六、天水を切り崩す
6.
歙因上書曰:『公孫述以隴西、天水為藩蔽,故得延命假息。今二郡平蕩,則述智計窮矣。宜益選兵馬,儲積資糧。昔趙之將帥多賈人,高帝懸之以重賞。今西州新破,兵人疲饉,若招以財谷,則其眾可集。臣知國家所給非一,用度不足,然有不得已也。』帝然之。於是大轉糧運,詔歙率征西大將軍馮異、建威大將軍耿弇、虎牙大將軍蓋延、揚武將軍馬成、武威將軍劉尚入天水,擊破公孫述將田弇、趙匡。明年,攻拔落門,隗囂支黨周宗、趙恢及天水屬縣皆降。
(訳)
来歙はそこで上書して述べた。
「公孫述は隴西・天水を藩屏としているために
命を長らえ、仮初めにも安息が叶っているのです。
今二郡を平蕩すれば、則ち
公孫述の智計は窮するでありましょう。
ますます兵馬を選り抜き
物資や糧秣を蓄積するべきです。
昔、趙の将帥には商人が多く
高皇帝はこれに重い賞与を懸けられました。
今、西州が破られたばかりで
兵士や人民は疲弊・飢餓しておりますから
もし資財や穀物を以て招いたならば
則ち、その多くを集める事が出来ます。
臣は国家の供給が一定しておらず
費用が不足している事もわかっておりますが
やむを得ません」
光武帝はこの意見に頷いた。
こうして大量の食糧が運び込まれ、
詔によって来歙は
征西大将軍の馮異、建威大将軍の耿弇、
虎牙大将軍の蓋延、揚武将軍の馬成、
武威将軍の劉尚らを率いて天水に入り、
公孫述の部将の田弇、趙匡を撃ち破った。
明年、落門を攻伐し、
隗囂の支党である周宗と趙恢、
及び天水郡に属する県は全て降伏した。
(註釈)
後漢初期は意外と国庫に余裕がありません。
戦ってばっかりだからね。
それを踏まえてなお天水と隴西に
穀物や物資を支給する事を決めた来歙。
ここは出費を払ってでも
公孫述の藩屏となる部位を
切り崩さねばなりません。
32年、来歙の據る略陽を
攻め取れなかった隗囂は撤退。
光武帝は親征に乗り出し、
5つの郡の太守を率いてきた竇融と合流。
後漢末期に宦官に消された
竇武の祖先です。
西城へと逃げていった隗囂を
岑彭と呉漢が攻囲し、
上邽まで進軍するも、下せない。
耿弇と蓋延も攻撃に加わるが
それでも落とすことができない。
光武帝が潁川郡の反乱鎮圧へ向かった折に
蜀の公孫述の援軍が現れてしまい、
呉漢たちはいったん長安へ撤退。
かくて隗囂は天水郡と隴西郡を再び接収、
恐ろしいほどの粘りを見せます。
と思っていたら、
33年の春に隗囂、ポックリ病死。
一応、生きてる間には
光武帝に隴西を渡しませんでした。
光武帝側も祭遵を失ってしまいましたが
何はともあれ、隴西の脅威が姿を消しました。
34年夏、光武帝は来歙に
馮異、耿弇、蓋延、馬成らを率いさせ
改めて天水・隴西の攻略に着手。
隗囂軍の残党の高峻は
安定に拠って反抗を続けていましたが、
寇恂が兵を動かさぬままに平定。
さすがという他ありません。
隗囂の遺児を担いでいた余勢も
来歙の攻撃を受けてついに降伏しています。
来歙、西州平定に八面六臂の大活躍でした。
しかし、ここで祭遵の軍勢を引き継いでいた
馮異までもが陣没してしまいます。
ふたりとも戦死でなく病死のようですが
祭遵、馮異と続けざまに
名将を失ってしまったのは大きな痛手です。
そして来歙も……。




