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淡々後漢書  作者: ンバ
第二十一、万修伝
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69/102

一・二、早めに退場/後嗣

雲台28将、26位の万修ばんしゅう

短いからサクサクやっちゃいます。

1.

萬脩字君遊,扶風茂陵人也。更始時,為信都令,與太守任光、都尉李忠共城守,迎世祖,拜為偏將軍,封造義侯。及破邯鄲,拜右將軍,從平河北。建武二年,更封槐裏侯。與揚化將軍堅鐔俱擊南陽,未克而病,卒於軍。


(訳)

万修ばんしゅうは字を君遊くんゆう扶風ふふう茂陵もりょうの人である。


更始帝の時代に信都しんとの令となり、

太守の任光じんこう、都尉の李忠りちゅうと共に城を守り、

世祖(劉秀)を迎えると

拝されて偏将軍となり

造義ぞうぎ侯に封じられた。


邯鄲かんたんを破るに及んで

右将軍に拝され

河北平定に追従した。


建武二年(26)、

新たに槐裏かいり侯に封じられた。


揚化将軍の堅鐔けんたんと倶に南陽を撃ち

勝利できぬうちに病み

軍中にて卒してしまった。


(註釈)

雲台二十八将の二十六位。


劉秀が河北で死にそうな時に

助けてくれた、信都郡のグループ。


南陽の戦で病没。

退場するのが余りにも早かった。


万修評価

戦闘 ★★★★★★ 6

戦略 ★★★★★ 5

内政 ★★★★★★ 6

人格 ★★★★★ 5


2.

子普嗣,徙封泫氏侯。普卒,子親嗣,徙封扶柳侯。親卒,無子,國除。永初七年,鄧太后紹封脩曾孫豐為曲平亭侯。豐卒,子熾嗣。永建元年},熾卒,無子,國除。延熹二年,桓帝紹封脩玄孫恭為門德亭侯。


(訳)

子の万普ばんふが嗣ぎ、

泫氏げんし侯に徒封された。


万普が卒すると

子の万親ばんしんが嗣ぎ、

扶柳ふりゅう侯に徒封された。


万親が卒した際に

子はなく、国を除かれた。


永初七年(113)、鄧太后の紹介で

万修の曽孫の万豊ばんほう

曲平きょくへい亭侯となった。


万豊が卒すると、子の万熾ばんしが嗣いだ。


永建元年(126)、万熾が卒した際に

子はなく、国を除かれた。


延熹二年(159)、桓帝の紹介で

万修の玄孫の万恭ばんきょう

門徳もんとく亭侯となった。


(註釈)

玄孫!?(さらば森田


李通(曹魏のほう)の幼名が

「万億」だったけど

関係ないか、さすがに。



三国時代に登場する万氏は


①孫皓に仕えた「万彧ばんいく


②「魏略」の公孫淵の上奏に出てくる

孫権の中郎将の「万泰ばんたい


③「江表伝」に出てくる

陳瑀の都尉の「万演ばんえん


④劉岱配下の「万潜ばんせん


⑤黄巾賊の「万秉ばんへい


①と②は同族かな??

誰かしら万修の子孫かもしれません。


東観漢記には万修の伝が

ありませんでした。散逸した?


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