の約束。


 僕の物語を最初に読む人になる。


 その約束は、まだ終わっていなかった。


 相手があの白い帽子の女の子なのか、リセなのか、もうわからない。


 でも、リセが読みたいと言った。


 なら、僕は書くしかない。


 雨は少し弱くなっていた。


 僕たちは祠に願い札を戻し、木箱を元の場所へ納めた。


 扉を閉める前に、僕はもう一度だけ札を見た。


 のぼるくんに、もういちどあえますように。


 その願いは、叶ったのだろうか。


 少なくとも、僕はここにいる。


 リセもここにいる。


 それだけは確かだった。


 神社を出る頃には、雨は小降りになっていた。


 石段を下りながら、リセは僕の傘の中にいた。


 肩が触れる。


 冷たい雨の匂い。

 湿った土の匂い。

 遠くから聞こえる海の音。


「昇」


「何?」


「今日、屋上に行く?」


「雨だぞ」


「うん」


「滑るぞ」


「うん」


「危ないぞ」


「うん」


「……行きたいのか?」


 リセは小さく頷いた。


「今日は、空が見たい」


 僕はため息をついた。


「少しだけだぞ」


「うん。少しだけ」


 廃校へ着くと、校舎は雨で濡れて、昨日よりも暗く見えた。


 廊下には雨漏りの音が響いていた。

 ぽた、ぽた、と水滴が床に落ちている。


 階段を上り、屋上の扉を開ける。


 灰色の空が広がっていた。


 雨はほとんど止んでいる。

 雲の切れ間から、わずかに光が差していた。


 リセはフェンスのそばに立った。


 僕はその隣に並ぶ。


「エフェメラは、雨の日も見えるのか?」


「見えないことが多いよ」


「じゃあ、どうして空を?」


「見えなくても、そこにあるから」


 リセは静かに言った。


「光って、見えてる時だけあるわけじゃないでしょ」


「……そうだな」


 雲の向こうに星があるように。


 忘れていても、記憶がどこかに残っているように。


 消えたと思っていた願いが、まだ誰かを待っているように。


 僕は空を見上げた。


 そのとき、雲の切れ間に淡い光が一瞬だけ見えた。


 エフェメラだった。


 雨上がりの空に、ひとつだけ。


 弱々しく、でも確かに。


 リセが小さく息を呑む。


「見えた」


「ああ」


「きれい」


「うん」


 光はすぐに消えた。


 けれど、僕はもうそれを「消えた」とは思わなかった。


 見えなくなっただけだ。


 そこにあったことは、消えない。


 家に戻ると、夕方になっていた。


 僕は濡れた服を着替え、居間のテーブルに座った。


 ノートを開く。


 今日は、書くことがあった。


 祠。

 願い札。

 のぼるくんに、もういちどあえますように。

 白い帽子の女の子。

 小さな約束。

 そして、リセの涙。


 ペンを持つ手は、もう震えていなかった。


 僕は書き始めた。


 かつて、僕は約束をした。

 物語を書くと。

 最初に君に読ませると。

 けれど僕は、その約束を忘れてしまった。

 君の名前も、声も、笑顔も。

 それでも願いは、夏の空に残っていた。


 書きながら、涙が出そうになった。


 情けないと思った。


 でも、止めなかった。


 悲しみも、後悔も、恥ずかしさも、全部書けばいい。


 それが物語になるなら。


 それで誰かが少しでも残るなら。


 夜になる頃、雨は完全に止んでいた。


 窓を開けると、湿った風が入ってきた。


 空には雲が流れ、その隙間に淡い光がいくつも瞬いている。


 エフェメラ。


 昨日よりも少ない。

 でも、確かにそこにある。


 僕はノートの最後に、一文を書いた。


 忘れていたのは、君ではなく、君を忘れまいとした僕自身だった。


 書き終えて、ペンを置く。


 胸の奥が、少しだけ痛かった。


 けれどその痛みは、嫌なものではなかった。


 生きている痛みだった。


 その夜、眠る前に、僕はもう一度だけ願い札の文字を思い出した。


 のぼるくんに、もういちどあえますように。


 僕は小さく呟いた。


「会えたよ」


 誰に向けた言葉なのか、自分でもわからなかった。


 白い帽子の女の子に。


 リセに。


 それとも、昔の僕自身に。


 ただ、窓の向こうでエフェメラが淡く瞬いた。


 まるで、その答えを知っているみたいに。

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