七・八(任隗伝)、四世代に仕える
7.
隗義行內修,不求名譽,而以沈正見重於世。和帝即位,大將軍竇憲秉權,專作威福,內外朝臣莫不震懾。時,憲擊匈奴,國用勞費,隗奏議征憲還,前後十上。獨與司徒袁安同心畢力,持重處正,鯁言直議,無所回隱,語在袁安傳。
(訳)
任隗は義を行い内を修め
名誉を求めなかった。
落ち着きと公平さによって
世に重んじられた。
和帝(劉肇)が即位すると
大将軍の竇憲が政権を掌握して
専らに威福を作すようになり
内外の朝臣で震え慄かぬ者はなかった。
時に竇憲が匈奴を撃ち
国費が嵩むようになってしまい、
任隗は上奏して、征伐に出た竇憲を
帰還させるように議し、
前後で十度も上言した。
司徒の袁安のみが
ともに同心して力を尽くし、
厳正な処置を望んで
鯁骨の言で直諫し、
避けたり隠れたりしなかった事が
袁安伝にて語られている。
8.
永元四年薨,子屯嗣。帝追思隗忠,擢屯為步兵校尉,徙封西陽侯。屯卒,子勝嗣。勝卒,子世嗣,徙封北鄉侯。
(訳)
永元四年(92)に薨去し、
子の任屯が嗣いだ。
帝は任隗の忠義を追思して
任屯を抜擢して歩兵校尉とし、
西陽侯に改封した。
任屯が卒すると、子の任勝が嗣いだ。
任勝が卒すると、子の任世が嗣ぎ
北郷侯に改封された。
(註釈)
三代目の章帝がわずか
32歳で崩御しちゃったため
四代目の和帝は即位時まだ9歳。
外戚の竇氏がぶいぶい言わせ始める。
成長した和帝は外戚から
権力を取り戻そうと画策し、
そこで頼ったのが宦官の鄭衆だった。
以降、宦官が権威を握るようになり
末期の政治腐敗へ繋がっていく。
竇憲が匈奴を征伐した影響で
財政が逼迫すると
任隗は彼を召し返すように上奏。
この時一緒になって止めたのが司徒の袁安。
のちに袁紹や袁術を輩出する汝南袁氏を
名門に押し上げたパイオニア。
こうやって光武帝の時代から
三国志の時代に繋がってくんやねぇ。
任隗と袁安と竇憲は
けっきょく全員同じ年に死んだ。
袁安の子孫はその後も三公を輩出したが
任隗の後継は全然パッとしなかった。
〜任光評価〜
・戦闘 ★★★★★★ 6
昆陽で劉秀と共闘。新の大軍を破る。
信都に入った劉秀が
留守に宗広を残して
任光は従軍させた。
指揮能力に信頼を寄せていたのかも。
・戦略 ★★★★★★ 6
へろへろの劉秀のもとに
兵を集める策を懸案。
子路と力子都が劉秀に帰参した
という檄文をしたため
戦況を優位に進めた。
・内政 ★★★★★ 5
更始政権下の信都太守。
内政手腕を発揮する前に終わってしまった。
・人格 ★★★★★★ 6
郷中で敬愛され、
劉賜から長者と見なされた。
〜任隗評価〜
・戦闘 ★★★★★ 5
・戦略 ★★★★★ 5
・内政 ★★★★★★★ 7
三公九卿を歴任。評判は高かった。
・人格 ★★★★★★ 6
穏やかで公平であり
章帝から敬愛された。




