第三章:新たな難問
『サン・クリストバル要塞防衛戦』が連合軍側の敗北に終わったことで、『リヴォルタ連合』はそのまま失速し、瓦解に向かうと思われていた。
しかし……現実はそう甘くはならなかった。
高見の見物を決め込んでいた海洋大国『グラン・アルスター王国』が、ここに来て連合軍側への加盟を表明したのだ。
それはエスカラーダ帝国にとっても、完全に想定外の事態であった。
「まったく意味が分かりませんわ。なぜグラン・アルスター王国は、今になって連合軍に加わったりしたのかしら」
定例となったお茶会にて、ビクトリアは優雅にお茶菓子をつまみながら不思議そうに首を傾げていた。
その問いを受け、フランチェスカもまた綺麗な眉間へ僅かに皺を刻む。
「本当にその通りですわ。すでに連合軍側の敗色は濃厚……。この土壇場のタイミングで参戦したところで、旨味があるどころか敗戦処理の泥沼に巻き込まれる可能性のほうが高いですのに」
「だからこそ……余計に不気味なんですよね」
コゼットは深々と溜息を吐きながら呟いた。
戦時において、敵の行動の真意や狙いが読めないということほど、不穏で恐ろしい事態はない。
「グラン・アルスター王国とは、帝国とも長年それなりに持ちつ持たれつの良好な関係だと思っておりましたのに」
ビクトリアの声には、隠しきれない失望の色が混ざっていた。
恐らく、エスカラーダ帝国の多くの民も今ごろ同じような裏切られた心地を感じていることだろう。
実際、エスカラーダとグラン・アルスターの関係は、これまでは極めて良好であったはずなのだ。
グラン・アルスターは海を隔てた島国であり、同じく海に面したエスカラーダとは長年にわたって活発な海上貿易を繰り返してきた。
帝国内の市場には当たり前のようにグラン・アルスターの品々が出回っている。貴族や有力商人には個人的な太いパイプを持つ者も多く、遠い親戚関係にある者すら珍しくない。
現に、グラン・アルスターの貴族と婚姻を結んでいる者は、この帝都内にもそれなりの数存在しているはずだった。
……もっともそれを言うならば、陸続きで隣接しているリヴォルタ連合側の貴族に親族を持つ者など、探せばいくらでもいるのだが。
「こうなると、帝都に入ってくる輸入品の数が減ってしまいますわね。わたくし、グラン・アルスター特産の紅茶が好きでしたのに」
「まあ、その点は心配いりませんわ。あちら側の商人たちとて、交易路をすべて潰されれば破産して不満が爆発しますもの。どうせ中立国を介した形で、交易自体は継続されることでしょうね」
「ですがそれですと、少々お値段が張ることになりそうですわね」
フランチェスカとビクトリアの溜息混じりの嘆きを聞きながら、コゼットは胸の奥に小さな『疎外感』を覚えていた。
二人にとってグラン・アルスターの敵対とは、「お気に入りの紅茶が値上がりする」という日常の不自由さだ。
だが、帝都中央軍事司令部の暗号解読班に身を置くコゼットにとっては、「明日にでも前線を飲み込むかもしれない巨大な脅威」そのものなのである。
そこに、埋めようのない深い溝を感じずにはいられなかった。
――だが同時に、ここにはかけがえのない安らぎもあった。
現在の軍部は、グラン・アルスターの突如たる参戦によって誰もが気が立っている状態だ。
いかに敵の裏をかくか、どれだけ多くの敵を血祭りにあげるか。突然の裏切り行為を強く糾弾する者もいれば、また始まる泥沼の戦乱に深い絶望を露わにする者もいる。
そんな殺伐とした環境に終日身を置いていると、コゼット自身もまた暗くどす黒い感情の渦に呑み込まれそうになってしまうのだ。
けれど、ここは違う。
ここには穏やかな「一人の人間としての日常」があり、コゼットもこの場にいる時だけは、戦火を忘れてただの「ひとりの少女」に戻ることができるのだった。
「とりあえず! アルフレート家が保管している高級紅茶の在庫はまだまだ十分ありますから、大丈夫ですよ!」
コゼットは努めて明るい声を出し会話に加わりながら、いま目の前にある平和な時間を楽しむことに専念する。
フランチェスカとビクトリアも朗らかに微笑みながら温かな紅茶を口に運び、お茶会は平和そのものの空気の中で続いていく。
(今を楽しむ。しっかりと、噛み締めるように楽しむ)
コゼットは心の中でそう自分に言い聞かせながらも、やはり胸の奥底には消すことのできない不安が澱のように蟠っていた。
それはまるで、白い絹の上にぽつりと落とされた一滴の黒いインクのように。
小さな染みは音もなくじわじわと拡がり、穏やかな日常を少しずつ侵食していく。
コゼットはその気配を確かに感じていたのだった。
帝都中央軍部は、まるで重苦しい暗雲の底に沈んでいるかのようだった。
それもそのはずである。『サン・クリストバル要塞防衛戦』の大勝によって、長引く連合軍との戦争もいよいよ終結に向かうだろうというのが、軍部の誰もが疑わなかった見通しだったのだ。
それが今、泡のように消え去ってしまった。
士気が瓦解したわけではない。
ただ、……抑えきれない濃密な失望感が、じわじわと皆の心を蝕んでいた。
「いつまでも落ち込んでばかりいられない。我々は我々の出来る限りの仕事をするぞ」
新しくあてがわれた暗号解読班の執務室で、マルシオはメンバーの顔を見回した。
幸いにして暗号解読班の面々は、良い意味でマイペースな人間が集まっていた。
前線で刀槍を交えるわけではないからと言われればそれまでだ。しかし、常に何の脈絡もヒントもない大量の暗号文を前に頭を悩ませ続けているのだ。
感情的になりやすい人間には務まらない。
コゼットもまたそれなりに落胆してはいたものの、それはそれとして、目の前にある仕事を一つずつ着実に片付けることこそが重要なのだと理解していた。
「に、しても……やたらと解読依頼の暗号文が多くありませんか?」
新しい部屋は、かつてカパルディが個人的な迎賓室として使っていた豪華な一室だ。
暗く湿っていた地下室から二階の部屋へと移ったことで日当たりも劇的に良くなった。かつては煤けたランタンだけが頼りだった室内も、今では壁掛け燭台によって部屋全体が明々と照らされている。
以前のランタンは安価な獣脂を用いており、煤が出やすく、独特の獣臭さが常に室内に立ち込めていた。
だが今、燭台で燃えているのは蜜ろうで、ほんのりと甘いハチミツのような香りが漂っている。
あてがわれたデスクも分厚い一枚板で作られた豪奢な代物で、ペン先を動かした拍子に板の窪みに取られるようなストレスも一切ない。
以前に比べれば労働環境は格段に良くなっていた。
しかし、その滑らかな机の上に山高く積み上げられた書類の量は、……過去に見たこともない絶望的な分量になっていたのである。
「グラン・アルスターが加わり、連合軍側の情報伝達が活発になったのだと考えれば、暗号量が増えるのは当然と言えば当然ですが……」
コランもまた、山のように積み上がる紙片を前に低く唸り声をあげる。
「だとしても、いくらなんでも多すぎるな」
マルシオも同意を示したが、全員で唸りながら書類の山を見つめていたところで仕事が勝手に片付くわけでもない。
仕方ないと腹を括り、全員で解読作業に取り掛かったものの、――作業開始から一時間もしないうちに、部屋の面々は開始時よりもさらに酷く渋い顔になっていた。
「こちらの暗号文は、……『12月4日にロマリアーナ湾にて作戦決行』とあります」
「こっちの暗号文は『12月4日にモンティアにて視察あり』ですわ」
「こ、こちらの暗号は『12月4日、ファルファリアにて会談実施』です……」
それぞれが解読した文書を読み上げ、そのまま重苦しい沈黙が落ちた。
「なんだなんだ、どうなってるんだ? 連合軍の連中は12月4日にどうしても予定を詰め込まなきゃいけない特別な理由でもあるのか?」
「それぞれの拠点が目と鼻の先なら、無くは無い話ですが……」
デスクの上に広げられた広域地図を指でなぞりながら、ルーディが溜息混じりに首を振る。
暗号文に記されたそれぞれの拠点は、直線距離で100キロ以上離れている場所もあり、馬を乗り潰したところで同日中に移動するなど到底現実的ではなかった。
「となると、……『偽謀暗号』ということになるな。問題は、すべてがガセネタなのか、それとも本物が混じっているのかだ」
マルシオが顎をさすりながら解読文を見直してみるが、どれが本物でどれが偽物かの判別はまったくつかなかった。
「連合軍側は、こちらの解読班が優秀であることを見抜いた上で、処理能力を超える過剰な負荷をかけようとしているのかもしれませんね」
「もしそれが連中の狙いだとしたら、悲しいかな大成功と言えるでしょうね。我々は、ここに積み上げられた嘘か本当かも分からない暗号を、永遠に解かされ続ける羽目になるんですから」
「それも……苦労して解いたところでどれが本物か分からないとなると、そのまま報告を出したところで上層部は良い顔をしないでしょうし……」
コゼットの言葉に、全員が胃の痛むような重い溜息を吐き出した。
特に、この部屋を半ば強引に奪い取られたカパルディ元帥などは、ここぞとばかりに暗号解読班の無能さを叩いてくるに違いない。
「コゼット嬢、……本物と偽物を見極める『鍵』のようなものは無いだろうか?」
マルシオから藁にもすがる思いで問いかけられ、全員の視線が一斉にコゼットへと集中した。
コゼットはその期待を真っ直ぐ受け止め、覚悟を決めて力強く頷いた。
「……絶対に、手掛かりはあるはずです。そうでなければ、偽物を混ぜている連合軍側だって情報を正しく運用できません。必ず、それを見つけ出してみせます!」
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