認証付き暗号
「――本物の暗号を見抜くための『鍵』が分かった気がします」
暗号解読室に籠り切りになって三日目。
コゼットが発した言葉に、解読班のメンバーは期待に満ちた様子で顔をあげた。
しかしコゼットは眉間に皺を寄せ、「ただ」と言葉を続ける。
「ただ、……『鍵』が分かっても、まだ見分けがつかない状態なんです」
「どういうことだ?」
マルシオが不思議そうに問いかけると、コゼットは椅子から立ち上がり、大黒板の前へ歩み寄った。チョークを手に取り、大きく文字を書きつける。
【XXVth day of October】
「今回届いた暗号文は、微妙に表記のブレがありました。通常、暗号文は誤読を防ぐため表記を極力統一するものです。実際、今までの暗号文――例えば『鷹の門』襲撃の際の“日付”表記は、すべてこの形式で統一されていました」
コゼットは暗号解読班の面々を振り返った。
「ところが、今回の暗号文は日付の記載にかなりの揺らぎがあるんです。
まず、以前と同じ【IVth day of December】という古風で格式高い表現。これと並んで、よく似ていますが【day】を抜いた【IVth of December】という表現が使われています」
コゼットのチョークが、カツカツと快い音を立てて黒板を滑る。
「さらに……【of】も省いた【IVth December】、そこから【th】を省いた【IV December】、挙句には【December】を略した【IV Dec】まで存在します」
暗号解読班のメンバーは手元の解読紙を慌ただしく確認し合い、「本当だ……」と小さく息を飲んだ。
「まだあります。月を先頭に持ってきた【December IVth】【December IV】【Dec IV】まで混じっているんです。流石にこれほどの揺らぎを放置するとは考えにくい。故意にやっていると見るべきです」
「つまり……その表記の差こそが、今回の【鍵】というわけか!」
マルシオが大きな手を「ぽん」と鳴らすと、コゼットは深く頷いた。
「十中八九そうでしょう。例えば『日付が先なら本物、月が先なら偽物』といった分類規則を設けているのだと思います。
ただ問題は……その『正解のルール』が何なのか、現時点では特定できないことです。【day】を含まないものは全て偽物かもしれない。あるいは【Dec】と略されているものだけが偽物なのかもしれない……」
コゼットが言葉を重ねるにつれ、解読班の部屋に重苦しい沈黙が広がっていく。
さきほどまで身を乗り出していたマルシオも、見る見るうちに背が丸まり、熊のような低い唸り声を漏らし始めた。
「鍵の存在が分かっても、扉が開けられないということか……」
「そうなんです。日付の表記で真偽を見極めていることまでは突止められた。ですが、決行の日付が先である以上どれが『真のルール』なのかの証明が届かない。そして届いた時にはもう遅い」
「獲物が目の前で尾を振っているのに、手が届かんとはな」
「……ですが、完全に手詰まりというわけではありません。ある程度の目安をつける方法はあります」
「本当か!」
丸まっていたマルシオが、弾かれたように跳ね起きる。
「はい。あくまで『確率の高い推測』にとどまりますが。
まず、日付の表記パターンごとに暗号文を分類します。もし、異なる表記の書類から『まったく同じ作戦内容』が出てきた場合、その情報はダミーである可能性が極めて高い。そしてダミー文に使われていた表記ルールそのものも、偽物として除外できます」
コゼットは黒板の文字をいくつか斜線で消しながら説明を続けた。
「もちろん、絶対とは言い切れません。手に入る暗号文の数に偏りがあれば、統計的なエラーが出るリスクは残ります」
「なるほどな。連合軍の暗号をすべて傍受できているわけじゃない。手元の標本数が少なければ、偏りが生じるのも無理はない」
「ですが、試す価値は十分にあります。例えば、特定の機密情報が【day】を含む表記の書類からしか出てこないのだとすれば、それは偶然にしては出来過ぎていますから」
「ふむ……指をくわえて待つより100倍いい! よし、すぐに分類作業に取りかかろう!」
暗号解読班が徹夜で作業を続けた結果、ある程度信頼性の高い情報を精査することは出来た。しかし、それが100%であるという確証までは至れなかった。
最終的に、帝国軍側が優先して防衛すべき拠点は二つまで絞り込まれることとなった。
陸上の要衝である『モンテ・マル要塞』。そして、海軍の重要拠点である『サン・ミゲル港』である。
しかし、それ以上に巨大な懸念点が残されていた。
――言わずもがな、グラン・アルスター王国の存在である。
彼らがどれほどの戦力を投入してくるのかが、いまだ見えてこないのだ。
グラン・アルスターは海洋大国である。彼らが動くとなれば、圧倒的な大艦隊によって帝国の海上を封鎖し、大規模な海戦を仕掛けてくることは容易に想像できた。
対する帝国海軍はディエゴ・アゾールが迎え撃つことになるが、単純な数の比較では圧倒的に不利であった。
もし敵の真の狙いが『サン・ミゲル港』であり、そこにグラン・アルスター海軍が総力を挙げて押し寄せるとなれば、戦況はきわめて厳しいものになる。
「となれば、連合軍の狙いはやはり『サン・ミゲル港』と見るのが妥当でしょうな」
軍部最高会議室にて、将校の一人が重々しく言葉を落とした。
その声に、列席した面々が深く頷き合う。
「そうでなければ、グラン・アルスターがこの土壇場で参戦してきた理由が説明つきません。ここで一気に『サン・ミゲル港』を壊滅させ、我らが誇る海上戦力を奪い去るのが奴らの本命と考えるべきです」
軍部トップであるカパルディも、敵のターゲットが『サン・ミゲル港』であると断定して同意を示した。
その“標的”として名指しされたディエゴは、今日もまた穏やかな笑みを浮かべ、優雅に足を組んでいる。
狙われているのが自身の首であると突きつけられて尚、どこか他人事のようにその状況を楽しんでいるかのようである。
「しかし」とカパルディ元帥が言葉を続ける。「万が一を考えれば『モンテ・マル要塞』の防衛も疎かにはできまい。よって、主力部隊を『サン・ミゲル港』に集結させて港湾を死守。ジェイド・アルフレート辺境伯率いる部隊には、『モンテ・マル要塞』の死守を命じる」
「――拝命いたしました」
ジェイドが迷いなく頷く姿を見つめながら、コゼットの胸中には重い暗雲が立ち込めていくように不安が広がっていた。
カパルディの采配は、軍理としてあまりに妥当だ。
グラン・アルスターが加わった以上、真っ先に狙われるのは海に面した大拠点だと見るのが自然である。
そして万が一の裏を警戒し、最も信頼できるジェイドを『モンテ・マル要塞』の防衛へ回すのも、何一つ非の打ち所がない人事に見える。
――だからこそ、恐ろしい。
すべてが筋通りで妥当であるからこそ、何者かの手によって「その答え」へと誘われているのではないかという、そんな疑念が拭えないのだ。
だが、それが罠であると客観的に証明できる材料はどこにもなかった。
このところ失策続きで顔色の悪かったカパルディが、不気味なほど落ち着き払い、いっそ上機嫌にすら見えることも、胸騒ぎの要因になっていた。
「……とても不安です」
軍議が終わったその日の夜。
アルフレート邸の執務室にてジェイドと対峙したコゼットは、胸中を素直に打ち明けた。
「カパルディ元帥が、裏で何か企みを巡らせている気がしてなりません」
「私もその可能性は十分に考慮している。今回のグラン・アルスター加盟のタイミングにしても、表向きの利潤以外の作為が潜んでいるように思えてならない。……だが、軍人として勅命を受けた以上、私は与えられた任務を完遂するだけだ」
「分かっています。分かっているのに……胸騒ぎが消えないんです」
「ああ、コゼット嬢。……そうだな。私とて、何の不安も感じていないと言えば偽りになる」
ジェイドはほんの僅かに眉尻を下げ、困惑の陰を瞳に宿す。
『氷の将校』と恐れられ、冷徹無比と評されてきたジェイドである。それが自らの口から「不安」などという言葉を吐いたことなど、これまで一度としてなかったのだ。
「……戦場に赴く以上、死は常に隣り合わせだ。いかなる戦場であろうと、前線に立つ以上は死ぬことも覚悟の上。私はそれを意にも留めていなかった。それが軍人の誉れであるとすら思っていたのだ。だが、今は違う。私が帰らなかった時、お前がどれほど深く悲しむか……それを想うと、酷く胸が痛むのだ」
「ジェイドさん……」
コゼットは迷わず一歩を踏み出し、ジェイドの身体を強く抱きしめた。
「なら、絶対に生きて戻ってきてください。私を悲しませないと、ここで約束してください」
「……出来うる限りの努力を果たすと誓おう」
ジェイドは小さく躊躇った後、優しくコゼットの背に手を回した。
壊れものを扱うかのような、あまりにも慎重な力加減。
どこか不器用にその小さな身体を強く抱き寄せる様を、月明りだけが見守っていた。
かくして、グラン・アルスター王国を配下に迎えたリヴォルタ連合との、新たな決戦の幕が開けた。
エスカラーダ帝国は主力を『サン・ミゲル港』へと集結。
グラン・アルスターの大艦隊を迎え撃つ陣形を敷いた。
――だが。
グラン・アルスター艦隊は突撃を目前にして進路を変更。
海岸の絶壁の上にそびえ立つ『モンテ・マル要塞』の真下へと旋回し、海上からの一斉砲撃を敢行した。
頭上からの砲弾と、崩落する断崖。
大打撃を受けて大混乱に陥った『モンテ・マル要塞』へ、タイミングを合わせたかのようにリヴォルタ連合の地上部隊が怒涛のごとく雪崩れ込んだ。
要塞、陥落。
防衛指揮官、ジェイド・アルフレート辺境伯――消息不明。
その絶望的な報せが帝都に届いたのは、敗戦から四日後のことだった。
コゼットは、ただ静かにその報を聞いていた。
震えることも、声をあげることもなく。
ただ、伝令兵が部屋を去った後、ゆっくりと椅子から立ち上がった。
「ディエゴ・アゾール提督のもとへ参ります」
瞳に冷たい怒りと不退転の決意を宿し、小さな拳を強く握りしめながら。
――アルフレートの猟犬は、静かに、けれど力強く言い放った。




