引っ越しは速やかに
「あ、暗号解読班の部屋が接収された……ッ!???」
暗号解読班が詰める地下へと向かったコゼットを待っていたのは、廊下にうずたかく積み上げられた本と書類の山だった。
「ああ、機密性が高く視認性の悪いあの部屋は、急遽『武器開発室』として使用すると、カパルディ元帥から一方的に通告があったんだ……」
頭を押さえながら溜息を吐くマルシオに、コゼットは思いっきり眉間に皺を寄せた。
「それって、つまり……」
声に出しては言えないが、完全に嫌がらせである。
ジェイドが前線へ向かった直後のタイミングを狙い、コゼットが在籍する暗号解読班に攻撃を仕掛けてきたというわけだ。
……何を考えているんだとしか言いようがない。
武器開発も大事だろう。しかしこれから防衛戦が始まるという只中において、暗号解読班を機能不全に陥らせることは、軍全体の自殺行為に等しい暴挙である。
いや、あるいは。
前線の防衛戦が失敗しても良いとすら思っている可能性もあるだろう。
その敗戦の責任をすべてジェイドになすりつけ、自身の地位を盤石に保つ。
あまりに長く権力の座に浸り過ぎていたせいで、大局が目に入らなくなってしまっているのだろうか。
「それで……私たちはどこへ移ることになるんですか?」
「それが、その……厩の隣なんだ」
「う、……厩の?」
マルシオと連れ立って訪れた新たな部屋は、確かに厩にぴったりと隣接した場所に建てられた倉庫だった。
「……う、馬がいる。絶対に部屋の中にも馬がいる匂いがする――ッ!!」
無論、部屋の中に馬本体がいるわけではない。
しかしあまりにも厩に近すぎるせいで、まるで室内に無数の馬がすし詰めになっているかのように濃厚な匂いが充満している。
「申し訳ない、コゼット嬢。年頃のご令嬢をこんな劣悪な環境で働かせることになってしまうなんて……」
「いえ、全然大丈夫です! 我が家も極貧だったので、あまりにも寒い冬の日とかは、飼っている豚を室内に入れて暖を取ったりしていましたから」
「ぶ、豚で……暖を?」
「はい。ぎゅーっと添い寝したりしてましたよ?」
あまりにもけろっとした清々しい表情で語るコゼットに、マルシオは別の意味で頭を抱えたくなった。
「まあ匂いはいいとしても……暗号解読班も機密保持が最重要な部署ですよね。出入り口にこんなに近い場所というのはどうかと思うんですが」
「それは私からも強く進言したのだが、あくまで『一時的な処置』だと突っぱねられてしまってね」
「なるほど。ジェイド閣下がお戻りになるまでの間の、ちょっとした嫌がらせのつもりなんですね」
「それ以外にも理由がある。明日は皇子殿下が半年に一度、中央軍部の視察に来られる日なのだ。その際、各部署を回って現状確認をなさるのだが、部署として正式に定められていない場所は視察の対象外にされてしまう」
「暗号解読班を、皇子殿下の視察の対象外にしたいわけですね」
(なるほど、ちょっとは頭を使ってるんだ)
思わず感心してしまう程度には、コゼットの中でカパルディに対する評価は地に落ちていた。
個人への嫌がらせならともかく、軍全体の安全を危険に晒すなど論外である。
改めて周囲を見回してみれば、倉庫は本来、馬具や藁などの保管用に作られたものであり、人間が留まって作業するには到底不向きだった。
具体的には隙間風が吹きまくっている上に、大量の本や機密書類を保管できるような棚すら存在しない。
机や本棚を運び込んだところで、この隙間風ではランプの火も消えてしまうだろう。
細かな文字を追い続ける暗号解読班としては、極めて厳しい環境であった。
コゼットはしばらくあごに手を当てて考え込み、それから何かを思いついたように「ポンッ」と手を叩いた。
「よし! それじゃあ、明日までに引っ越ししちゃいましょう!」
「なっ……!? いや、それが出来れば苦労はないが、我々暗号解読班の人数だけではあの大量の書類を一日で運ぶなど不可能なんだぞ! しかも、元の部屋とこの場所は敷地の正反対と言っていいほど離れているんだ」
「……と、普通は思いますよね。カパルディ元帥も、絶対に同じことを考えたはずです」
コゼットは不敵に「にんまり」と笑うと、面食らうマルシオに向けて逆転の計画を打ち明け始めたのだった。
一夜明けた翌日。
暗号解読班の部屋は、厩の隣の倉庫へと完璧に移動を完了させていた。
書類も、本も……机や椅子、大型の棚もひっくるめての完全なる大移動である。
作業をするにあたって快適と言える環境ではなかったが、暗号解読班として皇子の視察を受け入れる分には申し分のない状態となっていた。
そして、その完璧すぎる準備状況と劣悪な環境を前に、皇子に付き従う形でやってきたカパルディ元帥は、目を白黒させて固まっていた。
「……これは一体どういうことだ? なぜ暗号解読班が納屋同然の場所に押し込められている?」
倉庫に入った皇子は、室内に漂うあまりにも濃厚な馬の匂い、――独特の獣臭に干し草や泥、そして馬糞の悪臭が混ざり合う空間に、盛大に顔をしかめた。
「い、いえ、これは……その……」
「カパルディ元帥。暗号解読班にこの場所への移動命令を出したのは誰だ?」
鋭い問いかけに、重苦しい沈黙が降り立った。
カパルディは顔を伏せ、拳を白くなるほど強く握りしめる。
頭の中で何とか言い訳を捏ね繰り回そうとしているのだろうが、移動命令は公式な文書として発令されてしまっている。
もし皇子に対して虚偽の申し立てをすれば、それこそ不敬罪や反逆罪に問われかねない。
しばし身体を震わせたあと、カパルディは蚊の鳴くような絞り出した。
「……私、です」
「なぜだ?」
「一時的な対応にございます! 以前の地下室はあまりにも暗く空気の流れが鈍いため、作業に集中しにくいかと配慮いたしまして……」
ダンっ!! と、皇子の持つ錫杖が床を強く叩いた。
皇子と言っても、現皇帝が御年六十歳を超える今、皇子自身もすでに四十代の洗練された将官である。
次期皇帝として長年周囲にその才覚を示してきた男は、皇帝と何ら変わりない圧倒的な覇気をまとっていた。
政にも軍略にも精通するこの男に、カパルディの上辺だけの言い訳など通じるはずもない。
皇子はカパルディを睨み据えると、地を這うような声で糾弾した。
「コゼット・マイヤー騎士爵は、我が父たる皇帝よりその働きを評され、直々に授爵された者である。そして、その働きを支えたのが暗号解読班であることは全軍の周知の事実。それをこのような厩に追いやるなど……皇帝の威光に泥を塗るつもりか」
「いえっ! 私は……っ! ほ、本当に一時しのぎの移動だったのです! すぐにでも別の部屋を用意させますゆえ!」
「では、今すぐに用意しろ」
「そ、そうは仰られましても……!」
「カパルディ元帥。私は『今すぐ用意しろ』と命令したのだ」
「……か、かしこまり……ました……」
「ああ、そういえば貴公が個人的な迎賓室として使っている部屋があったな。あそこを明け渡すがいい」
「い、いえ! すぐにでも元の地下室を整えさせますので……!」
「『命令だ』と言ったのが聞こえなかったのか?」
カパルディは屈辱で顔を真っ赤に染め上げながら、部下たちに向かってヒステリックに指示を飛ばし始めた。
その様子を後目に、皇子は暗号解読班の面々に向き直った。
「不便をかけたな。……マルシオ、足の傷の具合はどうだ?」
ふっと語調が柔らかなものに変わり、息苦しい沈黙に耐えていたマルシオが微かに目を細めて笑う。
「お陰様で、寒い時期に多少痛む程度で済んでおります」
「そうか。暗号解読班での息の長い活躍も聞き及んでいる。今後とも貴公らの働きに期待しているぞ」
「勿体ないお言葉です」
「――さて、コゼット・マイヤー騎士爵」
「は、はいっ!」
名指しされたコゼットは思わず跳ね上がりそうになり、何とか背筋を伸ばすだけに留めることに成功した。
「ジェイド・アルフレートからも貴公の活躍は聞き及んでいる」
「も、……ったいないお言葉にございます」
「あのジェイドが貴公のことを話す時には、周囲の凍てつく空気がわずかに和らいでいてな。……我が皇室も、虎の尾を踏まぬよう気をつけねばならぬな」
「……この度は、寛大なるお取り計らいをいただき、心より感謝申し上げます」
「構わん。今後とも我が国のため、その類まれなる頭脳を存分に振るってくれ」
「誠心誠意、務めさせていただきます!」
コゼットが深々と頭を下げると、皇子は満足そうに微かな笑みを浮かべ、颯爽と踵を返した。
そうしてその偉大な気配が完全に立ち去ってから、暗号解読班のメンバーは一斉に安堵の息を吐き出した。
「き、……緊張したぁあああああ~~~~っ!!」
全員が力尽きたように椅子へとなだれ込む。
「いや、しかし……新しい部屋を用意してくれるだろうとは思っていたが、まさかカパルディ元帥の迎賓室になるとはなぁ!」
「それって、元帥執務室のすぐお隣とかじゃないですよね……?」
「安心しろ、中央会議室の並びにある特等席の部屋だ」
「それにしてもまた引っ越しかぁ。……よし、また騎士団のみんなにお願いをしなくっちゃ!」
――コゼットたち暗号解読班が、わずか一日でこれほどの大移動を完了させることが出来た理由。
それは、中央軍部に詰める騎士や兵士たちの協力のおかげだった。
騎士たちの多くはカパルディ元帥の指揮下におり、表立って元帥の不興を買うわけにはいかない。
だがそれ以上に、彼らの多くは先の捕虜奪還作戦において、大切な家族や掛け替えのない仲間を取り戻してもらった恩義があった。
彼らは日頃から暗号解読班に対し、「困ったことがあればいつでも頼ってください」と熱心に語りかけていた。
そして今回、コゼットとマルシオからのSOSを受け、非番や巡回中の騎士たちが一丸となって引っ越しに手を貸してくれたのだ。
もちろん表立っての作業は難しい。しかし「たまたま通りすがりに」本箱や重い机を掴んで素早く運び去るくらい、鍛え上げられた彼らにとっては朝飯前であった。
特に兵站を担当する軍人たちにとっては、人の目を盗んで物資を移動させるなど、お手の物である。
かくして暗号解読班は、たった一日にして完璧な引っ越しを完了させることが出来たのだ。
――なお、この一連の騒動は、当然ながら前線で指揮を執るジェイドのもとへも届けられた。
しかし、「カパルディによる暗号解読班への低レベルな嫌がらせ」と「カパルディが自爆して迎賓室を強奪され終結した報」が完全に同じタイミングで届いたため、報告書を読んだジェイドはしばしの間、見たこともない複雑な表情を浮かべていたという。
ともあれ、カパルディの企みは粉砕され、暗号解読班は日当たりの良い快適な部屋を手に入れることとなったのだった。




