一・二、早めに退場/後嗣
雲台28将、26位の万修。
短いからサクサクやっちゃいます。
1.
萬脩字君遊,扶風茂陵人也。更始時,為信都令,與太守任光、都尉李忠共城守,迎世祖,拜為偏將軍,封造義侯。及破邯鄲,拜右將軍,從平河北。建武二年,更封槐裏侯。與揚化將軍堅鐔俱擊南陽,未克而病,卒於軍。
(訳)
万修は字を君遊、扶風茂陵の人である。
更始帝の時代に信都の令となり、
太守の任光、都尉の李忠と共に城を守り、
世祖(劉秀)を迎えると
拝されて偏将軍となり
造義侯に封じられた。
邯鄲を破るに及んで
右将軍に拝され
河北平定に追従した。
建武二年(26)、
新たに槐裏侯に封じられた。
揚化将軍の堅鐔と倶に南陽を撃ち
勝利できぬうちに病み
軍中にて卒してしまった。
(註釈)
雲台二十八将の二十六位。
劉秀が河北で死にそうな時に
助けてくれた、信都郡のグループ。
南陽の戦で病没。
退場するのが余りにも早かった。
万修評価
戦闘 ★★★★★★ 6
戦略 ★★★★★ 5
内政 ★★★★★★ 6
人格 ★★★★★ 5
2.
子普嗣,徙封泫氏侯。普卒,子親嗣,徙封扶柳侯。親卒,無子,國除。永初七年,鄧太后紹封脩曾孫豐為曲平亭侯。豐卒,子熾嗣。永建元年},熾卒,無子,國除。延熹二年,桓帝紹封脩玄孫恭為門德亭侯。
(訳)
子の万普が嗣ぎ、
泫氏侯に徒封された。
万普が卒すると
子の万親が嗣ぎ、
扶柳侯に徒封された。
万親が卒した際に
子はなく、国を除かれた。
永初七年(113)、鄧太后の紹介で
万修の曽孫の万豊が
曲平亭侯となった。
万豊が卒すると、子の万熾が嗣いだ。
永建元年(126)、万熾が卒した際に
子はなく、国を除かれた。
延熹二年(159)、桓帝の紹介で
万修の玄孫の万恭が
門徳亭侯となった。
(註釈)
玄孫!?(さらば森田
李通(曹魏のほう)の幼名が
「万億」だったけど
関係ないか、さすがに。
三国時代に登場する万氏は
①孫皓に仕えた「万彧」
②「魏略」の公孫淵の上奏に出てくる
孫権の中郎将の「万泰」
③「江表伝」に出てくる
陳瑀の都尉の「万演」
④劉岱配下の「万潜」
⑤黄巾賊の「万秉」
①と②は同族かな??
誰かしら万修の子孫かもしれません。
東観漢記には万修の伝が
ありませんでした。散逸した?




