恋に落ちた一人の男
帝都に戻ってわずか二日後。コゼットは再びサン・ミゲル湾へ向けてトンボ帰りを決めていた。
今度は馬車ではない。ケネスを伴い、早馬を駆っての強行軍だった。
領地での田舎暮らしが長かった恩恵が、まさかこんな場面で発揮されるとは思いもよらなかった。コゼットは乗馬が得意中の得意であり、疾風のごとく駆け抜ける馬の上でも、バランスを崩すことなく手綱を握り続けることができたのだ。
そうしてたどり着いた、サン・ミゲル湾の海軍本部。
目的の一室の前に立ったコゼットは、息を整える間もなく勢いよくドアを押し開けた。
「ジェイドさんッ!!!!」
淑女の嗜みなど、今のコゼットには知ったことではない。
半ば突撃するように部屋へ雪崩れ込み、……その視線の先で、ジェイドが驚いたように立ち尽くしていた。
まだこの場に到着して間もないのだろう。胸甲は脱ぎ捨てていたものの、衣服は泥と煤に汚れ、あの美しい銀髪も乱れていた。
――だが、生きていた。
「ジェイドさん……ジェイドさんッ!」
「待て、コゼット嬢」
感極まって駆け寄ろうとするコゼットを、ジェイドは慌てて手で制した。
直前で足止めを食らったコゼットは、ハッと顔を蒼白にする。
「まさか……お怪我を!?」
「いや、幸いにして傷らしい傷は負っていない。だが……その、湯あみもまだ済ませておらず、潮と汗の臭いが……」
続く言葉を耳にした瞬間、コゼットは猛然と足を踏み出した。
思わずたじろいで一歩下がろうとするジェイドの胸元へ、両手で勢いよく抱きしめる。
「良かった……! 無事で、本当に良かった……っ!」
「コ、……コゼット嬢、あまり強く抱きつくものではない。服の汚れも臭いも移ってしまう」
「そんなこと! どうでもいいです!! 私は納屋でだって平気で寝られるくらい逞しいんです!」
「――納屋?」
「これくらい、何でもありません! 本当に……汚れなんてどうでもいいんです。ジェイドさんが無事なら……無事でいてくださったなら、それで……それで……っ」
「コゼット嬢……」
戸惑いを見せていたジェイドだったが、己の胸の中で健気に震える小さな身体と、その確かな体温の温もりに触れ、深く安堵の息を吐き出した。
そっと回された腕が、コゼットの背中を包み込む。
部屋の入口では、主の無事を見届けて胸を撫で下ろしたケネスが、気配を完全に消してこそこそと廊下へ退散していった。
静まり返った二人きりの部屋で、コゼットとジェイドの心音は、互いの体温を通じて同じリズムを刻み込んでいく。
「……お前がディエゴに掛け合い、画期的な作戦を提示して私を助け出してくれたと聞いている。本当に……助けに来てくれたのだな」
「はい……本当は要塞まで乗り込んでお助けしたかったくらいですけれど、そこは我慢いたしました」
「……思いとどまってくれて何よりだ」
ほんの少しだけ抱擁を緩め、コゼットは間近からジェイドの顔を見上げた。
疲労の色が色濃く滲んではいるものの、溜息が出るほどに整った美しい顔立ちに変わりはない。
「ディエゴ提督が『しばらく海の上にいると髭を剃る暇もない』とおっしゃっていましたが、ジェイドさんはほとんどお変わりありませんね」
「……それについては、多少気にしているところなのだが」
「髭が生えてこないことですか?」
「まったく生えないわけではない。ただ、見ての通り私の髪は色素が薄く、一本一本が細いものでな」
「もしかして、私が想像しているよりも遥かに気にしていらっしゃいます? いいじゃないですか、とても美しくて素敵ですよ?」
「……お前がそう思ってくれるのであれば、それでいいが」
眉間に微かなシワを寄せたジェイドの顔に、コゼットが思わずクスクスと笑い声を漏らすと、ジェイドはますます拗ねたような表情になった。
「ふふ、引き留めてしまってすみません。湯あみをなさる途中でしたね。さっぱりしてきてください」
「ああ、そうさせてもらおう。……ディエゴがささやかな晩餐会を用意すると言っていた。そこで改めて、ゆっくり話そう」
「はい! お待ちしておりますね」
その晩、海軍本部で開かれた晩餐会は『ささやか』どころか、実に熱気あふれるものだった。
大広間に持ち出された巨大なテーブルには、様々な海の幸が山のように並べられている。
大きな海老や貝、魚をそのまま豪快に焼き上げたものや、素材の旨味が濃厚に溶け込んだブイヤベースが湯気を立て、海軍には欠かせないレモンやオレンジといった柑橘類も籠に溢れんばかりに盛られていた。
地下倉庫からは、長年熟成された最高級のラムやブランデーが惜しみなく持ち出されている。
晩餐会の主役は、無事に要塞から脱出を果たしたジェイドを筆頭とする『コンキスタドール』の騎士たちだったが、作戦に参加した元海賊や海軍の兵士たちも当然のごとくその恩恵にあずかっていた。
普段は立場を重んじて自身を厳しく律しているケネスも、今日ばかりは無礼講とばかりにラム酒のグラスを傾け、心地よさそうにほろ酔い気分に浸っている。
一方で、大酒を喰らうだろうと思われていたマスティノは、意外にも「酒の味が好かねぇ」と低くぼやきながら、新鮮なオレンジに丸ごとかじりついていた。海上の暮らしが多い海軍や海賊は、その期間が伸びるほど水を飲める機会は激減する。保存が効く酒を水の代わりに消費せざるを得なくなるため、マスティノのように酒の味に飽き飽きしている者もいるのだろう。
主催であるディエゴは自ら大ナイフを振るい、魚や海老、極上の生ハムを切り分けて皆に振舞っており、その周囲には人だかりができている。
やがて酒に酔った海賊たちが陽気な航海歌を歌い出し、晩餐会は一層の盛り上がりを見せていく。
そんな熱気と喧騒の中、コゼットとジェイドは二人静かに、バルコニーから夜の海を眺めていた。
頬を打つ夜風は冷たかったが、屋内の熱気にあてられた身体には、むしろ心地よくすら感じられる。
「本当に……ご無事で良かったです」
「ああ……。正直に言えば、あの地下洞の暗闇に身を潜めていた間は、あまりにも長く感じられた。昼か夜かも判らず、洞窟に反響する波の音は、浅い眠りの中にまで容赦なく押し寄せてくる。……だが、私は信じていた。
騎士としては不甲斐ない話だがな。お前が『必ず助けに行く』と言ってくれた言葉が、私の胸の中で確かな灯火となって、ずっと燃え続けていたのだ」
「私も、信じていました。貴方が絶対に生きていらっしゃる、と」
コゼットは、ジェイドのアイスブルーの瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
視線が重なれば、氷の如く静まり返っているその瞳が、微かに熱を帯びて揺らぐ。
「……でも、ずっと不安でした。だから、こうして貴方が生きて戻ってきてくださって……心の底から、幸せなんです」
真っ直ぐに向けられる眼差しに、ジェイドは息を呑み、圧されるようにたじろいだ。
「以前、お前はこんな風に言っていたな。周囲を巻き込む前に、しっかりと口説き落とせ、と。あの時も熾烈な戦いになるものと覚悟していたが……予想以上に厳しいものだな。お前はいつも、私が伝えたい言葉を先回りして言ってしまう」
「そんなつもりはなかったのですが……」
困り顔を浮かべるコゼットに、ジェイドもまたどう言葉を紡ぐべきか真剣に悩んでいる様子だった。
これがディエゴであったなら、百でも千でも、呼吸をするように甘い言葉を並べ立てることができるのだろう。
だが、ジェイドはたった一言を紡ぎ出すことすら、不器用なまでに苦心している。
その佇まいはあまりにも誠実で、そして……たまらなく愛おしかった。
「では、私から口説きますね。――ジェイドさん、戦勝祝賀会では、私とファーストダンスを踊ってください」
そっと右手を差し出して告げるコゼットに、ジェイドは緩やかに目を瞬かせた。
そして、愛おしそうにその右手に自身の手を重ねると、指先にそっと唇を寄せ、柔らかく触れさせた。
「では……セカンドダンスも、私と踊ってくれるだろうか?」
アイスブルーの瞳が、切ないほどの熱を帯び、灯火のように淡く揺れる。
そこにいるのは、冷徹と恐れられた辺境将校などではない。
ただ――恋に落ちた、一人の男だった。
「ええ、ジェイドさん。私の……生涯のダンスパートナーになってください」
重ねた手をぎゅっと引き寄せ、コゼットは凛とした声で言葉を返した。
それは、ジェイドの心を深く、鋭く、そしてどこまでも甘やかに貫いた。
ジェイドは大きく息を呑み、言葉を返そうと薄い唇を震わせる。
――だが、それが音になるよりも早く、彼はまるで腰が抜けてしまったかのように、その場にへなへなと崩れ落ちた。
「え、ちょ……! ジェイドさん!?」
慌ててしゃがみ込んだコゼットの前で、ジェイドはまるで子供のように両手で顔を覆い、小さくなっていた。
指の隙間から覗く耳や頬は、薄暗がりの中でさえはっきりと判るほど、鮮やかな薄紅色に染まっている。
(う、嘘でしょ……!? 『冷徹辺境伯』なんて呼ばれているジェイドさんが、こんなにも初心だなんて……!)
そのあまりにも愛らしい反応に、コゼットの心臓も早鐘を打ち始める。
ジェイドは顔を覆ったまま、けれど必死に震える声を絞り出した。
「ああ……。喜んで、お前の生涯に寄り添わせてくれ」
コゼットはゆっくりと両手を伸ばすと、ジェイドの顔を隠す手を優しく外し、改めて真正面から向き合った。
「もう一度、私の目を見て言ってください」
「……ッ、……お、お前の生涯に……寄り添わせてくれ」
「ええ、ジェイドさん。喜んで」
晩餐会のテーブルに並んでいた茹で海老よりも真っ赤になったジェイドを、コゼットは愛しさを込めて、力いっぱい抱きしめるのだった。




