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淡々後漢書  作者: ンバ
第十五、来歙伝
27/102

七、隴西に平穏を……

7.

初王莽世,羌虜多背叛,而隗囂招懷其酋豪,遂得為用。及囂亡後,五谿、先零諸種數為寇掠,皆營塹自守,州郡不能討。歙乃大修攻具,率蓋延、劉尚及太中大夫馬援等進擊羌於金城,大破之,斬首虜數千人,獲牛羊萬餘頭,谷數十萬斛。又擊破襄武賊傅栗卿等。隴西雖平,而人饑,流者相望。歙乃傾倉廩,轉運諸縣,以賑贍之,於是隴右遂安,而涼州流通焉。


(訳)

王莽の治世の初め、羌虜きょうりょの多くが背叛し、

隗囂かいごうはその酋豪を招いて懐附させ

かくて用を為すことが出来たのであった。


隗囂亡き後、五谿ごけい先零せんれいの諸種族が侵略を為し、

すべての砦が自ずから守衛しており

州郡は討伐する事が出来ずにいた。


来歙はそこで大規模な攻具の修復を行い

蓋延がいえん劉尚りゅうしょう、及び太中大夫の馬援ばえんらを率いて

進軍し、羌族を金城に撃ち、これを大破した。

首を斬ったり、捕虜とした者は数千人、

牛や羊数万頭、穀物十万斛を獲得した。


一方で襄武じょうぶの賊の傅栗卿ふぞくけいらを撃破した。


隴西は平定されたと雖も

人々は餓えたままであり、

流民は互いに(救済を)待ち望んでいた。


来歙はそこで倉廩を傾けて

(蔵の中の穀物を開放して)

諸県に転流、運搬させた。


これを賑贍した事で隴西は遂に安定し、

涼州まで流通した。


(註釈)

隗囂は西羌にある程度顔がきく人だった。

その死後、パワーバランスが崩れて

西涼の異民族が侵略を働くようになった。


南史によると「五谿ごけい」は、

雄溪、樠溪、辰溪、酉溪、武溪の総称。

五谿の蛮族は、又の名を武陵ぶりょうばん

光武帝が中興した時代は

特に活発だったそうです。


劉備が呉にカチコミかけた時に

従軍していた沙摩柯しゃまかなども

このコミュニティに属していました。


47年に相单程しょうたんていが武陵を侵略。

劉尚りゅうしょうの討伐軍が弾き返される。

48年になっても下せない。

49年に馬援ばえん馬武ばぶが出向いて

やっとの事で降伏させる事ができたが、

馬援が病に罹って亡くなってしまった。


話を32年に戻し、来歙は武備を整えて

金城と襄武(隴西方面)を平定。

倉を開放して飢餓していた

隴西の民衆をも救ってみせた。


出番は統一ロードの後半に限られるけど

ほんま来歙頼りになりすぎる!

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