ホットワインをどうぞ
コゼットは、海軍本部の邸宅のバルコニーから夜の海を眺めていた。
頬を撫でていく海風は冷たく、真っ暗な海岸線はどこまでも続いているかのようだった。
空は薄曇りで、星の光すらない。寂しく冷たい、冬の海の光景だ。
(もしかして、今世で海を見るのは初めてだったかもしれない……)
ザザーン、と。
寄せては返す波の音を聞きながらぼんやりと思考を巡らせていると、背後から微かな衣擦れの音が響いた。
振り返れば、そこに立っていたのはマスティノだった。
「…………あ゛?」
目が合った瞬間に威嚇された。
いや、もしかすると彼なりの挨拶のつもりなのだろうか。
「ええと……こんばんは、マスティノさん」
恐る恐る挨拶を投げかけると、マスティノはただフンと鼻を鳴らした。
何かを言うわけでもなく、けれどそこを立ち去る風でもない。二人の間に、波の音だけが静かに響いていく。
「あの……もしかして、心配して見に来てくださったんですか?」
問いかけても、やはり言葉は返ってこない。けれど、そこに静かに佇む圧倒的な存在感が、段々とコゼットの胸で温かな安堵へと変わっていく。
「ふふ……ありがとうございます。実はちょっと……寂しかったんです。ジェイド閣下が行方不明だと聞いて、とにかく動かなくちゃって思って……何もしないと不安で押し潰されそうだったから、がむしゃらに走って、ここまで乗り込んできて。
……だから、動いている間は平気だったんです。でも、こうしてふと足が止まると、不安が込み上げてきてしまって」
「――ああ」
マスティノは、静かに一度だけ頷いた。
「ジェイド閣下は強いお方です。そう簡単に負けるはずがない。連絡がないのは無事な証拠だって、そう信じています。なにより、私が泣きそうな顔をしていたら皆さんが心配してしまう。まだ何も決まっていないのに、暗い顔なんてしていられません。だから、しっかり前を向いていようって……昼間は、ちゃんとできるんです。でも、夜になると……どうしても、ダメで」
溢れ出る感情を吐露しているうちに、急速に瞼が熱を帯びていく。
絞り出す言葉の一つ一つが喉につっかえて痛みを帯び、声が震えて止まらなくなった。
「無事だって……信じているのに……悲しむのは違うって……分かっているのに……っ」
堪えきれなくなった涙が、ボロボロと溢れ落ちた。
「おい……」
マスティノは低く唸ると、自分が羽織っていたマントを脱ぎ、それでコゼットの小さな肩を包み込んだ。
貴婦人が身につけるような柔らかな絹ではない。分厚く、使い込まれた革と潮の匂いがする無骨なマントだった。
その不器用な優しさに触れた瞬間、コゼットの涙腺は決壊した。
「ぅ……うううう、ひっく……ふえ、……え~~~~~ん! ひっく、うううううううッ!」
「お、おい……待て、お前……っ!」
激しく泣き出したコゼットに、マスティノは完全にたじろいだ。
どう接していいか分からない。幼い頃から人を殺めることに何の躊躇いもなく、その身を凶器に変えて生きてきた男だ。そんな巨漢が、目の前でボロボロと泣きじゃくる幼い少女を前に、ただひたすら狼狽えている。
「おやおや、何をしているんだい、マスティノ」
そんなマスティノの背後から、呑気で甘やかな声が響いた。
腕を組み、ニヤニヤと笑みを浮かべて立ち尽くしていたのはディエゴだった。
「コゼット卿を泣かせるなんて。もしジェイドの耳にでも入ったら、さすがの俺も庇い立てはできないぞ?」
「……ッ、俺じゃねぇに決まってんだろうが! 何とかしろ、色男ッ!」
「はいはい。……コゼット卿、いや――コゼット嬢。ここは冷えるから中に入ろう。それから、温かいホットワインでも飲まないか? なかなかに良いワインが入っていてね。そこに果物をたっぷり入れて、蜂蜜とシナモンを効かせて飲もうじゃないか」
傍らに歩み寄ってきたディエゴは、コゼットの肩をマント越しに優しく抱くと、部屋へ向かうよう静かにエスコートする。
コゼットはしゃくりあげながらも、大人しくその温もりに身を委ねて頷いた。
「別に、泣いていたって構わないさ。君がどれほど頑張っているか、ここにいる皆が知っているのだから」
「……うう、はい……ありがとう、ございます……」
「お安い御用さ。さぁ行こう、お嬢さん」
その砂糖のように甘く優しい響きに、今だけは甘えさせてもらうことにした。
そうして部屋へ戻ったコゼットは、甘い果実の香るホットワインを作ってもらい、その晩はすっかり泣き疲れて泥のように深い眠りについたのだった。
翌日。午前中は海軍が入手した暗号の解読に励み、息抜きに部屋を出た時のことだった。
サン・ミゲル港は帝都よりも『モンテ・マル要塞』に近い。自然と、要塞周辺で飛び交う指令書を見る速度も早くなる。しかし要塞内には目立った動きはないようで、報告は事務的なものに留まっていた。
場所を移したというのになかなか状況は好転しない。そんな鬱々とした気持ちを引きずっていたコゼットは、広間から響く聞き覚えのある華やかな笑い声に驚いて足を止めた。
慌てて廊下を走り抜けると、そこにいたのは想像通り――フランチェスカとビクトリアの姿だった。
急遽用意されたテーブルを囲み、二人は実に楽しそうにお喋りに花を咲かせている。
「フランチェスカ嬢、ビクトリア嬢!」
コゼットが駆け寄ると、二人はパッと顔を輝かせて振り返った。
「コゼット嬢! 良かった……思ったより顔色がいいわ」
「わたくしたち、とても心配しておりましたのよ」
立ち上がった二人は、傍らまでやってきたコゼットを優しく、包み込むように抱きしめた。
「さぁ、座って頂戴。貴女が大好きなレモンクッキーを沢山持ってきましたの」
「フランチェスカ嬢、今はちょうどお昼時ですわ。こちらに白パンとハムも持ってきましたから、たっぷり召し上がってくださいね」
広間のテーブルには、二人の言葉通り色とりどりのお菓子や豪勢なランチが並んでいた。
促されるまま席に着きつつ、コゼットは二人に問いかける。
「お二人とも、いったいどうやってここへ……?」
「ふふふ、実はね、我が商会にディエゴ提督からお菓子の注文が入りましたのよ」
ビクトリアはそう語りながら、パンに厚切りハムを挟んで手渡してきた。コゼットは大人しくそれを受け取り、大きく口を開けてかぶりつく。
港町では塩漬けの魚や干し肉が中心だったため、帝都流のハーブをきかせたハムは格別に美味しく感じられた。
「これまでも我が商会は海軍から食料や布などの注文を受けておりましたわ。ですが、お菓子など初めてのこと。それも『できる限り急ぎで』とありましたの。それで、わたくしピンと来ましたのよ。
この注文は、コゼット嬢が海軍本部にいらっしゃるということを密かに伝えるためのメッセージなのだと。
……すぐにフランチェスカ嬢にもご連絡を差し上げましたわ」
「ええ。わたくし、ビクトリア嬢からお知らせを受けて、すぐに父へ確認いたしましたの。はじめは『自分も行きたい』だなんてごねておりましたけれど、貴女がここに無事でいることを認め、わたくしが会いに行くことも許可してくださいましたのよ」
「……二人とも、それで大急ぎで来てくださったんですか?」
大きな瞳をさらに零れそうに見開くコゼットに、二人の令嬢は穏やかに頷いて見せた。
「わたくしたちが駆けつけたところで、コゼット嬢ほど直接お役に立つことはできないでしょう。けれど、商人たちの噂話ならいくらでも耳に入りますし、この港への物資の流通を優遇することだってできますわ」
「ええ、わたくしの商会でも、運輸ギルドの荷に紛れ込ませて兵や武器を運ぶことでしたら協力できますもの」
「それは……本当に、頼もしすぎます……!」
コゼットが頭を下げると、令嬢たちは軽やかに微笑んだ。
実際、彼女たちが運び込んだ資材は急ごしらえとは思えないほど充実している。それに加え、商人たちの網羅する情報網は、帝国軍の諜報部隊すら凌駕するほど強力なはずだ。
「そうそう、わたくし、とても興味深い話を耳に挟みましたの。グラン・アルスターからの密輸船はラーガ港を経由しているらしいのですが、どうやらそこにオロスコ伯爵が噛んでいるようなのですわ」
「……オロスコ伯爵って、カパルディ元帥の御親族ですよね?」
「ええ、そうですわ」
開いた扇で口元を隠すビクトリアの瞳が、楽しそうに細められる。
本当に、恐ろしいほどの情報網だ。
優雅で品格あふれる立ち振る舞いを見せる二人の令嬢――だが、その完璧な淑女の佇まいは、ある人物の登場によって一瞬で崩れ去ることになる。
「挨拶が遅れてしまい申し訳ない。ディエゴ・アゾールだ」
ふいに現れたディエゴは、いつもの“お行儀の良い”笑みを浮かべると、胸に手を当てて優雅にお辞儀してみせた。
その瞬間、フランチェスカはまるで喉元に刃を突きつけられたかのように「ヒュッ」と息を呑み、ビクトリアもティーカップを掲げたまま完全に時が止まった。
「大したおもてなしもできず恐縮だが、心から歓迎しよう。君たちのおかげで、海軍本部に大輪の花が咲いたようだ」
ふわりと微笑むディエゴの顔の良さたるや、まさに極上の薔薇が咲き誇ったかのようだった。
同じ美しい男でも、常に仏頂面で隙のないジェイドとは真逆の至高のファンサービスである。ディエゴにとって、この圧倒的な美貌すらも戦術兵器の一つなのだろう。
(美形って怖い……。そして、それを自覚して武器にする男はもっと怖い……!)
静かにお茶を啜りながらコゼットが冷や汗を流す前で、令嬢二人は全身を硬直させたまま、首だけをコクコクと必死に動かしていた。
そんな中、ふと見れば控えていたマスティノが、あまりにも分かりやすく盛大に顔をしかめていた。
まるで、騙されて苦い薬を与えられた大型犬のような顔である。
そこまではコゼットも想定の範囲内であったのだが。
すぐそばでロドリゴまでまったく同じ顔をしていたのには、……流石に耐え切れずに思わず噴き出したのだった。




