初めての暗号解読班
暗号解読班員たちが詰める部屋は、帝都中央軍事司令部の地下に位置している。
機密を取り扱う事から仕方ないとはいえ、暗くかび臭い部屋だった。
壁を埋め尽くす本棚は重量で歪み、入りきらなかった資料が床にタワーのように山積みになっている。
「初めまして。コゼット・マイヤーと申します。本日付けで暗号解読班配属となりました」
飾り気の少ないシンプルなドレスの裾を持ち上げ挨拶するコゼットに、暗号解読班のメンバーはただただ戸惑っていた。
事前に「難攻不落の暗号を解いた新人が来る」とは聞いていた。
しかし目の前に現れたのは、どう見ても幼さの残る少女だったからだ。
コゼットは小柄な体躯のせいで、実際の15歳よりもかなり幼く見られることが多かった。
対して既存のメンバーは軍人上がりがほとんど。体力にも体格にも恵まれた男たちが、目を丸くして小さな少女を見下ろしている。大人と子供というより、猛獣の檻に小ウサギが迷い込んだような図だった。
「ああ、ええと……マイヤー男爵令嬢。私がここの班長を務めるマルシオだ。マルシオと呼んで貰って構わない」
前に進み出て来たのは、メンバーの中でも一際厳めしい風貌の男だった。
元は前線の猛者だったが、足の怪我で後方に退いたとケネスから聞いている。圧迫感のある巨躯だが、態度は柔らかく、新参のコゼットを怖がらせまいと無意識に猫背になっている。
「では、マルシオさん。私のこともコゼットとお呼び下さい」
「ふむ、ならばコゼット嬢で構わないだろうか?」
「はい!」
コゼットが元気に頷くと、他のメンバーも順々に自己紹介を始めた。
懸命に名前と顔を覚えていく。メンバーはコゼットを含めて6人。4人が騎士科出身の無骨な軍人で、たった1人だけが言語学の専攻だった。
(――暗号解読に『数学』が組み込まれたのは、前世の世界でもかなり近代になってからだったはず)
コゼットは前世の記憶を遡る。
中世あるいは近世において暗号解読とは、軍の運用や陣形に熟知した軍人による「文脈からの推測」か、言語学者による「文字頻度分析」が主流だった。
数学は天文学や測量、商業計算に使うものであり、暗号とは無縁だと思われていたのだ。
だが、その「経験則」と「言語学」の限界こそが、この【ヴィジュネル暗号】なのである。
「コゼット嬢、早速だが……貴女の言う“ヴィジュネル暗号”について、もう一度詳しく説明して頂けるだろうか?」
「はい! 勿論です!」
コゼットが大きく頷き解説を始めると、流石は専門の解読班、上層部の重鎮たちよりも遥かに鋭い質問が飛んできた。
だが、その応酬はむしろ互いの距離を急速に縮めていくものだった。
相手を打ち負かす論破ではない。
未知の理論を噛み砕き、正しい解へと突き進む、――純粋な探求心による知識のラリー。
黒板に書き連ねられる数式と暗号文の分解手順に、男たちが一様に感嘆の息を吐いた。
「いや、はや……驚いたな。まるで数か月苦しんでいた便秘が、すぽーんと解消した気分だ」
思わずマルシオが零した一言に、言語学専攻のコランが慌てて咳払いをする。
「マルシオ殿、女性の前でなんという表現を!」
「いや、すまん! その……なんだ、喉に刺さっていた大釘が抜けたような」
「せめて魚の小骨にしてください!」
囁き声で必死に悲鳴を上げるコランの器用さに、コゼットは思わず噴き出した。
続けてコゼットが、鍵の長さを特定する『カシスキー・テスト』と、暗号のランダム度を確率で弾き出す『重複指数』の理論を展開すると、メンバーの目はさらに輝きを帯びていく。
最初にあった戸惑いは消え去り、まるで初めて昆虫図鑑を開いた少年のように身を乗り出して聞き入っている。
「なるほど! 周期ごとにグループ分けして統計を取れば、消えていた頻度分析が復活するのか! 今まで漠然と感じていた違和感が、すべて説明できる……!」
マルシオが興奮で大きな手を打ち鳴らした。
知識とは、快楽だ。
視界の霧が晴れ、世界が一変する感動に、男たちの心が激しく震えていた。
暗号解読班の猛者たちは、一瞬にしてこの小さな「数学の天才」の虜となったのである。
かくしてコゼットの配属初日は、大成功のうちに幕を下ろしたのであった。
意気揚々と屋敷に戻ったコゼットを待っていたのは、ジェイドによる圧迫面接であった。
……いや、相手はジェイド一人なのだが、その一人だけでも数人分の圧がある。
まず、顔がいいのだ!
断言しよう。良すぎる顔は圧が強い。
彫刻のように無駄のない顔立ちと、黒地に金の飾りが映える軍服の威厳。
これは全人類の共通認識だと思うのだが、あまりにも顔がいいとそれだけで人を威圧する。
顔面戦闘力とでも呼ぶべきか。
面と向かい合っただけで味わうことになる、意味不明な敗北感。
同じ空気を吸っていていいのだろうかと不安になる。
客間の机には淹れたばかりのハーブティと、色鮮やかなお菓子が並べてあるものの、とても手を伸ばす気にはなれなかった。
「今日は、勤務初日だと聞いている。何か問題はなかったか?」
え、パパかな?
思わず口に出しかけて、既のところで息を飲んだ。
いや、普通か。自分が推薦した相手がなにか問題行動を起こしていないか心配していたに違いない。
「は、はい、その、問題は起こしていません! ……多分!」
力強く言い切ったあと、ちょっとだけ自信がなくなった。
「マルシオからはお前の聡明さに驚かされたと聞いている。ただ、ご令嬢を驚かせてしまったのではないかとも懸念していた」
「もしかして皆さんの便秘解消に貢献できた話でしょうか?」
「…………、…………、……待て、何の話だ?」
ハーブティーのカップに伸ばしかけていたジェイドの美しい指先が、ピタリと空間で停止した。
この人でもこんなに間が開く事があるんだなと、妙な所に感動する。
何せジェイド・アルフレートと言えば、徹底した実力主義と、血の色が青いとまで言われるほどの冷血漢として知られている。
彼の率いる辺境部隊のコンキスタドールは、影では死神部隊とも言われるほどだ。彼らの姿を見た敵軍はその場で死を覚悟し、神に祈りを捧げるそうだ。
戦略は繊細にして大胆、苛烈にして無慈悲。
ジェイドが攻め入った地は、その場所が地図から消されると言われている。
「ええと、その、便秘というか何というか、マルシオさんの喉に刺さっていた大釘が抜けたと言いますか」
「――たとえ話です」
助け舟を出したのは背後で控えていたケネスだった。
「マルシオ卿は暗号の解を得た際に、喉につかえていた小骨が抜けたようだという表現を、最初その、……別のものに例えまして」
「……………」
ジェイドの麗しいご尊顔に盛大に皺が寄ったが、出て来た言葉は「そうか」であった。
「マルシオには、言葉を選ぶようよく言い含めておく」
「いえ! 別に全然気にしてないですよ! 皆さんとても優しくて、和気あいあいと楽しめました!」
「……お前がそう思うのであれば構わないが、かりにも嫁入り前の令嬢に対してそのような下品な言い方をするのは軍規の乱れとも言えるだろう。言葉とは使い方を誤れば剣にもなり、火種にもなる。ゆえに、我ら軍人は戯れの一言であろうとも無碍にすべきではないだろう」
「さ、……左様でございますね」
やりにくい! コゼットは脳内で思わず叫んだが、表面上は淑女の笑顔で取り繕う。
「さて、私からの話は以上だ。何かあればそこのケネスに告げるといい」
ジェイドは鉄面皮のまま会話を終わらせると、音もなく席を立ち上がった。
慌てて席を立とうとするコゼットを手を翳して制し、マントを翻して去っていく。
ドアが閉まると同時にコゼットは盛大に息を吐き出した。
「こ、……怖かった」
「いえいえ、そんな。ジェイド様は皆が言うほど恐ろしい方ではないですよ。……基本的には」
「基本的には!?」
ケネスのフォローは最後の一言で不穏が混じり、コゼットは思わず聞き直す。
「少なくともマイヤー男爵令嬢に対しては非常に友好的と言いますか、なんと言うか……」
「あ、あの、ケネスさんも良かったら、コゼットとお呼び頂けますか? あまり他人行儀だと緊張してしまって」
「あー、いや、それは私の首が危なくなるかもしれないので、……」
あからさまに視線を逸らすケネスに、コゼットは不思議そうに首を傾いだ。
その様子にケネスはお道化た様子で肩をすくめる。
(ジェイド様、マイヤー男爵令嬢はなかなか手ごわい相手ですよ)
そんな風にケネスが心の中で苦笑しているなどとは、コゼットも、そしてジェイドも、まるで想像していなかった。




