新しい暗号鍵は……
「し、……死んでる……?」
翌朝、暗号解読室を訪れたコゼットの第一声がそれだった。
地下室のただでさえ薄暗い室内。ランプはほとんど燃え尽きており、わずかに地上部に面している明かり取りの高窓から差し込む光が、なんとか屋内を照らしている。
そこにある光景は、まさに死屍累々というべきものだった。
残っていたメンバー5人はそのまま暗号解読に没頭していたらしく、今は全員が力尽きて床に転がっている。
よく見ればマルシオはペンを握ったまま倒れており、手元にある羊皮紙にはまるでダイイングメッセージのように、かすれた字で【GLORY】と描かれていた。
「あ、……あの~、みなさ~ん、朝ですよ~、生きてますか~?」
恐る恐るコゼットが声をかけると、そこかしこからゾンビのような呻き声があがる。
力尽きたまま固い床で寝落ちしていた面々は、軋む身体に苦悶の声をあげながらも、一人、また一人と起き上がってきた。
「……おはようございます」
「――んん、ああ、……そうだ、次はJの字を割り当ててみよう、……」
「もしもし、班長~? マルシオさ~ん?」
まだ寝ぼけたままのマルシオは、無精ひげも相まって冬眠から覚めたばかりの熊のようだ。
「はいはい、皆さん、おはようございます! 起きて下さい!」
部屋に入ってきたケネスが、ハーブティーの乗ったトレーをテーブルに置くと、パンパンと音をたてて手を叩く。
再び呻き声があがるものの、ケネスが一人一人にハーブティーを手渡していけば、唸りながらも口をつける。
ミントがたっぷり効いているのか、清涼感あふれる香りが室内に漂った。
半分ほど一気に飲み干したマルシオはようやく目が覚めたのか、コゼットの顔を見て改めて「あ!」と大きな声をあげた。
「コゼット嬢! 聞いてくれ! 暗号キーを見つけ出したんだ!」
その一言を皮切りにして、皆が一斉に喋りだした。
「そうなんです! キーを見つけ出しました!!」
「最初にきっかけを見つけ出したのは僕で……」
「いや、文字の法則に気付いたのは私が先だったぞ!」
身を乗り出し、一気にまくし立てる面々の間にケネスがさっと割って入る。
「はい、皆さん。そんな寝起きの顔で淑女に迫るのはやめましょうね。目が覚めたら顔を洗いに行ってください。あと着替えもして来てくださいね。……皆さん、ちょっと臭いますよ」
「こいつは努力の結晶で作った香水みたいなもんだ」
マルシオは低い声でぼやくものの、気になって自分の匂いを嗅いでいる。
そうして一人ずつ、まだ鈍い動きながらも部屋から出ていくと、洗顔と着替えを済ませ、こざっぱりとした顔で戻って来た。
「さて、改めて暗号キーに関してだが、今回のキーは【GLORY】である事が判明した!」
「皆さん、本当にお疲れ様です!」
コゼットが拍手して喜ぶと、マルシオは何故かドヤ顔で力こぶを作ってみせた。
みちっ、ブチッと、軍服の腕回りから不吉な糸の切れる音が響いたが、コゼットは聞かなかったことにした。
「だが、これは第一歩だ。前線に送る資料の作成、届いた暗号の解読、やる事はまだまだ沢山あるぞ!」
「皆さん、お疲れでしょうから、資料作成は私が引き受けます。それとマルシオさんはそろそろ一度、家に帰って下さい。ご家族が心配していますよ」
「まぁ、そりゃそうなんだが……」
「娘さんがいらっしゃるんでしょう? 私と歳が近いと伺いました。と言うことは、学園でも社交の場でも何かと大変な時期です。こういう時こそ出来るだけ家に帰って、せめてお顔だけでも合わせた方が宜しいかと思います」
コゼットの言葉に、マルシオが困り顔になりながらも深く頷いた。
周囲のメンバーも強く同意して頷いている。メンバーのほとんどは仕事人間で独身が多かったが、マルシオは既婚者で子供もいる。コゼットが認識している限りでも、もう一週間も家に帰っていなかったのだ。
皆に背中を押されるようにしてマルシオが送り出されると、それぞれが改めて仕事を開始する。
「先ほどはありがとうございました」
隣の席に座ったルーディが、小声で話しかけてきた。ルーディはかつてマルシオと同じ部隊に所属していた軍人だ。
マルシオが前線を退いた時に、共に引き抜かれたと聞いている。
「マルシオ班長は仲の良いご兄弟がいらっしゃるのですが、その方がリヴォルタ連合の捕虜になってしまっているのです。それ以来、どうも根を詰めすぎると言いますか、……ご本人も無理をしている自覚はあっても、何もしていないと不安になるようで」
「そう、……だったんですね」
暗号解読班のメンバーが、地下での過酷な仕事ながら和気あいあいとしていられるのは、マルシオの人柄に依る部分が多かった。
そのマルシオに秘められた思いがあったことを、コゼットは今まで知らずにいた。
「でも、だからこそ、マルシオさんのご家族も心配している筈です」
「その通りですね。ここは私達だけでも何とかなる事を証明してやりましょう!」
「それは頼もしいですけど、皆さんも昨日はほぼ徹夜だったんでしょうから、くれぐれも無理しないで下さいね」
コゼットの温かい言葉に、ルーディは嬉しそうに頷いた。
資料作成の仕事を引き受けたコゼットがふと気付いた時には、高窓から差し込む光が夕焼けに変わっていた。
あまりに集中しすぎたせいで、いつの間にか時間が経っていたようだ。
お昼ご飯に何を食べたかも記憶に薄い。多分、何かしら食べたのだろうが、その間も机に齧りついていたのだろう。
いつの間にか身体が凝り固まっており、肩を回すとコキコキと関節が軋む音がした。
「はいはい、お疲れさまですね」
顔をあげれば、そこにいたのはケネスだった。
「あ、ようやく目が合いましたね。先ほどまでは何度かお声かけしても空返事ばかりだったのに」
「ええ、そうでしたか? ごめんなさい」
「いえいえ、私は構いませんが、あまり根を詰めすぎないで下さい」
「分かりました。あと例題をいくつか作ったら終わりに……」
「――それは私が引き受けます」
コランが席から立ち上がって手を差し出した。
「え、でもコランさんは昨日も泊まり込みだったじゃないですか?」
「ご安心ください。今日はちゃんと帰ります。それよりもまだお若いコゼット嬢を遅くまで働かせる方が心配です」
「わ、若い分だけ元気ですよ?」
「存じ上げております。だからこそ、この暗い部屋だけに閉じこもるべきではありません。……コゼット嬢、我々の仕事は戦争を終わらせる事です。それはあなた方若者が豊かに安心して暮らせる世を作るためです。だからこそ、あなたの生活を戦争ですり潰したくはないんです」
コランの真摯な言葉に、皆がどこか照れくさそうな笑みを浮かべながら頷いた。
コゼットは驚いて瞬きする。正直、そこまで考えたことはなかったのだ。コゼットにとって暗号は時間を忘れて夢中で打ち込めるものだった。だが、ここのメンバーにとってそれは戦争を終わらせるためのものなのだ。
そして、救われるべき対象にはコゼット自身が入っている。
「……ありがとうございます」
コゼットが頭を下げると、早速ケネスが帰り支度に取り掛かった。
「いかがでしょうか。屋敷に戻る前にサロンに立ち寄って季節限定デザートを満喫するんです。実は、甘いと評判の桃が入ったそうで、そのコンポートが絶品だとか。私も是非食べてみたいのでお付き合い頂けませんでしょうか?」
「それは、……美味しそう」
コゼットが頷くとケネスも満面の笑みで頷いた。
美味しいデザート、華やかなサロンでの寛ぎのひと時。ふわふわと妄想していたコゼットは、半刻後、散歩と騙されて病院に連れてこられた犬のような顔になっていた。
(おのれケネス、謀ったなッ!)
フロアを彩る花々は戦時中とは思えぬほどに鮮やかで、風が吹くたびに甘い香りが柔らかく鼻孔を擽っていく。
ガゼボに置かれた丸テーブル、そこに並ぶ焼き菓子もこれまた花のように美しい。
時刻は宵闇が迫る頃合いだったが、あちこちに吊るされたランプのステンドグラスから溢れる光は幻想的な光景を作り出しており、夢の中にいるかのようだ。
だが、それらを全て弾き飛ばすほどの圧倒的な存在感――そう、目の前にいる男、ジェイド・アルフレートによって、空間そのものがまるで極寒の戦場に変わっていた。
コゼット以上に激務であるジェイドが、こんな場所に偶然居合わせるなどという事はありえない。すなわち、コゼットがここに来ると最初から知っていたのだ。
「暗号の新たな鍵を見つけ出したと聞いている」
「はい、あの、ええと……私ではなく、暗号解読班の皆さまが見つけ出しました」
「マルシオからは、お前が現場に来るまでは足がかりがまったく掴めず、手をこまねいていたとの報告を受けている。いかに優秀な兵であれ、難攻不落の城を前にすれば戦う術を見失う。お前の導きあってこそ僅かな綻びを見つけ出し、それを紐解くことが出来たのだ」
「きょ、恐縮です……」
コゼットは無言で紅茶を啜った。正直、紅茶の味もお菓子の味もいまいち分からないほどに緊張する。
「あの、それで、戦線の様子はいかがでしょうか。実際にお役に立てておりますか?」
「疑うべくもないことだと思うがな。ああ、だが言葉にする事こそ意味があるとよく父に言われたものだ。マイヤー男爵令嬢、質問の答えは“この上もなく”役に立っている、だ」
生きてる全てが舞台の脚本かと思うほど、とにかく台詞が回りくどい。
コゼットが返答に窮していると、ジェイドは優雅な所作で席を立った。
「先に席を立つ無礼をお許しいただきたい。あとはゆっくり楽しむといい」
「いえ、とんでもないです。ジェイド閣下におかれましては、お忙しいところお時間をとって頂き……」
「世辞は不要だ。では、失礼する」
「あッ!!」
呼び止めようと思わず声をあげると、ジェイドが足を止めて振り返った。
「如何した?」
「あー、ええと、その、……モラレス子爵令嬢のお話に関してなのですが」
「ああ、ケネスから話は聞いている。こちらの手勢で背後を探らせているところだ」
「その、ですね。そもそも私とモラレス子爵令嬢との不仲説が改善されれば、噂そのものの信憑性が薄まると思うのです。それで、モラレス家でお茶会を開いて頂いて、そこに参加して来るというのは如何でしょうか?」
ジェイドは思案する様子で色素の薄い碧眼を細めた。
「承知した。では、アルフレート家にて茶会を開催しよう。そこに件の令嬢を招くがいい」
「え!?」
「我が邸宅であればコンキスタドールも警備につきやすい。詳細は追って報告する」
「いや、あの?」
コゼットの知る限り、未だかつてアルフレート家の邸宅で社交茶会が開かれた事はない。
それが今になって突然開かれる事になれば、社交界の話題を独占することになるだろう。
あまりの大事に呆然としている合間にも、ジェイドはマントを翻して去っていった。
「う、っそ……でしょう? アルフレート邸で、お茶会……?」
「マイヤー男爵令嬢のドレスを急いで仕立てないといけなくなりましたね」
いつの間にかちゃっかり桃のコンポートを頬張っているケネスを、コゼットはジト目で睨みつける。
「いや、そうだけど、そうじゃなくて、ええええ!?」
何がどうしてこうなった?
呆然としたまま固まっていたコゼットは、やがて思考を放棄すると、残っていた絶品デザートをヤケクソ気味に味わう事に専念したのだった。




