第三章 エフェメラの言い伝え
その夜、僕は夢を見た。
海沿いの道を、誰かと歩いている夢だった。
夕暮れだった。
空は赤く、海は黒い。
遠くでひぐらしが鳴いている。
僕の隣には、小さな女の子がいた。
顔はよく見えない。
白い帽子をかぶっていて、風が吹くたびに、つばの影が頬に落ちる。
女の子は僕の手を握っていた。
その手は熱くも冷たくもなく、ただ、とても頼りなかった。
「ねえ、のぼる」
夢の中の誰かが、僕を呼ぶ。
「わたしのこと、忘れないでね」
僕は答えようとした。
忘れない。
絶対に忘れない。
そう言おうとしたのに、声が出なかった。
女の子は笑った。
その笑顔は、どこかリセに似ていた。
けれど、リセではない。
そう思った瞬間、空に光が降った。
星みたいな光。
蛍みたいな光。
淡くて、儚くて、触れたら消えてしまいそうな光。
エフェメラ。
誰かがそう呟いた。
光が降るたびに、隣にいた女の子の輪郭が薄くなっていく。
僕は手を伸ばした。
けれど、握っていたはずの手は、もうそこになかった。
目を覚ますと、朝だった。
障子の向こうから、蝉の声が聞こえていた。
僕はしばらく天井を見つめたまま動けなかった。
夢の感触が、まだ手のひらに残っているような気がした。
「……なんだ、今の」
起き上がって、手のひらを見る。
当然、何もない。
けれど胸の奥には、妙な痛みが残っていた。
忘れている。
何かを。
とても大切なことを。
そんな気がした。
居間に向かうと、テーブルの上のノートが目に入った。
昨夜、眠る前に書いた文章が残っている。
彼女は、夏だけ現れる少女だった。
そして僕は、その夏をまだ知らなかった。
我ながら、ずいぶん感傷的な文章だと思う。
でも不思議と、悪くない気がした。
僕はペンを取り、夢で見たものをメモした。
夕暮れの海沿いの道。
小さな女の子。
忘れないでね。
エフェメラの光。
消える手のひら。
書き終えた瞬間、背筋が少し冷えた。
これは本当に夢なのか。
それとも、昔の記憶なのか。
僕にはわからなかった。
昼前、僕は星見町の図書館へ向かった。
昨日リセと話してから、エフェメラのことが気になっていた。
商店の老婆は「忘れものの光」と言っていた。
リセは「夏にだけ見える星」と言った。
なら、この町のどこかに記録が残っているかもしれない。
星見町立図書館は、駅から少し離れた坂の途中にあった。
図書館というより、公民館の一角に本棚を詰め込んだような場所だ。
入口のガラス戸には、色あせたポスターが貼られている。
郷土資料展示中。
星見町の伝承と祭り。
妙に都合がよすぎて、僕は少し笑ってしまった。
中に入ると、冷房の効いた空気が肌に触れた。
古い紙と、木の棚の匂いがする。
受付には、白髪混じりの男性が座っていた。
「すみません。星見町の伝承について調べたいんですが」
僕がそう言うと、男性は眼鏡の奥で目を細めた。
「伝承?」
「エフェメラっていう、夏に見える光のことです」
その言葉を出した瞬間、男性の表情が少し変わった。
「若い人がそれを調べに来るのは珍しいな」
「この町では有名なんですか?」
「昔はね。今の子は、あまり知らんかもしれん」
男性は立ち上がり、奥の本棚へ案内してくれた。
「星見町郷土史。あと、昔の祭りの記録。このあたりに載っているはずだ」
「ありがとうございます」
「ただし、はっきりしたことは書いてないよ」
「どういうことですか?」
男性は古い冊子を一冊取り出しながら言った。
「エフェメラは、見た人によって言うことが違う。星だと言う人もいれば、魂だと言う人もいる。願いの残り火だと言う人もいる」
「願いの残り火……」
「まあ、そういうものは、曖昧だから残るんだろうね」
男性は冊子を机の上に置いた。
「読み終わったら、受付まで」
僕は礼を言って、閲覧席に座った。
冊子の表紙には、こう書かれていた。
星見町郷土誌
第三巻 夏の行事と伝承
ページをめくると、古い写真がいくつも載っていた。
夏祭り。
灯籠流し。
浜辺で花火をする子どもたち。
廃校になる前の星見小学校。
その中に、エフェメラについての記述があった。
星見町では、夏季の夕暮れから夜間にかけて、空に淡い発光現象が見られることがある。
地元ではこれを「エフェメラ」と呼ぶ。
語源は定かではないが、短命なもの、儚いものを意味する外来語が転じたものと考えられている。
僕はそこに目を止めた。
短命なもの。
儚いもの。
まるで、リセのことを言っているみたいだった。
さらに読み進める。
一部の古老の間では、エフェメラは「忘れられた願いが空に昇ったもの」と語られる。
特に夏の終わり、最も光が強まる夜には、失われた記憶や、果たされなかった約束を夢に見るとされる。
昨日、商店の老婆が言っていた話と同じだ。
僕はページをめくる手を止めた。
失われた記憶。
果たされなかった約束。
胸の奥に、今朝の夢が蘇る。
――わたしのこと、忘れないでね。
誰の声だったのだろう。
僕は続きを読んだ。
また、エフェメラの夜には「夏の子」が現れるという伝承もある。
夏の子は、人々が忘れてしまった願いの形をしており、夏の間だけ人の前に姿を見せる。
その存在は、エフェメラの光が消えるとともに失われる。
ただし、夏の子と出会った者は、忘れていた何かを思い出すとも言われる。
僕は息を止めた。
夏の子。
人々が忘れてしまった願いの形。
夏の間だけ人の前に姿を見せる。
その存在は、エフェメラの光が消えるとともに失われる。
「……まさか」
小さく呟いてから、自分で馬鹿らしくなった。
そんなはずがない。
リセはただの女の子だ。
少し変わっていて、廃校の屋上にいて、エフェメラのことを妙に知っているだけの。
いや、十分変だ。
けれど、それだけで伝承の存在だなんて考えるのは、さすがにどうかしている。
僕は自分に言い聞かせるように、ページを閉じた。
でも、指先が少し震えていた。
そのとき、机の向かいから声がした。
「それ、面白い?」
顔を上げると、リセがいた。
「うわっ」
「うわって言われた」
「いつからいたんだよ」
「さっき」
「さっきっていつだ」
「昇が『まさか』って言ったあたり」
「ほぼ全部聞いてるじゃないか」
リセは椅子に座り、僕の前に身を乗り出した。
「調べてくれたんだ」
「別に君のためじゃない」
「でも、エフェメラのこと」
「気になっただけだ」
「そっか」
リセは嬉しそうに笑った。
その笑顔を見ていると、胸の奥の不安が少しだけほどける。
やっぱり、彼女は目の前にいる。
声があって、表情があって、僕に向かって笑う。
伝承なんかではない。
そう思いたかった。
「リセ」
「うん?」
「君は、自分の家に帰らなくていいのか?」
リセはきょとんとした。
「家?」
「ああ。家族とか、学校とか」
「うーん」
彼女は少し考え込む。
それから、困ったように笑った。
「わからない」
「わからないって……」
「思い出そうとすると、霞がかかるの。名前とか、家とか、誰かの顔とか」
「それ、普通じゃないぞ」
「うん。たぶん、普通じゃない」
彼女はあっさり認めた。
僕の方が言葉に詰まる。
「怖くないのか?」
「怖いよ」
リセは静かに答えた。
その声は、いつもの明るさとは少し違っていた。
「でもね、怖いって思うことも、すぐ忘れちゃうの」
「……どういう意味だ」
「怖かった気持ちだけが、ぽつんと残ってるの。何が怖かったのかは、思い出せない」
彼女は窓の外を見た。
図書館の窓からは、海へ続く坂道が見える。
「だから、思い出さなきゃいけないの」
「夏が終わる前に?」
「うん」
僕は郷土誌のページを見下ろした。
夏の子。
忘れられた願い。
夏の間だけ人の前に姿を見せる。
聞きたいことは山ほどあった。
でも、どれを聞いても、リセを傷つけるような気がした。
「昇は?」
リセが言った。
「僕?」
「昇は、何か忘れてる?」
今朝の夢が頭をよぎる。
白い帽子の女の子。
忘れないでね。
消えていく手のひら。
「……わからない」
「そっか」
「でも、たぶん何かある」
自分で言ってから、少し驚いた。
リセは僕をじっと見ていた。
「夢を見たんだ」
「どんな夢?」
「海沿いの道を、誰かと歩いてる夢。小さな女の子がいて、その子が僕に言うんだ。忘れないでねって」
リセの表情が、ほんの少しだけ変わった。
驚きとも、悲しみともつかない顔だった。
「その子、どんな子?」
「顔は見えなかった。白い帽子をかぶってた」
「白い帽子……」
リセは小さく繰り返した。
「知ってるのか?」
「わからない」
また、その答えだった。
けれど今度の「わからない」は、いつもよりずっと苦しそうだった。
僕は話題を変えるように、郷土誌を閉じた。
「今日は屋上じゃないんだな」
「図書館も好き」
「来たことあるのか?」
「たぶん」
「便利だな、そのたぶん」
「たぶん便利」
リセは少しだけ笑った。
いつもの調子に戻ったように見えて、僕はほっとした。
「ねえ、昇」
「何?」
「ここに書いてあること、物語に使う?」
僕は郷土誌に目を落とした。
「使うかもしれない」
「夏の子も?」
「……まだ決めてない」
「使ってほしいな」
「どうして?」
リセは少し考えた。
「誰かが書いてくれたら、消えない気がするから」
その言葉が、胸に刺さった。
消えない気がする。
リセは何気なく言ったのかもしれない。
でも僕には、それが彼女自身の願いのように聞こえた。
「物語に書いても、現実は変わらないよ」
僕は言った。
「誰かが消える時は消える。忘れる時は忘れる」
「うん」
「文章にしたって、全部残せるわけじゃない」
「でも、少しは残るよ」
リセはまっすぐ僕を見た。
「昇が昨日書いた一文、今日も残ってたでしょ?」
「……」
「だったら、昨日の昇は、少しだけ消えなかった」
僕は何も言えなかった。
そんなふうに考えたことはなかった。
書くことは、評価されるためのものだと思っていた。
誰かに読まれ、褒められ、認められるためのものだと。
でも、リセは違うと言う。
書くことは、消えそうなものを少しだけ残すことだと。
その考え方は、あまりにも素朴で、あまりにも強かった。
図書館を出た頃には、午後の光が少し傾き始めていた。
リセは入口の前で、大きく伸びをした。
「図書館、涼しかったね」
「夏の天国だな」
「屋上は地獄?」
「まあ、暑さだけなら」
「でも、屋上のほうが好き」
「空が近いから?」
「うん。それと、昇に会えるから」
さらっと言われて、僕は返事に詰まった。
「……そういうことを簡単に言うな」
「どうして?」
「反応に困る」
「困ってる昇、面白い」
「性格悪いな」
「たぶん」
リセは楽しそうに笑いながら、坂道を下っていく。
僕はその隣を歩いた。
今日は海ではなく、町の奥にある神社へ向かうことになった。
図書館の郷土誌に、エフェメラと関係する夏祭りのことが載っていたからだ。
星見神社。
町の高台にある、小さな神社。
昔は夏の終わりに、エフェメラを見るための祭りが行われていたらしい。
坂道を上り、石段の前に着く頃には、僕はすっかり汗だくになっていた。
「昇、体力ないね」
「普通だ。暑すぎるんだよ」
「夏だからね」
「それで全部済ませるな」
リセは軽い足取りで石段を上っていく。
白いワンピースの裾が揺れる。
その後ろ姿を追いかけながら、僕は息を整えた。
鳥居をくぐると、空気が少し変わった。
木々の影が濃く、蝉の声も遠く聞こえる。
境内には誰もいなかった。
古びた社殿。
小さな手水舎。
色あせた絵馬掛け。
リセは境内の真ん中で立ち止まり、辺りを見回した。
「ここ……」
「知ってるのか?」
「うん。たぶん、知ってる」
彼女は絵馬掛けの前へ歩いていった。
古い絵馬がいくつか残っている。
雨風にさらされ、文字はほとんど読めなくなっていた。
その中の一枚を、リセが指で触れた。
「これ」
「何か書いてあるのか?」
僕は近づいた。
木の表面は黒ずみ、文字はかすれている。
けれど、よく見ると、一部だけ読めた。
――もう一度、会えますように。
それだけだった。
誰が書いたのか。
誰に会いたかったのか。
何もわからない。
けれどリセは、その絵馬から目を離さなかった。
「リセ?」
「ここで、誰かが泣いてた」
「え?」
「たぶん、女の子。小さな女の子が、ここで泣いてた」
彼女の声が震えていた。
「誰かに会いたくて。でも、会えなくて。それで、お願いしたの」
「その子が、白い帽子をかぶってた?」
僕がそう言うと、リセはゆっくり僕を見た。
境内に風が吹いた。
木の葉が鳴る。
古い絵馬が、かたかたと小さな音を立てる。
「わからない」
リセは言った。
「でも、胸が痛い」
僕は何も言えなかった。
彼女の顔は、今にも泣き出しそうだった。
それなのに、涙は出ていなかった。
まるで、泣き方を忘れてしまったみたいに。
僕は絵馬を見つめた。
もう一度、会えますように。
その文字が、なぜか自分に向けられているような気がした。
社殿の横には、小さな石碑があった。
苔に覆われていて、最初は気づかなかった。
僕は近づき、表面の文字を読む。
星見祭由来
夏の果て、空に満つる光を仰ぎ、失われし願いを鎮める。
忘れた者は思い出し、待つ者は夢に会う。
忘れた者は思い出し、待つ者は夢に会う。
図書館で読んだ伝承と同じだ。
でも、ここで読むと、文字の重さが違った。
これはただの昔話ではない。
この町の誰かが、本当に願ったことなのだ。
誰かに会いたい。
誰かを忘れたくない。
消えてしまったものを、もう一度だけ見たい。
そんな願いが、夏の空に積もって、エフェメラになった。
そう考えると、あの淡い光が急に悲しいものに思えた。
「昇」
リセが呼んだ。
振り返ると、彼女は社殿の前に立っていた。
「お願いしてもいい?」
「何を?」
「わたしが、思い出せますようにって」
「自分で願えばいいだろ」
「うん。でも、昇にも願ってほしい」
「どうして僕が」
「昇といると、思い出せそうな気がするから」
その声は、真剣だった。
僕は少し迷ってから、社殿の前に立った。
鈴は古く、縄は少しほつれていた。
僕は賽銭箱に小銭を入れ、手を合わせた。
リセが隣に並ぶ。
目を閉じる。
願いなんて、久しぶりだった。
昔はたくさんあった。
ゲームシナリオライターになりたい。
面白い物語を書きたい。
誰かの心に残る作品を作りたい。
でも、その願いはいつの間にか、自分を苦しめるだけのものになっていた。
だから僕は、ずっと願うことをやめていた。
けれど今、隣にいる少女は願っている。
思い出したいと。
自分が何者なのか知りたいと。
たとえ、その先に怖いものがあったとしても。
僕は心の中で呟いた。
リセが、思い出せますように。
そして。
僕が、忘れているものから逃げませんように。
目を開けると、リセが僕を見ていた。
「何をお願いしたの?」
「言ったら叶わないんじゃないのか?」
「それ、流れ星じゃない?」
「似たようなものだろ」
「けち」
「願いにけちとかあるのか」
リセは頬を膨らませた。
少しだけ、いつもの彼女に戻っていた。
僕はほっとした。
境内を出る頃には、夕暮れが近づいていた。
石段を下りる途中、リセが立ち止まった。
「昇」
「今度は何だ?」
「今日、エフェメラがよく見えると思う」
「どうしてわかるんだ」
「胸がざわざわするから」
「天気予報より曖昧だな」
「でも、当たるよ」
彼女は空を見上げた。
木々の隙間から見える空は、少しずつ夜の色に変わり始めている。
「屋上に行こう」
そう言ったリセの横顔は、どこか切実だった。
僕たちは廃校へ向かった。
校門を抜け、薄暗い廊下を歩き、階段を上る。
何度も来ているわけではないのに、屋上へ向かう道はもう見慣れたものになっていた。
扉を開ける。
夕暮れの風が吹いた。
屋上には、薄紫色の空が広がっていた。
町の明かりが、ぽつぽつと灯り始めている。
海は遠くで黒く光っていた。
リセはフェンスのそばに立った。
僕はその少し後ろに立つ。
やがて、空に淡い光が現れた。
ひとつ。
また、ひとつ。
星よりも大きく、けれど星よりも弱い光。
それは空のあちこちに浮かび、ゆっくりと瞬いていた。
「……本当に」
僕は息を呑んだ。
昨日見た光とは違う。
今日は、いくつも見える。
エフェメラ。
忘れられた願いの光。
それは空に浮かぶたびに、すぐ消えていく。
生まれては消え、生まれては消え、まるで誰かの記憶が瞬いているみたいだった。
リセはその光を見上げていた。
彼女の横顔に、淡い光が映っている。
「綺麗だな」
僕が言うと、リセは小さく頷いた。
「うん。綺麗」
「でも、少し寂しい」
「うん」
「どうしてだろうな」
リセは答えなかった。
その代わり、ぽつりと言った。
「わたし、誰かを待ってた気がする」
僕は彼女を見た。
「バス停で?」
「うん。神社でも、海でも、ここでも」
「誰を?」
「たぶん……」
リセは言葉を探すように胸に手を当てた。
「大切な人」
その瞬間、僕の頭の奥が痛んだ。
夢の中の声が蘇る。
――わたしのこと、忘れないでね。
白い帽子。
小さな手。
夕暮れの海沿いの道。
そして、泣いている女の子。
僕はフェンスを握った。
「昇?」
「……いや、大丈夫」
大丈夫ではなかった。
何かが近づいている。
忘れていた記憶の輪郭が、空の光に照らされて少しずつ浮かび上がってくる。
でも、まだ見えない。
見えそうで、見えない。
「リセ」
「うん」
「明日も調べよう。エフェメラのこと。夏の子のこと。それから……僕たちが忘れていること」
リセは驚いたように僕を見た。
それから、ゆっくり笑った。
「うん」
その笑顔は、どこか泣きそうだった。
僕は空を見上げた。
エフェメラの光が、またひとつ消えた。
消える寸前、その光は一瞬だけ強く輝いた。
まるで、ここにいるよ、と叫んでいるみたいに。
家に戻った僕は、すぐにノートを開いた。
今日は、昨日よりも手が動いた。
図書館。
郷土誌。
夏の子。
神社の絵馬。
もう一度、会えますように。
屋上の空に浮かぶエフェメラ。
そして、思い出せない約束。
僕は書いた。
彼女は、願いから生まれたのかもしれない。
誰かが忘れてしまった願い。
誰かが果たせなかった約束。
夏の空に置き去りにされた、短い命の光。
そこまで書いて、僕はペンを止めた。
窓の外では、エフェメラがまだ淡く瞬いている。
僕はページの端に、小さくタイトルを書いた。
夏空のエフェメラ。
その文字を見た瞬間、胸の奥に確かな熱が灯った。
これは、まだ物語ではない。
けれど、もうただのメモでもなかった。
僕は書かなければならない。
リセのために。
そして、忘れてしまった僕自身のために。
その夜、眠りに落ちる直前、僕はまた声を聞いた気がした。
――のぼる。
遠い夏の向こうから、誰かが僕を呼んでいた。




