五・六(任傀伝)、嗣子任隗
5.
是歲,更封光阿陵侯,食邑萬戶。五年,征詣京師,奉朝請。其冬卒。子隗嗣。後阮況為南陽太守,郭唐至河南尹,皆有能名。
(訳)
この年、任光は阿陵侯に改封された。
食邑は一万戸であった。
五年(29)、京師を詣で、朝請を奉じた。
同年冬に卒した。
子の任隗が嗣いだ。
その後、阮況は南陽太守、
郭唐は河南尹となったが、
いずれも名声があった。
6.
隗字仲和,少好黃、老,清靜寡欲,所得奉秩,常以賑恤宗族,收養孤寡。顯宗聞之,擢奉朝請,遷羽林左監、虎賁中郎將,又遷長水校尉。肅宗即位,雅相敬愛,數稱其行,以為將作大匠。將作大匠自建武以來常謁者兼之,至隗乃置真焉。建初五年,遷太仆,八年,代竇固為光祿勛,所歷皆有稱。章和元年,拜司空。
(訳)
任隗は字を仲和という。
少くして黄老を好み、
物静かで寡欲であった。
得た奉秩(俸禄)は常に宗族に賑恤して
孤児や寡を収めて養っていた。
顕宗(明帝劉荘)はこれを聞いて
抜擢し朝請を奉じさせた。
羽林左監、虎賁中郎将に遷った。
また、長水校尉に遷った。
肅宗(章帝劉炟)が即位すると、
もとより互いに敬愛し合っていたため
その行いをしばしば称揚して
将作大匠に任じられた。
将作大匠は建武(光武帝の御代)以来
謁者がこれを兼任していたが、
任隗に至り、はじめて専任として置かれた。
建初五年(80)太僕に遷った。
八年(83)、竇固に代わって光禄勲となり、
歴任した全て(の官職で)称賛された。
章和元年(87)、司空に拝された。
(註釈)
任光は隗囂を降す前に亡くなってしまった。
子の任隗が次ぐ。
父が没した29年から
92年まで生きてるから、
一代で光武帝、明帝、章帝、和帝の
四代を見届けてきたことになる。
任光が亡くなった時
任隗はまだ幼かったんかな。
「続漢書」にいう、
将作大匠は一人、二千石。
蔡質の「漢儀」にいう、位は河南尹に次ぐ。
光武帝の中元二年(57)に省かれ
謁者がこれを兼領したが、
章帝が改めて将作大匠を為した。
宗廟、路寝(正殿)、宮室、陵園の
修繕や造築についてつかさどる。
太僕は九卿の一、中二千石。
車馬の事をつかさどる。
光禄勲も九卿の一、中二千石。
宮殿門戸の宿直をつかさどる。
司空は三公の一角、
土木の事をつかさどる。
三公九卿を歴任して
いずれの評判も高かった。




