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淡々後漢書  作者: ンバ
第二十、銚期伝
54/102

五・六、国士の風格

5.

建武五年,行幸魏郡,以期為太中大夫。從還洛陽,又拜□尉。

(訳)

建武五年(29)、魏郡へ御幸すると

銚期は太中大夫となった。


洛陽への帰還に従い、

また衛尉となった。


(註釈)

□のとこは蹕??

東観漢記だと「衛尉」なので

衛尉にしときました。


6.

期重於信義,自為將,有所降下,未嘗虜掠。及在朝廷,憂國愛主,其有不得於心,必犯顏諫諍。帝嘗輕與期門近出,[一]期頓首車前曰:「臣聞古今之戒,變生不意,誠不願陛下微行數出。」帝為之回輿而還。十年卒,[二]帝親臨襚斂,贈以□尉、安成侯印綬,謚曰忠侯。

(訳)

銚期は信義を重んじ、

将軍となって以来

降伏させたり下した所で

捕虜から掠奪を行うという事は

未だかつてなかった。


朝廷に在りては

国を憂い、主を愛し、

得心がゆかぬ時は

必ず顔色を変えて諫言した。


光武帝がある時、軽装で

期門から近場へ出かけようとした際

銚期は車の前に頓首して言った。


「臣は古今の戒めとして

変事の発生は予測できぬものと

聞いております。


どうか陛下には

たびたび微行して

外出なさいませぬよう、

まこと、お願いいたします」


光武帝はその言葉を受け入れ

乗輿を回して帰還した。


十年(34)に卒した。


光武帝は自ら※襚斂に臨み

(※納棺の際に死者に服を着せる)

蹕尉、安成侯の印綬を追贈し

忠侯と諡した。



(註釈)

次況ぉおおおおおおおおおおお

(議事進行係


これは確か、

三国志の譙周しょうしゅう伝で

引き合いに出されてたエピソードだ。


光武帝は結構

微行しようとして

家臣に諌められる逸話が出てくるわね。



註5.

前書,武帝將出,必與北地良家子期於殿門,故曰「期門」。

(訳)

前書では武帝が外出する際には

必ず北地の良家の子が

殿門に期しており

故に「期門」という。



註6.

東觀記曰:「期疾病,使使者存問,加賜醫藥甚厚。其母問期當封何子?期言『受國家恩深,常籩負,如死,不知當何以報國,何宜封子也』!上甚憐之。」


(訳)

東観漢記にいう、

銚期が病を患うと

容体を問うための使者が遣わされ

医者や薬を賜る事甚だ手厚く、

彼の母親に

「銚期には封じるべき子供が

何人いるのか」と問われた。


銚期は言った。


「国家から深い恩を受け

いつも籩にそむくものと考えていた。

例え死しても

国家にどう報いるべきかわからぬのに

どうして子を封じる必要があろうか」


お上は甚だ彼を憐れんだ。



(註釈)

註6のエピソードかっけぇな!!


結局銚期の子は侯に封じられたよ。


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