もしあなたに何かあった時には
フランチェスカとビクトリアとの楽しいお茶会を終えた、その日の夜。
アルフレート邸に戻ってきた父エラディオに、コゼットは「塩の権利を買い取る」という作戦についての説明をした。
エラディオは驚きながらも真剣に聞き入り、幾度も深く頷いたあと、ゆっくりと口を開いた。
「そ、その……正直すごく驚いているよ。まさかお前が、いつの間にこんなに大きくなっていたなんて」
「……お父様ったら」
エラディオはどこか遠くを見るように視線を彷徨わせたあと、静かに目を伏せた。
「僕がくよくよと悩んでいる間に、コゼットは戦い続けていたんだね。……マリアンヌに叱られそうだ」
「確かに。お母様なら叱るかもしれませんね」
コゼットがコロコロと笑い声を転がすと、エラディオはどこか面目なさそうに頭をかいた。
「本当だよ。コゼットは帝都で暗号解読班のエースとして活躍して、捕虜奪還作戦も成功させた。マイヤー家にはなかった強力な人脈も築き上げた上に、家や領地を取り戻すことまで考えてくれている。本当に……僕は情けない父親だ」
「そういう事を言っているんじゃないですよ?」
コゼットは椅子から身を乗り出すと、エラディオの手を力強く握りしめた。
「お母様が怒るとしたら、誰かと比べて落ち込んでいるところです。それに、お父様がご自分のことを『何もできない』だなんて思い込んでいるとしたら、間違いなく激怒しますよ」
「……げ、激怒?」
「そうですよ。だって、お父様とお母様は、貴族間では珍しい恋愛結婚だったのでしょう?」
「うん」
「だったらお母様は絶対に言うはずです! 『私の愛したエラディオさんが、何もできない人のわけがないでしょう!』って」
その言葉に、エラディオは驚いたようにパチパチと目を瞬かせた。
綺麗な青色の瞳が、動揺と感動に揺れている。
「そ……そうだね、確かにそんな風に言われそうだ。でも、今の僕にできることなんて……」
「あります!」
コゼットはまっすぐに父を見つめて断言した。
「私が提案した『塩の優先買い取り権』という作戦は、ただお金があればできるというわけではありません。お父様がこれまで長年築き上げてきた『信頼という名の貯金』があるからこそ可能なのです」
「信頼の貯金……?」
「そうですよ! 相手はあの海千山千の物流ギルドの商人たちですよ? 第一線で常に戦い続けている熟練の戦士みたいな人たちです。その人たちからの深い信頼を勝ち得ているって、ものすごいことだと思いませんか?」
「そ、……そうかな?」
「そうですよ! すっごいことなんですから!」
「え、えへへ……う、うん。なんだかそう言われると、ちょっと自信が湧いてきたかも」
照れくさそうに笑うエラディオの顔は、とうてい年上の父親には見えないほど愛らしい。母マリアンヌもきっと父のこういう真っ直ぐで素直なところを愛したのだろうと確信する。
「……正直に言うとね、父さんは少しばかり拗ねていたのかもしれない」
「拗ねて?」
「うん。コゼットが帝都で勉強するために特待生になった時も、なんだか突然僕の腕から飛び出していってしまったみたいで寂しかったんだ。暗号解読班として活躍して、騎士爵を得たと聞いた時も……ああ、もうこの子に僕の助けは必要ないんだな、立派に巣立っていってしまったんだなって」
「お父様……」
「でも、コゼットは僕のことを見捨てたりなんてしていなかった。……だから僕も、精一杯『かっこいい父親』らしく頑張らないとな」
コゼットは大きく息を吐くと、勢いよく椅子から立ち上がった。
そうして、スカートの裾を持ち上げ、エラディオの膝の上にどさりと腰を下ろした。
年頃の淑女のマナーとしては最悪だが、今はそんな気取ったことなど構っていられなかった。
「ちょっ、コゼット!?」
「お父様が必要ないわけないじゃないですか! 私にとって、たった一人の大好きなお父様なんですよ!」
ぎゅうううっと力いっぱいに抱きしめると、一瞬戸惑っていたエラディオだったが、やがてそっと愛娘の背中に手を回し、優しく抱きしめ返してくる。
「うん……ごめんね。父さんもちゃんと頑張るよ。『さすがコゼットのお父さんだ』って周りから言われるようになってみせる」
「もう、お父様ったら。そうやってまた誰かと自分を比べたら、お母様に怒られますよ?」
「はは、それは仕方ないから素直に怒られよう」
この時、ドアに背を向けて抱きついていたコゼットは、全く気づいていなかった。
執務室から戻ってきたジェイドが、そっとドアの隙間から様子を見にきていたことに。
そして、コゼットを抱きしめたエラディオが、そのジェイドに向けてびっくりするほど勝ち誇ったドヤ顔を見せつけていたということに……。
「――コゼット卿」
自室へと戻る廊下の途中で声をかけられ、振り返るとジェイドが立っていた。
「こんばんは、ジェイド閣下。こちらに戻っていらっしゃるのは珍しいですね」
「……ジェイドで構わない」
「え?」
ふいの言葉に戸惑っていると、ジェイドはゆっくりと、だが音もなく距離を詰め、あっという間にコゼットの目の前に立ち塞がった。
「私のことは、ジェイド、と」
「い、いや、さすがにそれは……。じゃ、じゃあ、私のことも、その……コゼット、と……」
「そう呼べば、私のこともジェイドと呼んでくれるか?」
小柄なコゼットからすれば、180センチをゆうに超すジェイドが目の前に立つと、完全にその影の中に身体がおさまってしまう。
まるで、ジェイドという存在に閉じ込められているかのようだった。
「ジェイド、……さん」
「――コゼット嬢」
互いにわずかに距離を寄せた名を呼べば、ジェイドの怜悧な双眸が、ほんの少しだけ柔らかく緩む。
「……コゼット嬢、私は明日より前線に赴くこととなる。しばし中央を留守にするが、くれぐれも気を付けて過ごしてほしい」
「カパルディ元帥のことですね。分かりました、気を付けます。……ジェイドさんも、気を付けてくださいね」
「私は問題ない」
かすかに自嘲を混ぜた笑みがジェイドの口端に乗るのを、コゼットは見逃さなかった。
思わず近かった距離をさらに一歩詰め、どこか威嚇するようにグッと顔を覗き込む。
「駄目です。ジェイドさんも気を付けてください」
「あ……ああ」
戸惑った様子を見せるジェイドに、コゼットはその感情の奥に絡みつく複雑な心境を感じ取った。
ジェイドは、心配されたことに戸惑っているのだ。
それは……彼が、『冷徹で知られる辺境伯・ジェイド・アルフレート』が、その人生において他者から真摯な心配を向けられたことなど一度もないという証左でもあった。
あなたは強いから大丈夫、と。
それは彼の強さに裏付けられた信頼であったかもしれない。それでも、そこには信頼を盾にした明確な壁が存在した。
積み重ねられて来た日々の中で繰り返された言葉。それは、緩やかに静かに彼の心を抉り続け、冷徹な辺境伯へと変えていったのだろう。
「私は心配なんです。あなたが怪我をしないか、うっかり腐ったものを食べてお腹を壊さないか、毛布をかけずに寝て風邪を引かないか……!」
「いや、それは……」
「でも、安心してください。もしあなたに何かあった時には、――このコゼット・マイヤーが助けに行きます!」
「は?」
その瞬間、ジェイドは虚を突かれたように固まった。
背後のケネスもまた完全に意表を突かれ、……そして上役のありえない反応を目撃したことで、命の危機を感じていた。そこに自分は存在していませんとばかりに気配を消し、すばやく壁と同化する。
ただ、コゼットだけが堂々と胸を張り、腰に手をあてて、ジェイド・アルフレートを見あげていた。
「私が絶対に助けに行きます。だから、十分に気を付けて……でも、あなたの背中を支える者がここにいることを、忘れないでくださいね」
「ふんす!」と鼻息荒く言い放つと、コゼットは思い出したかのように一歩下がり、優雅なカーテシーを披露する。
「……お気をつけて行ってらっしゃいませ、ジェイド・アルフレート辺境伯」
「あ、ああ……行ってくる、コゼット・マイヤー騎士爵」
ジェイドもまた一歩引くと胸に手を当て、深く頭を垂れる。
威風堂々と去っていくコゼットを見送るジェイドは、生まれてこの方見せたこともないほど呆けた顔になっていた。
その傍らでそっと呼吸を再開したケネスは、完全な影に徹したまま、過去最高レベルのスピードでコゼットの後を追いかけて去っていった。
「私を、守る……か。本当にお前は、何度でも私を驚かせてくれる」
静まり返った廊下でジェイドはひとりごちる。
そうして眉尻を下げるとコゼットの名を、その音までもを尊ぶように、そっと愛おしげに囁いた。
――そうして翌日。
ジェイド・アルフレートは今までにないほど穏やかな気持ちで前線へと旅立っていった。
一方、エラディオもまたビクトリアがセッティングしてくれた商業ギルドとの会合へと赴き、やはりどこか弱腰ながらも、見事に商談を成立させて帰ってきた。
ギルドの商人たちからは「いつ頼ってくれるのかと首を長くして待っていたんだぞ!」と、酒を酌み交わしながら温かく迎えられたという。
かくしてマイヤー家は、マイヤー男爵領に届けられるはずの塩の『手付金による独占権』を、正式に手に入れることとなる。
コゼットの心境は穏やかであった、
……はずだったのだが。
その日、暗号解読班へと出仕したコゼットを、まったく予想だにしていない事態が待ち構えていたのだった。




