三・四、城頭の子路、力子都
3.
城頭子路者,東平人,姓爰,名曾,字子路,與肥城劉詡起兵盧城頭,故號其兵為『城頭子路』。曾自稱『都從事』,詡稱『校三老』,寇掠河、濟間,眾至二十餘萬。更始立,曾遣使降,拜曾東萊郡太守,詡濟南太守,皆行大將軍事。是歲,曾為其將所殺,眾推詡為主,更始封詡助國侯,令罷兵歸本郡。
(訳)
城頭の子路は東平の人で、
姓は爰、名は曾、字が子路であった。
(爰曾は)肥城の劉詡とともに
盧の城頭で挙兵したために
その兵を号して「城頭の子路」とよんだ。
爰曾は「都従事」を自称し、
劉詡は「校三老」を称しており、
黄河、濟水の間で掠奪をはたらき
部衆は二十万余りにまで至っていた。
更始帝が立つと
爰曾は使いを遣って降伏し、
爰曾は東萊郡の太守に、
劉詡は済南の太守に拝されて
いずれも大将軍の事業を
代行することとなった。
この年、爰曾はその部将に
殺される所となり、
部衆は劉詡を推戴して君主とした。
更始帝は劉詡を助国侯に封じ
罷兵させて本郡へ帰らせた。
4.
力子都者,東海人也。起兵鄉裏,抄擊徐、兗界,眾有六七萬。更始立,遣使降,拜子都徐州牧。為其部曲所殺,餘黨復相聚,與諸賊會於檀鄉,因號為檀鄉。檀鄉渠帥董次仲始起茌平,遂渡河入魏郡清河,與五校合,眾十餘萬。建武元年,世祖入洛陽,遣大司馬吳漢等擊檀鄉,明年春,大破降之。
(訳)
力子都は東海の人である。
郷裏にて挙兵し、
徐州・兗州の界域を襲撃していた。
六から七万の部衆を有していた。
更始帝が立つと
使者を遣わして降伏し、
力子都は徐州牧に拝された。
その部曲の為に殺される所となり
残党は再び相集まって
諸々の賊徒と檀郷で合流し
そこで「檀郷」を号した。
檀郷の渠帥の董次仲は茌平で挙兵し、
かくて渡河して魏郡の清河へ入り
五校を糾合した。部衆は十万余りだった。
建武元年(25)、世祖は洛陽へ入ると
大司馬の呉漢らに檀郷を撃たせた。
明年(26)春、大破してこれを降した。
(註釈)
光武帝が助力を仰ごうとした
子路と力子都の詳細。
どっちも数は多かったけど
結局部将に殺されてしまっている。
これは、頭目が更始帝に消されて
勢力だけ吸収されたのかな。
「都従事」は、
劉縯の自称「柱天都部」を
ちょっとスケールダウンさせた感じだ。
三老は前述したように
郷の教化を担当する。
「校三老」は、教導役を
査定するというニュアンスかな。
子路の勢力は解体され、
力子都の勢力は董仲次が引き継いだが
呉漢たちに討たれ、
十万人余りが降伏した。
呉漢はこの功績で広平侯。




