第二章 廃校の少女
翌朝、僕は蝉の声で目を覚ました。
障子越しの光は、もうすっかり白くなっていて、畳の上に四角い日なたを作っていた。
時計を見ると、午前九時を少し過ぎている。
昨夜は、ほとんど眠れなかった。
理由はわかっている。
天宮リセ。
廃校の屋上で出会った、あの不思議な少女のことが、頭から離れなかった。
空を見ていた。
エフェメラが見えると言っていた。
僕が書く人間だと、なぜか気づいた。
普通に考えれば、ただの変わった子だ。
もしかすると、近所の高校生が廃校に忍び込んで遊んでいただけかもしれない。
なのに、僕はそう片づけることができなかった。
あの夕陽の屋上。
風に揺れる紺色の髪。
僕の名前を呼んだ声。
思い出すたびに、胸の奥が落ち着かなくなる。
僕は布団から起き上がり、居間に向かった。
テーブルの上には、昨夜開いたままの大学ノートが置かれている。
そこには一文だけ、僕の字で書かれていた。
その夏、星見町の空には、死んだ星の光が降っていた。
あらためて見ると、やっぱり少し恥ずかしい。
けれど、不思議と消す気にはならなかった。
僕はペンを手に取った。
続きの言葉を探す。
星見町。
夏。
エフェメラ。
廃校の少女。
いくつかの単語が頭の中に浮かんでは消える。
でも、文章にはならない。
結局、僕はノートを閉じた。
「……まあ、そんな簡単にはいかないか」
昔は違った。
書きたいものがありすぎて、指が追いつかなかった。
授業中も、休み時間も、夜寝る前も、ずっと物語のことを考えていた。
あの頃の僕は、物語があればどこへでも行けると思っていた。
でも今は、どこにも行けない。
ノートの前に座っているだけで、息苦しくなる。
僕は立ち上がり、冷蔵庫から昨日買ったペットボトルの麦茶を取り出した。
ぬるい。
冷蔵庫が古いせいか、あまり冷えていなかった。
それでも喉を通る水分はありがたかった。
昼前になって、僕はまた町へ出た。
昨日買ったパンだけでは足りなかったし、家にいてもノートとにらめっこするだけだった。
星見町の商店街は、商店街と呼ぶには小さすぎた。
古い文房具屋。
シャッターの下りた写真館。
魚屋だったらしい建物。
そして、かろうじて営業している小さな商店。
僕はそこで弁当と飲み物を買った。
レジにいた老婆は、僕の顔をじっと見つめてから言った。
「あんた、寺尾さんとこの子かね」
「あ……はい。孫です」
「まあ、大きくなって」
こういう会話は、田舎では避けられない。
僕は曖昧に笑って、早く会計が終わるのを待った。
「夏だけ帰ってきたん?」
「まあ、そんな感じです」
「そうかね。星見の夏は久しぶりやろ」
「はい」
「今年はよう出とるよ」
「何がですか?」
老婆は、当然のように空を指さした。
「エフェメラたい」
その言葉に、僕は思わず顔を上げた。
「……エフェメラって、本当にあるんですか?」
老婆は少し笑った。
「あるもなにも、昔からあるやろ。あんたも小さい頃、見とったはずよ」
「僕が?」
「夏の夜に、空にふわっと出る光。星みたいで、星じゃなか。すぐ消えるけん、エフェメラ」
「……ただの流れ星じゃなくて?」
「流れ星とは違うねえ。あれは、忘れもんの光やけん」
忘れものの光。
妙な言い方だった。
「忘れもの?」
「大事な願いとか、約束とか、そういうもんよ。人はすぐ忘れるけんね。空が代わりに覚えとると」
老婆はそう言って、弁当を袋に入れた。
「夏の終わりには、よう見えるよ。あんたも見てみたらよか」
僕は礼を言って店を出た。
袋を手に、しばらく道の真ん中で立ち止まる。
エフェメラ。
天宮リセだけが口にした、変な言葉ではなかった。
この町には、本当にその言い伝えがあるらしい。
忘れものの光。
忘れてしまった願い。
その響きが、胸のどこかに引っかかった。
午後になっても、僕は廃校へ行くか迷っていた。
また来る?
昨日のリセの声が頭に残っている。
気が向いたら、と僕は答えた。
でも彼女は、来るね、と言った。
まるで、僕が必ず来るとわかっているみたいに。
「……行かない理由もないか」
僕はそう呟いて、祖母の家を出た。
廃校へ向かう道は、昨日よりもはっきりと暑かった。
アスファルトの上で空気が揺れている。
草むらからは虫の声がして、遠くから波の音が聞こえる。
校門は昨日と同じように、少し開いていた。
僕は中に入った。
校舎は昼間でも薄暗かった。
廊下に足を踏み入れると、埃っぽい匂いがした。
壁には、色あせた掲示物が残っている。
図書委員募集。
夏休みの過ごし方。
星見町郷土学習発表会。
時間だけが止まっているみたいだった。
僕は階段を上がり、屋上へ向かった。
扉を開ける。
強い光が目に入った。
屋上には、誰もいなかった。
「……まあ、そうだよな」
少しだけ肩の力が抜ける。
来ると言ったのは彼女ではなく、僕の方だったのかもしれない。
勝手に期待して、勝手に空振りしただけだ。
僕はフェンスのそばまで歩き、町を見下ろした。
小さな家々。
海沿いの道路。
遠くの山。
駅のホーム。
そして、青すぎる空。
そのとき、後ろから声がした。
「やっぱり来た」
僕は振り返った。
リセがいた。
昨日と同じ白いワンピース。
紺色の髪。
不思議なくらい澄んだ瞳。
彼女は屋上の扉の横に立って、楽しそうに笑っていた。
「いつからいたんだ?」
「いま」
「足音しなかったけど」
「忍者だから」
「嘘つけ」
「じゃあ、風の精」
「もっと嘘だろ」
リセはくすくす笑った。
その笑い声が、屋上の暑さを少しだけ和らげた気がした。
「昇、今日は何しに来たの?」
「それはこっちの台詞だ。君こそ、毎日ここにいるのか?」
「毎日じゃないよ。夏だけ」
「夏だけ?」
「うん。夏のあいだだけ、ここに来るの」
「……学校に?」
「ここ、空が近いから」
リセはそう言って、フェンスのそばへ歩いた。
僕も隣に並ぶ。
昼の空には、当然星など見えない。
白い雲がゆっくり流れているだけだ。
「昨日、商店の人に聞いた」
「何を?」
「エフェメラのこと」
リセは少しだけ目を細めた。
「なんて言ってた?」
「忘れものの光だって」
「うん」
「大事な願いとか、約束とか、そういうものを空が覚えているって」
「うん」
「本当なのか?」
リセはすぐには答えなかった。
風が吹いた。
彼女の髪が頬にかかる。
「本当かどうかって、そんなに大事?」
「大事だろ。普通は」
「でも、信じたいと思ったら、それは少し本当になるよ」
「……詩人みたいなことを言うな」
「詩人じゃないよ。リセだよ」
「それは昨日も聞いた」
僕が言うと、リセは満足そうに笑った。
変な会話だった。
でも、不思議と疲れなかった。
町に戻ってきてから、誰かとまともに話したのは初めてだった。
それなのに、リセと話していると、言葉が自然に出てくる。
僕はフェンスにもたれ、言った。
「エフェメラって、夏にだけ見えるんだよな」
「うん」
「どうして夏だけなんだ?」
「夏は、いろんなものが強くなるから」
「いろんなもの?」
「光とか、匂いとか、声とか、思い出とか」
リセは指折り数えるように言った。
「夏の記憶って、なかなか消えないでしょ?」
「そうかな」
「そうだよ。プールの匂いとか、夕方のチャイムとか、ぬるい風とか、溶けかけのアイスとか」
「ああ……」
言われてみれば、たしかにそうだった。
子どもの頃の夏休み。
昼寝から起きたときの薄暗い部屋。
夕方になっても帰りたくなかった校庭。
虫取り網を持って走った坂道。
忘れていたはずの景色が、少しずつ浮かんでくる。
「昇にもあるでしょ。忘れられない夏」
リセが言った。
僕は答えなかった。
忘れられない夏。
そう呼べるものが、自分にもあったのかもしれない。
でも今の僕には、それを思い出すのが怖かった。
「……ないよ」
僕は短く言った。
「僕の夏なんて、たいしたものじゃない」
「そうかな」
「そうだよ」
「じゃあ、これから作ればいいね」
あまりにも簡単に言うので、僕は少し呆れた。
「そんな簡単に言うなよ」
「簡単じゃないの?」
「普通はな」
「でも、今日ここに来た」
「それが?」
「昨日とは違う今日になった」
リセは僕を見た。
「だから、夏は少し進んだよ」
その言葉に、僕は何も言えなかった。
リセはときどき、子どもみたいなことを言う。
けれどその中に、妙に真っ直ぐな刃みたいなものがある。
僕が見ないふりをしている場所を、簡単に指で触れてくる。
「昇は、今日は書いた?」
不意に聞かれて、僕は顔をしかめた。
「一文だけ」
「すごい」
「すごくない。一文だけだぞ」
「でも、昨日は書いてなかった」
「……まあ」
「じゃあ、すごい」
リセは本気でそう言っているようだった。
僕は苦笑した。
「君、褒めるのが下手だな」
「そう?」
「一文書いただけで褒められたら、逆に情けなくなる」
「でも、一文がないと、物語は始まらないよ」
それは、正しかった。
どんな長い物語も、最初は一文から始まる。
昔の僕なら、そんなことを知っていた。
なのに今の僕は、一文を書くことすら怖がっていた。
リセは屋上の床に座り込んだ。
「昇の物語、どんな話?」
「まだ決まってない」
「じゃあ、決めよう」
「今ここで?」
「うん」
「無茶言うな」
「主人公は?」
「……夢を諦めかけた青年」
「暗い」
「うるさいな」
「ヒロインは?」
リセは少し身を乗り出した。
僕は彼女を見た。
白いワンピース。
紺色の髪。
よく笑う、不思議な少女。
「……夏だけ現れる女の子」
僕がそう言うと、リセはぱっと笑った。
「いいね」
「いいのか?」
「うん。儚そう」
「自分で言うな」
「その子、名前は?」
「まだ決めてない」
「リセでいいよ」
「勝手に出演するな」
「だめ?」
リセは少しだけ寂しそうな顔をした。
ほんの一瞬だった。
でも僕は、それを見逃せなかった。
「……まあ、仮なら」
「ほんと?」
「仮だぞ」
「うん。仮のリセ」
彼女は嬉しそうに笑った。
その笑顔を見ていると、なぜか胸が痛んだ。
どうしてそんなに嬉しそうなんだ。
ただの作り話の名前に使われるだけなのに。
「じゃあ、そのリセは何をするんだ?」
僕は聞いた。
リセは空を見上げた。
「思い出すの」
「何を?」
「大切なこと」
「大切なことって?」
「まだわからない」
「作者が決めてくれよ」
「昇が決めるんだよ」
「僕が?」
「うん。昇の物語だから」
昇の物語。
その言葉が、やけに重く聞こえた。
僕は今まで、自分の物語を書こうとしていたのだろうか。
面白そうな設定。
受けそうな展開。
どこかで見たような泣かせ方。
誰かに認めてもらうための物語。
そんなことばかり考えて、本当に書きたかったものを見失っていたのかもしれない。
「……難しいな」
「難しいほうが、きっと大事だよ」
リセは立ち上がった。
「ねえ、昇。町を案内して」
「町を?」
「うん。わたし、星見町をちゃんと見たい」
「君、この町の子じゃないのか?」
「たぶん」
「またそれか」
僕はため息をついた。
けれど断る理由はなかった。
家に戻っても、どうせノートを前に固まるだけだ。
それなら、町を歩くほうがましかもしれない。
「暑いぞ」
「夏だからね」
「歩くの疲れるぞ」
「昇、おじいちゃんみたい」
「二十代だ」
「じゃあ、若いおじいちゃん」
「なんだそれ」
リセは楽しそうに階段へ向かった。
僕はその背中を追いかける。
廃校を出て、僕たちは海へ向かった。
坂道を下ると、視界いっぱいに青が広がった。
防波堤の向こうで、海が光っている。
リセは小走りで駆け出した。
「海!」
「転ぶぞ」
「転ばないよ」
そう言った直後、彼女は砂に足を取られて少しよろけた。
「ほら」
「今のは転んでない」
「危なかっただろ」
「夏っぽかった」
「便利な言葉だな、夏」
リセは靴を脱いで、波打ち際に立った。
白い足首に、波が触れる。
彼女は小さく声を上げて笑った。
「冷たい」
「そりゃ海だからな」
「昇は入らないの?」
「入らない」
「どうして?」
「濡れるから」
「海だもん」
「だから入らないんだよ」
「つまらない大人」
リセは頬を膨らませた。
僕は防波堤に座り、彼女を見ていた。
海で遊ぶ少女。
夏の光。
白いワンピース。
あまりにも絵になりすぎていて、少し現実味がなかった。
僕は鞄からノートを取り出した。
ペンを持つ。
リセが波打ち際で振り返る。
「何してるの?」
「メモ」
「わたしのこと?」
「仮のヒロインの資料」
「じゃあ、かわいく書いてね」
「自分で言うな」
僕はノートに短く書いた。
リセは、海を初めて見る子どもみたいに笑った。
けれどその横顔は、ずっと昔から海を知っているようにも見えた。
書けた。
一文ではなく、二文。
たったそれだけなのに、胸の奥が少し熱くなった。
リセは波打ち際から戻ってきて、僕の隣に座った。
「見せて」
「嫌だ」
「どうして?」
「恥ずかしい」
「わたしのことなのに」
「仮のヒロインのことだ」
「じゃあ、なおさら見たい」
「なおさら見せない」
リセは不満そうに唇を尖らせた。
その仕草が妙に自然で、僕は少し笑った。
「昇、笑った」
「笑ってない」
「笑ったよ」
「気のせいだ」
「じゃあ、気のせいで嬉しい」
リセはそう言って、海を見た。
夕方が近づいていた。
空の青が少しずつ薄くなり、雲の端に橙色がにじみ始める。
僕たちは海辺を離れ、町の方へ戻った。
途中、古いバス停の前を通った。
屋根つきの小さな待合所。
錆びたベンチ。
時刻表には、一日に数本だけのバス。
リセはそこで足を止めた。
「ここ、知ってる」
「来たことあるのか?」
「わからない。でも、知ってる気がする」
彼女はベンチに座った。
夕陽が横から差し込んで、待合所の影を長く伸ばしている。
「誰かを待ってたのかな」
リセがぽつりと言った。
「誰を?」
「わからない」
「またか」
「でも、ここでずっと待ってた気がする。夕方になっても、夜になっても、バスが来なくても」
彼女の声は、さっきまでより少し静かだった。
僕は隣に座らず、少し離れて立っていた。
なぜか、彼女のそばに行ってはいけないような気がした。
「リセ」
「うん?」
「君、本当に何者なんだ?」
聞いてから、少し後悔した。
けれど、もう遅かった。
リセは僕を見た。
その瞳は、夕焼けを映して赤く見えた。
「わからない」
彼女は言った。
「でも、思い出さなきゃいけないことがあるの」
「昨日も言ってたな」
「うん。夏が終わる前に」
「夏が終わったら、どうなるんだ?」
リセは答えなかった。
遠くで、バスのエンジン音が聞こえた。
やがて、小さな路線バスが坂の向こうから現れ、僕たちの前を通り過ぎていった。
停留所には止まらなかった。
乗る人も、降りる人もいなかったからだ。
リセはそれを見送ってから、少しだけ笑った。
「行っちゃった」
「乗るつもりだったのか?」
「ううん。ただ、見てただけ」
彼女は立ち上がった。
「帰ろう、昇」
「どこに?」
「今日は、ここまで」
そう言うと、リセは道の先へ歩き出した。
僕はその背中を見つめる。
白いワンピースが夕焼けの中で揺れていた。
まるで、光の中に溶けていきそうだった。
「リセ」
僕は思わず呼び止めた。
彼女が振り返る。
「また明日も、屋上にいるのか?」
リセは少し驚いたような顔をして、それから嬉しそうに笑った。
「うん。待ってる」
その笑顔を見た瞬間、僕は気づいた。
僕はもう、明日も彼女に会うつもりでいる。
家に帰ると、空はすっかり夜になっていた。
僕は居間の明かりをつけ、ノートを開いた。
今日書いたメモを見返す。
海を初めて見る子どもみたいに笑う少女。
夕焼けのバス停で、誰かを待っていた記憶。
夏が終わる前に、思い出さなければならないこと。
僕はペンを握った。
言葉が少しずつ形になっていく。
まだ物語とは呼べない。
でも、確かに何かが始まっていた。
窓の外を見る。
夜空に、淡い光がひとつ浮かんでいた。
エフェメラ。
忘れものの光。
それは昨日より少しだけ明るく、夏の闇の中で瞬いていた。
僕はノートに書いた。
彼女は、夏だけ現れる少女だった。
そして僕は、その夏をまだ知らなかった。




