おかえりなさい、ジェイドさん
『鷹の門』――『サン・クリストバル要塞』への一斉攻撃は、連合軍側の敗退によって幕を下ろした。
すでに劣勢にある連合軍が、エスカラーダ帝国の要塞へと奇襲を仕掛けるためには、攻撃目標が察知されていないことが大前提であった。
連合軍側としては、突撃の直前まで部隊の動きを悟られないことが何より重要となる。
そのためには、すぐに目につく大部隊での一括進軍など論外だ。
必然、部隊を細かく分散させて進軍させることとなり……それらの多くは要塞にたどり着く前に、ジェイド率いる精鋭部隊『コンキスタドール』によって各個撃破されていった。
つまりこの戦いは、暗号解読班によって『攻撃目標が特定された時点』で、すでに勝負がついていたのだ。
作戦の最中、“なぜか”前線部隊に兵站が届かないという不穏なハプニングが発生したものの、異変を素早く察知したディエゴが海路から食料や資材を補給したことで事なきを得た。
ディエゴ率いる帝国海軍は、届け物のついでとばかりに海上から連合軍の主力部隊を砲撃。
敵部隊が激しい混乱に陥った一瞬の隙を見逃さず、ジェイドが側面からの騎馬突撃を敢行したことによって、勝敗は完全に定まったのだった。
終わってみれば『サン・クリストバル要塞』の損傷はほぼ皆無。
ジェイドの部隊においても死者はごくわずか、負傷者に至っても敵の規模と作戦の大きさを思えば、奇跡的と言えるほどに少なかった。
――なお、『サン・クリストバル要塞』防衛戦ののち、なぜ前線への兵站が滞ったのかについての調査が行われたが、直接的な原因の特定には至らなかった。
軍内部の誰かが……情報を意図的に握りつぶすことの出来る者が、あるいは隠蔽を得意とする何者かが関与したことだけは明白であった。
「――ジェイド・アルフレート辺境伯、無傷でのご帰還を心よりお待ちしておりました」
「コゼット・マイヤー騎士爵、出迎えてくれたことに感謝する」
十日後、前線の後処理を終えてアルフレート邸へと戻ってきたジェイドを、コゼットはとびきりの笑顔で迎えた。
勝てるだろうと確信していた。
ジェイドが敗れるはずなどないと信じていた。
それでも……無事だという一報を受けるまでは、ろくにまどろむことすら出来ないほど心配で仕方がなかったのだ。
「……おかえりなさい、ジェイドさん」
「ああ、コゼット嬢」
屋敷の玄関を抜け、改めてふたりは、親しい者同士だけに許された柔らかな言葉で挨拶を交わす。
しかし、そこから先の距離感に、ふたりとも少しだけ迷っていた。
まだ抱きしめ合うほど踏み込んだ関係ではない。
かといって、ただ言葉を交わすだけでは、どこか足りないような歯がゆい気持ちになる。
「……あの、ジェイドさん。少しだけ、しゃがんでいただいても宜しいですか?」
「?」
ジェイドは不思議そうな顔をしながらも、腰を屈める。
コゼットはそっと手を伸ばすと、躊躇いがちに両手でジェイドの頬を優しく包み込んだ。
指先に触れる肌の感触は、男のものとは思えないほどに滑らかできめ細かい。つい先日まで血煙舞う戦場にいたとは到底信じられないほどだった。
コゼットは指先で慈しむように触れ、小さなかすり傷一つ見当たらないことを確かめていく。
「コゼット嬢……?」
「あなたに傷をつけた者がいないかを確認していました。……相変わらずの美しさで、安心しました」
「…………、コゼット嬢。それは……普通、男の側から言うような言葉ではないか?」
「そうですか? でも、ジェイドさんは本当にお美しいですから」
頬に触れていた指先が、少しずつ暖かくなっていく。
いや、違う。……これは、ジェイドの頬自体がぐんぐんと熱を帯びてきているのだ。
「コゼット嬢……そろそろ、私の心音がもたなくなりそうなのだが?」
「心音が、ですか?」
反射的に頬から手を離し、彼の胸元――心臓の位置へと手を重ねる。
その瞬間、ジェイドが大きく息を呑んだ。
手のひらに伝わる鼓動は恐ろしいほど力強く、そして予想を遥かに超える早さで脈打っていた。
至近距離で視線が重なり合う。
ジェイドが両手をゆっくりと広げ、コゼットを抱き寄せようと……その手が触れかけるまさにその寸前。
ガチャリ、と大きな音を立ててドアが開き、ケネスが顔を覗かせた。
「お帰りなさいませ、ジェイド閣下! ディナーの準備が整ったと――うわぁあああああ、大変申し訳ございませんんんんんッ!!」
ドアから一歩踏み出すと同時に、ケネスは一切の無駄がない流れるような動作で五体投地へ移行した。
その姿を、ジェイドは盛大で重い溜息をつきながら見下ろし……そして、あえて極めてゆっくりとした優雅な動作で、ケネスの背中を踏みつけながら歩き出した。
「……だ、そうだ。では夕食に向かうとしようか」
無情にもケネスを踏みつけたまま、エスコートの手を差し出すジェイドに、コゼットは苦笑するしかない。
申し訳なさそうにその手を取り、ひらりとケネスの上を軽やかに飛び越えて、豪華なディナーが待つ食堂へと向かう。
上役に踏みつけられたケネスは、これで首が繋がったのであれば万々歳とばかりに素早く身を起こすと、何事もなかった顔で二人の後を影のように追いかけていくのだった。
数日後、アルフレート邸には来客があった。
エラディオ・マイヤーの兄――コゼットにとっては伯父にあたる男、リカルドである。
マイヤー男爵家にあってもっとも商才に長けていると言われており、事実、彼の個人資産はマイヤー家全体の三分の二を占めていた。
そのリカルドがわざわざアルフレート邸を訪れた理由、それはエラディオの獲得した『塩の専売権』であった。
「随分と小癪な真似をしてくれたものだな」
鋭い睨みを利かせるリカルドに対し、エラディオは緊張を隠せない様子で背筋を伸ばしていた。
エラディオとリカルド。
血を分けた実の兄弟であるというのに、二人の醸しだす空気は対照的だ。
エラディオがおっとりとして人懐こいゴールデンレトリバーであるならば、リカルドは引き締まった灰色の短毛を身にまとった狩猟犬、ワイマラナーを思わせる。
コゼットもまたケネスを伴って会談の場に同席していたが、二人の対峙はまるで決闘のようだった。
「専売権を独占して、一体どうするつもりだ?」
「……もちろん、僕が適正と思える価格で兄さんに譲るつもりだったよ」
「その『適正価格』というのが、随分と法外に思えるが?」
リカルドがテーブルの上に叩きつけたのは、数日前にエラディオが送った一通の書状であった。
塩の買い取りを拒否されたリカルドがエラディオに抗議の手紙を送り、それに対してエラディオが返答したものである。
そこには、塩を買い上げるに必要な本来の金額の、数倍にのぼる額が提示されていた。
「私に脅しをかけて、領地を買い戻すつもりか?」
椅子から身を乗り出して威圧するリカルドに、エラディオは困ったように眉尻を下げる。
その様子は、明らかに兄の気迫に押されているように見えた。
「誰の入れ知恵なのかは……まあ、おおよその想像がつくが……」
ちらりと鋭い視線を向けられたコゼットは、可愛らしく肩をすくめて見せた。
そのお道化た動作に大きく溜息を吐いたリカルドは、改めて弟に向き直る。
「お前らしくない真似はやめておけ。仮にお前があの領地を取り戻したところで、ただ元通りの貧乏貴族に戻るだけだ。ここの暮らしの方が、よほど快適そうじゃないか」
「……確かに、僕らしくないことだと思う」
エラディオは、小さく頷いた。
「僕が兄さんほど領地経営に長けていないのも、それも確かだと思う。でもね……ただ元通りになるだけじゃないんだ。ここしばらくの間に、僕は本当に色んなことを学んだ。新しい商業ルートも手に入れた。それは領地に戻っても継続していくつもりだよ」
「お前にその器があると言うのか?」
「正直、それは僕にもよく分からない。でもね……僕の娘は、こんなに立派なんだ」
ふいに話題を向けられたコゼットは、驚いて目を見開いた。
「独学で血のにじむような勉強をして、帝都学園に特待生で入って、その上、暗号解読班に引き抜かれて皇帝陛下から直々に騎士爵を授かった」
「……確かに、コゼットは我がマイヤー家における至高の宝と言えるだろう」
「うん。だからね、僕もコゼットの父親として、胸を張れるように頑張りたいと思ってるんだ」
エラディオは深く椅子に座り直すと、リカルドの目を真正面から見つめ返した。
「兄さん、今回のことは本当にとても勉強になったよ。ありがとう。この経験を糧に、今後はもっと本気で領地経営に励もうと思う」
「……勉強になった、だと?」
「ああ、とても勉強になった。自分の甘さを痛感したよ。もし叶うならば、これからも色々と教えてほしい。……できれば、もう少しお手柔らかな方法だと嬉しいけれどね」
二人の兄弟は、どこまでも対照的だった。
エラディオの物腰は相変わらず柔らかで、端々に気の弱さを覗かせている。
一方のリカルドは足を組み、優雅に相手を迎え撃つ完全な優位の姿勢であった。
リカルドはしばしの間、ゆっくりと噛みしめるように、エラディオの言葉を反芻していた。
そして――ふいに、憑き物が落ちたように柔らかく相好を崩した。
「……この私の策略を、まさか『勉強』と宣うとはな。いいだろう、お前の勝ちだ。我が弟よ……少しは見どころが出来たようじゃないか」
「兄さんにそう言ってもらえる日が来るなんて、思ってもみなかったよ」
二人はゆっくりと椅子から立ち上がると、互いの手を力強く、固く握り合った。
見上げる父の横顔は誇らしげで……そして、今までにないほど頼もしかった。
コゼットは心が躍り出しそうな喜びをグッと抑えながら、静かに席から立ち上がる。
「それじゃあ皆様、ガゼボへ移動しませんか? 美味しい紅茶とお菓子をご用意してあるんです。伯父様もぜひ、召し上がっていってくださいな」
「ああ、喜んでご相伴に預かろう」
リカルドは満足そうに頷くと、伯父としてエスコートをするつもりでそっと手を差し出した。
だが同時に、父親であるエラディオもまた誇らしげに手を差し出す。
差し出された二つの手が鉢合わせになり、顔を見合わせる兄弟。
コゼットは思わずプッと吹き出すと、二人の手を勢いよく両手で握り締め、まるでスキップでもするような足取りで歩き出すのだった。




