四、李熊と李陸
4.
光武即位,封安成侯,[一]食邑五千戶。時檀鄉、五樓賊入繁陽、內黃,[二] 又魏郡大姓數反覆,而更始將卓京[三]謀欲相率反鄴城。帝以期為魏郡太守,行大將軍事。期發郡兵擊卓京,破之,斬首六百餘級。京亡入山,追斬其將校數十人,獲京妻子。進擊繁陽、內黃,復斬數百級,郡界清平。督盜賊李熊,鄴中之豪,而熊弟陸謀欲反城迎檀鄉。[四]或以告期,期不應,告者三四,期乃召問熊。熊叩頭首服,願與老母俱就死。期曰:「為吏儻不若為賊樂者,可歸與老母往就陸也。」[五] 使吏送出城。熊行求得陸,將詣鄴城西門。陸不勝愧感,自殺以謝期。期嗟歎,以禮葬之,而還熊故職。於是郡中服其威信。
(訳)
光武帝が即位すると安成侯に封じられ
食邑は五千戸であった。
この時、檀郷・五樓の賊が
繁陽・内黄へと侵入し、
一方で魏軍における名家が
幾度か反覆しており、
更始帝の将である卓京が
彼らを率いる事で
鄴での反逆を企てていた。
光武帝が銚期を魏郡太守、
行大将軍事に任命すると
銚期は魏郡から兵を徴発して
卓京を撃破し、
六百余の首級をあげた。
卓京が逃亡して山へ入ると
追撃をかけてその将校数十人を斬り
卓京の妻子を捕えた。
繁陽・内黄に進撃して
再び数百の首級をあげ
魏郡界隈はすっかり平定された。
督盗賊の李熊は
鄴内の豪右であったが、
李熊の弟の李陸が
反逆を企てて
城に檀郷を迎えてしまった。
或る者が銚期にこの事を告げたが
銚期は応じず、
報告が再三再四に渡ると
銚期はやっと李熊を召して諮問した。
李熊は口頭して罪を打ち明け、
老母とともに死ぬ事を願い出た。
銚期は言った。
「吏人となっても賊の楽しみには及ばぬ、
老母とともに帰り、李陸のもとへ往くのだ」
吏人を遣わして城へ送り出した。
李熊は訪ね求めて李陸と対面し
鄴城の西門へ向かおうとした。
李陸は慚愧の念に耐えられずに
自殺する事で銚期に謝罪した。
銚期は嗟歎し、
礼を以て李陸を葬ると
李熊をもとの職に戻してやった。
こうして魏郡中が
銚期の威信に服したのであった。
(註釈)
25年には劉秀が皇帝に即位。
この時31歳です。
岑彭らが洛陽を攻める一方、
銚期は魏郡にて更始帝の残党と戦い
幾多の首級を挙げる活躍を見せます。
部下の李熊の弟が
賊を内へ招き入れると、李熊が
「老母とともに死をもって償います」
と申し出てきた。
銚期の返答は意外にも、
「そりゃ役人になるより
賊になった方が楽しいのだろうさ。
お母さんといっしょに
弟のところへ行きな」
というものでした。
李熊は弟と面会して
恐らく銚期の意向を告げたのでしょう。
弟は恥じ入り、自殺する事で
銚期に謝罪の意を表明したのです。
銚期は弟を丁重に葬り
兄貴のほうもお咎めなしで
もとの役職に戻してあげたとさ。
銚期ってもっと
厳格な男だと思ってましたが
イメージがだいぶ変わりました。
註1.
安成,縣名,屬汝南郡,故城在今豫州汝陽縣東南也。
(訳)
安成は県名であり、
汝南郡に属している。
もとの城は現在
豫州汝陽県の東南である。
註2.
繁陽,縣名,故城在今相州內黃縣東北;內黃故城在西北。
(訳)
繁陽は県名であり、
もとの城は現在
相州内黄県の東北にあり、
内黄のもとの城は西北にある。
註3.
「京」或作「原」。
(訳)
京は原とする時もある。
註4.
反音翻。
(訳)
反の音は翻である
(註釈)
裴註に慣れちまったから
こーゆーの新鮮でおもろいわねぇ。
註2の相州という行政区分は
後漢初期にはまだ存在してないよ。
ウィキによると
北魏が401年に制定した。
五胡十六国時代の後の方ですね。
「新唐書」の39巻によると
内黄は本来相州の隷下であり
武徳四年(621)に繁陽県を分割して置かれ
黎州に属していたが
貞観元年(627)に省かれ以下略。




