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第三章 同じ時刻、同じ車両

カフェで終電を待っている間に、コーヒーはすっかり冷めていた。


最初は時間を潰すため、スマートフォンを眺めていた。


ミナミが送った写真。


十八年前の記事。


十二年前に起きた、弟の失踪事件。


消滅した集落、ヤミヨ。


同じ資料を何度も見返した。


新しい事実は出てこない。


むしろ読み返すほど、自分が今から何をしようとしているのかが、はっきり見えてきた。


人が消えるというネット怪談を読み、夜遅くに一人で駅へ向かい、終電が来るのを待っている。


誰かに話せば、頭がおかしいと言われるだろう。


俺だってそう思う。


スマートフォンの画面には、ユカからのメッセージが次々と届いていた。


> 今、ミカゲ駅にいるんですか?


> まさか、終電を見に行くつもりですか?


> 一人で行かないでください。


> 警察には話しましたか?


最後のメッセージが届いたのは、十分前だった。


> 返事してください。


俺はトーク画面を開き、何も入力せずに閉じた。


ミカゲ駅にいると伝えれば、ユカも来るかもしれない。


まだ高校生の彼女を、こんなことに巻き込むわけにはいかなかった。


ミナミの友人なのだから、すでに十分苦しんでいるはずだ。


だからといって、俺の方がまともな人選というわけでもない。


怪談を調べた経験などないし、喧嘩が強いわけでもない。


電車の中で異常なことが起きたとしても、俺にできるのは警察へ連絡するか、逃げることくらいだった。


だから、乗らない。


俺はもう一度、自分に言い聞かせた。


ホームから見る。


写真と同じ車両が現れるかどうかだけを確かめる。


異常があれば撮影する。


すぐに警察へ連絡する。


絶対に電車の中には入らない。


それで十分だ。


午後十一時三十五分。


カフェの店員がやって来て、間もなく閉店すると告げた。


俺は冷めたコーヒーを一気に飲み干し、席を立った。


外へ出ると、街の雰囲気が変わっていた。


昼間は人であふれていた駅前広場も、今はほとんど人影がない。


タクシーが数台、列を作って停まっていた。


酔っ払いが二人、大声で笑いながら前を通り過ぎていく。


コンビニの看板と自動販売機の明かりだけが、場違いなほど明るかった。


俺が働いている店と同じ系列のコンビニが見えた。


ガラス窓の向こうで、アルバイト店員が床を掃除している。


その姿を見て、ミナミのことを思い出した。


あの日も、これくらいの時間に仕事を終えたのだろう。


苛立っていても、客の前では笑っていたはずだ。


閉店作業を引き継ぐはずのスタッフが遅れてきて、心の中では悪態をついていたかもしれない。


それから終電に間に合わせるため、ここまで走ってきた。


いつもと何も変わらない一日だったはずだ。


その平凡な一日の終わりに、ミナミは消えた。


俺は駅へ入った。


改札前には、昼間に会った中年の駅員はいなかった。


代わりに、若い駅員が一人座っている。


交通系ICカードをかざしかけて、手が止まった。


昼間の駅員に、もう一度話を聞くことも考えていた。


だが、今は姿が見当たらない。


わざと早く帰ったのか、もともと交代の時間だったのかは分からなかった。


俺は改札を通った。


ホームへ下りる階段の上に、電光掲示板が設置されていた。


午後十一時四十六分。


ミカゲ線、下り最終電車。


到着まで、あと六分。


行き先も普段と同じだった。


特別なところは何もない。


ホームにも、まだ何人かの乗客が残っていた。


酒の匂いを漂わせる会社員。


スマートフォンを見ている大学生二人。


大きなキャリーバッグを立てている女。


ベンチに座り、うたた寝をしている老人。


誰もが、終電を待つ普通の乗客に見えた。


そのことに、少しだけ安心した。


怪談が本当なら、もっと異様な雰囲気が漂っていると思っていたのかもしれない。


照明が点滅するとか。


誰もいないホームに、奇妙な案内放送が流れるとか。


実際に聞こえるのは、自動販売機の作動音と人々の足音だけだった。


俺はホームの前方へ歩いていった。


電車が到着したとき、前から二両目が停車する位置を確認する。


床には、乗車位置を示す番号が描かれていた。


俺は近くの柱に背を預けた。


スマートフォンを取り出し、カメラを起動する。


まだ撮影するものはない。


画面には、向かい側の壁と線路しか映っていなかった。


時間が進まない。


時計を見れば数秒しか経っていないのに、体感ではずっと長く感じられた。


午後十一時四十八分。


俺は意味もなく周囲を見回した。


こちらを見ている者はいない。


午後十一時四十九分。


ユカから、またメッセージが届いた。


> 私、今から駅に向かいます。


胸が大きく跳ねた。


俺はすぐに電話をかけた。


呼び出し音が二回鳴るより早く、ユカが出た。


『今、どこですか?』


「家へ戻ってください」


『駅にいるんですよね?』


「どうして分かったんですか?」


『返事もしないで、今日は家にいろなんて言うからです。そんなの、分かるに決まってるじゃないですか』


電話の向こうから、風の音と速い足音が聞こえた。


本当に走っているらしい。


「ユカさん、来ないでください」


『一人で何をするつもりなんですか?』


「何もしません。ホームから電車を確認するだけです」


『どうして、それを一人でやるんですか?』


「あなたが来ても、何も変わりません」


『ミナミは私の友達です』


「だから、来たら駄目なんです」


思っていたより強い声が出た。


電話の向こうが一瞬、静かになった。


俺は息を整えてから続けた。


「電車の中へ入るわけではありません。異常なものが見えたら、すぐに警察へ連絡します。確認したら帰りますから、あなたも家へ戻ってください」


『本当に乗らないんですよね?』


「乗りません」


『約束してください』


「約束します」


ユカはすぐには答えなかった。


しばらくして、小さな声が返ってきた。


『写真か動画だけでも、送り続けてください』


「分かりました」


『それから、おかしいと思ったらすぐに逃げてください』


「はい」


通話を切った。


嘘はついていない。


本当に乗るつもりなどなかった。


ホームの先にあるトンネルから、かすかな風が吹いてきた。


間もなく、案内放送が流れた。


『間もなく、二番線に下り最終電車が参ります』


乗客たちが一人、また一人と黄色い線の前へ移動した。


俺も柱から背を離した。


線路の向こうに、二つの光が現れた。


電車がトンネルを抜けてくる。


最初に見えたのは、ごく普通の新型車両だった。


白と濃紺で塗り分けられた車体。


大きな前面ガラス。


昼間、インターネットで確認した現在の車両と同じだった。


電車が速度を落としながら、ホームへ入ってくる。


金属製の車輪がレールを擦る音が響いた。


俺はカメラで動画を撮り始めた。


先頭車両が目の前を通過する。


窓の向こうには、乗客たちが座っていた。


普通の人間だ。


二両目が近づいてきた。


俺は息を止めた。


外側は新型車両だった。


扉も、窓の形も正常だ。


ミナミの写真に映っていた旧型車両とは違う。


――何もないじゃないか。


緊張がほどけかけた瞬間、窓の内側が目に入った。


座席の色が違う。


現在の車両には、青系統の座席が使われている。


ところが窓の向こうに見える座席は、色あせた赤だった。


座席端の金属部分も古びている。


天井には、旧式の長い蛍光灯が並んでいた。


外側は新型なのに、内側だけが旧型だった。


俺はスマートフォンの画面と、実際の車両を交互に見た。


カメラ越しでも、同じように映っている。


見間違いではなかった。


電車が決められた位置で停車した。


俺の目の前に、二両目の扉が来た。


ピンポーン。


扉が開いた。


車内には、それほど多くの人はいなかった。


会社員が数人。


制服姿の学生。


買い物袋を持った女。


全員が、うつむいていた。


スマートフォンを見ている者もいれば、眠っている者もいる。


一見すれば、普通の終電だった。


だが、座席も、天井も、吊り革も、間違いなくミナミの写真と同じだった。


車両の端に、一つだけ空席がある。


左右には人が座っているのに、その場所だけが空いていた。


窓際の端。


ミナミが座っていた席だ。


俺はスマートフォンで、その場所を拡大した。


画面がかすかに揺れた。


手が震えている。


――撮れた。


これで十分だ。


この映像を警察へ見せればいい。


俺は一歩、後ろへ下がった。


扉が閉まる前に、安全なところまで下がらなければならない。


そのとき、空席の隣で誰かが動いた。


うつむいていた乗客が、ゆっくりと顔を上げる。


長い髪が流れ落ちた。


制服姿の少女だった。


ミナミ。


俺は動けなかった。


顔は青白く、髪は濡れていた。


コンビニで働くときに着ていたシャツの上から、制服のジャケットを羽織っている。


奇妙な格好だった。


あの日、慌てて店を出ていった姿とも、ユカから見せてもらった学校での写真とも違う。


二つの姿が混ざり合っているように見えた。


ミナミが窓越しに俺を見た。


唇が動いた。


声は聞こえない。


俺は一歩近づいた。


「ミナミ?」


車内の誰も反応しなかった。


ミナミだけが、俺を見つめていた。


もう一度、唇が動く。


今度は読み取れた。


助けてください。


俺は扉の前まで近づいた。


黄色い線を越えた靴先が、車両の床に届きそうになる。


――乗ったら駄目だ。


昼間に会った駅員の声が頭をよぎった。


特に、前から二両目には乗らないでください。


俺は足を止めた。


「外へ出ろ!」


ミナミに向かって叫んだ。


周囲の乗客が、こちらを見ると思った。


だが、ホームに立つ人々は誰一人として反応しなかった。


それぞれの扉の前で静かに待っているか、そのまま車内へ乗り込んでいる。


まるで俺の声が聞こえていないかのように。


車内のミナミが、首を横に振った。


動けないという意味なのか。


中へ入ってくるなという意味なのか。


分からなかった。


彼女の顔が歪んだ。


目から涙が流れ落ちる。


そして、空席の方から青白い手が伸びてきた。


その指が、ミナミの肩をつかんだ。


ミナミの身体が、後ろへ引きずられ始める。


「ミナミ!」


考えるより先に、俺は車内へ踏み込んでいた。


ミナミに向かって手を伸ばす。


指先が触れる寸前、その姿は明かりが消えるように掻き消えた。


誰もいない。


そこには、空席だけが残っていた。


ピンポーン。


扉が閉まることを告げる警告音が鳴った。


俺は振り返った。


開いた扉は、すぐ後ろにある。


あと一歩で外へ出られる。


だが、ホームに黒いコートを着た男が立っていた。


季節外れの長いコート。


黒い髪が目元を隠し、片手には古びた革鞄を提げている。


男は俺を見ていた。


表情は見えない。


だが、その唇が動いた。


降りろ。


俺は扉へ駆け出した。


その瞬間、背後から鞄を引っ張られた。


身体が後ろへ倒れそうになる。


振り返っても、誰もいない。


それなのに鞄の持ち手は、強く引かれていた。


空席の下から伸びた白い手が、持ち手を握りしめている。


「放せ!」


俺は鞄を肩から外し、その場へ投げ捨てた。


扉へ向かって身体を投げ出す。


開いた扉の隙間から手を伸ばした。


黒いコートの男も、俺へ向かって手を伸ばしている。


指先が触れようとした、その瞬間。


扉が閉じた。


ドンッ。


俺の手のひらが、冷たいガラスにぶつかった。


黒いコートの男は、ホームに取り残された。


電車が動き始める。


「待ってくれ!」


俺は扉を叩いた。


「開けてください!」


ホームがゆっくりと後方へ流れていく。


黒いコートの男は動かなかった。


電車が速度を上げる間も、同じ場所に立ったまま俺を見ていた。


やがてホームの端が通り過ぎ、男の姿も見えなくなった。


俺は扉の脇にある非常通報装置を探した。


ボタンを押す。


何の音もしない。


もう一度押した。


反応はなかった。


「壊れてるのか?」


スマートフォンを取り出す。


画面には、電波が一本も表示されていなかった。


圏外。


ユカへ電話をかけたが、つながらない。


メッセージも送信できなかった。


それでも、電車は何事もないかのように走り続けていた。


線路から伝わる振動が、足の裏まで響いてくる。


俺は車内を見回した。


十数人ほどの乗客がいる。


俺が叫び、扉を叩いていたにもかかわらず、誰一人としてこちらを見ようとしなかった。


全員が、うつむいたまま動かない。


さっきまでスマートフォンを見ていた会社員の画面は消えていた。


それでも男は、真っ暗な画面を見つめ続けている。


隣に座る学生のイヤホンからは、何の音も漏れていなかった。


車内は異様なほど静かだった。


聞こえるのは、車輪の音と蛍光灯の低い唸りだけだ。


俺は出入口上部の案内表示を見た。


普段なら、次の駅名が表示されるはずだ。


画面に浮かんでいたのは、四角い記号だけだった。


□□□□。


その隙間で、ときおり文字が乱れて現れる。


夜。


すぐに消えた。


電車がトンネルへ入った。


窓の外が、完全な闇に包まれる。


ガラスには、車内の様子が映り込んでいた。


俺は反射したものを見ないよう、視線を落とした。


ミナミの写真が頭に浮かぶ。


窓の中にだけ映っていた長い髪の女。


鞄をつかんでいた手。


さっき投げ捨てた俺の鞄は、空席の前の床に落ちていた。


持ち手をつかんでいた手は、もう見えない。


俺はゆっくりと、そちらへ近づいた。


鞄の中には財布と鍵が入っている。


置いていくわけにはいかなかった。


あと数歩で届く。


空席には近づかず、持ち手だけを引けばいい。


俺は腰を落とした。


鞄の持ち手へ手を伸ばす。


すぐ隣に座っていた会社員が、口を開いた。


「お座りください」


俺の手が止まった。


男は、まだうつむいたままだった。


「何ですか?」


会社員が、もう一度言った。


「席が空いております」


その声は、あまりにも普通だった。


疲れた会社員が席を勧めるような、何でもない口調だった。


俺は答えず、鞄の持ち手をつかんだ。


身体を起こそうとした瞬間、向かい側の女が言った。


「お疲れでしょう」


その隣の学生も続けた。


「座れば楽になりますよ」


一人ずつ、顔を上げた。


会社員。


学生。


買い物袋を持った女。


老人。


全員が、俺を見ていた。


目がなかった。


ミナミの写真に映っていたものと同じだ。


本来、目があるはずの場所を、滑らかな皮膚が覆っていた。


それでも、あれらは俺を見ている。


すべての顔が、俺の方へ向けられていた。


「お座りください」


「席が空いております」


「座ればよいのです」


「すぐに到着します」


いくつもの声が重なった。


俺は鞄をつかんだまま、後ずさった。


空席が目に入る。


さっきまで何もなかった座面に、水気が広がっていた。


黒ずんだ赤い染みが、ゆっくりと中央へ集まっていく。


人が座った痕跡のように、座席が深く沈んだ。


目に見えない何かが、そこに座っている。


蛍光灯が点滅した。


一度。


二度。


明かりがつくたび、乗客たちの位置が変わっていた。


最初は、座席に座っていた。


次の瞬間には、全員が立ち上がっている。


その次には、こちらへ一歩近づいていた。


俺は後ずさった。


車両端の連結扉に、背中がぶつかった。


取っ手を回す。


開かない。


「開け」


力任せに引っ張った。


びくともしない。


背後から、何人もの足音が聞こえた。


ゆっくりと。


同じ間隔で。


俺は扉を蹴った。


「開けよ!」


蛍光灯が消えた。


暗闇の中で、足音が止まる。


すぐ後ろから、息遣いが聞こえた。


ふうっ。


首筋に冷たい風が触れた。


俺は身体を低くし、横へ転がった。


何かが頭上をかすめた。


長い髪だった。


床を這うように広がった黒髪が、俺の足首へ巻きつこうとする。


俺は足を振り払い、立ち上がった。


その瞬間、連結扉の反対側から大きな衝撃音が響いた。


ドンッ!


扉が内側へ揺れる。


もう一度。


ドンッ!


動かなかった取っ手が回った。


扉が開く。


黒いコートの男が立っていた。


「伏せろ」


考えるより先に、身を屈めた。


男の手から、黒い物体が飛んだ。


短い金属棒のように見えた。


それが回転しながら、俺の背後へ飛んでいく。


濡れた布を引き裂くような音がした。


キィィィィッ!


人間の悲鳴と呼ぶには、あまりにも高く、長い声だった。


車内の照明が再び点灯した。


長い髪の女が、俺のすぐ後ろに立っていた。


顔は髪に覆われている。


胸の中央には、黒い金属棒が突き刺さっていた。


女の身体から、血ではなく黒い煙が流れ出している。


黒いコートの男が腕を引いた。


金属棒の先に結ばれた細いワイヤーが張り詰める。


女の身体が後方へ引きずられた。


女が両腕を広げる。


指が異常なほど長く伸び、男へ襲いかかった。


男は身体をひねって避けると、ワイヤーを強く引いた。


女の身体が、連結扉の向こう側へ引き込まれた。


「走れ」


「え?」


「ここで死にたくなければ、走れ」


俺は鞄をつかみ、開いた扉をくぐった。


隣の車両は、完全に無人だった。


座席には厚い埃が積もり、天井照明の半分が消えていた。


窓ガラスには、黒い水のような跡が長く垂れている。


俺たちが通過したばかりの扉の向こうから、何かがぶつかる音が続いていた。


黒いコートの男は扉を閉め、ポケットから古びた紙の札を取り出した。


扉へ貼りつけると、かすかな赤い光が広がった。


ドンッ!


扉が大きく揺れる。


札の端が、黒く焼け始めた。


「こっちだ」


男が先に走り出した。


俺には、あとを追うしかなかった。


「あなたは誰なんですか?」


男は答えない。


「ミナミを見ました。さっきの車両にいたんです」


「あれはミナミじゃない」


「確かに見ました」


「お前が見たい姿を見せられただけだ」


「では、本物のミナミはどこにいるんですか?」


男が足を止めた。


照明の下で横顔が見えた。


思っていたより若い。


三十代前半くらいに見えた。


古い傷痕が、顎の下から首まで伸びていた。


「生きているなら、この列車のどこかにいる」


「生きているなら?」


「ここでは、死んだ人間も生きている顔で歩き回る」


その言葉を理解したくなかった。


「捜さないと」


「お前は降りろ」


「ミナミを置いて?」


「お前が残れば、消える人間が一人増えるだけだ」


後方の連結扉が、再び大きく揺れた。


赤い光が弱くなっている。


男は俺の手首をつかみ、次の車両へ移動した。


「次の駅で、必ず降りろ」


「ここは、どこなんですか?」


「まだ電車の中だ」


「それくらい、俺にも分かります」


「そういう意味じゃない」


男が前方を指した。


出入口上部の案内表示が、赤く明滅していた。


今度は、はっきりと文字が読めた。


闇夜。


ヤミヨ。


車内に案内放送が流れた。


『次は、ヤミヨ』


女の声だった。


最初は、普通の車内放送に聞こえた。


だが、最後の部分で声が割れた。


何人もの人間が、同じ文章を同時に読み上げているように重なっていく。


『ヤミヨです』


電車が速度を落とし始めた。


窓の外には、まだ何も見えない。


トンネルの壁も。


非常灯も。


線路脇の標識もなかった。


完全な暗闇の中を走っている。


「あんな駅は存在しません」


俺の言葉に、男は短く答えた。


「知ってる」


「それなのに、どうして降りろと言うんですか?」


「電車の中に残るよりはましだ」


「外に何があるかも分からないでしょう」


「分かっている」


その答えの方が、余計に不安だった。


電車が急激に減速した。


俺は吊り革をつかんだ。


車輪がレールを擦る音が、車両全体を震わせる。


窓の外の暗闇に、小さな明かりが一つずつ現れた。


最初は、トンネル内の照明だと思った。


近づくにつれ、その形が見えてくる。


人々が持っている灯籠だった。


数十人。


いや、それよりも多い。


古びた衣服をまとった人々が、線路の両側に立っていた。


顔は暗闇に隠れ、見えない。


全員が、電車へ顔を向けている。


列車が、その間を通り過ぎた。


灯籠を持つ人々の首が、電車の動きに合わせてゆっくりと回る。


どこまでも。


人間には不可能な角度まで。


俺は窓から目を逸らした。


「あれは、何ですか?」


黒いコートの男は答えなかった。


電車が完全に停車した。


ピンポーン。


扉が開いた。


外には、ホームがあった。


古いコンクリートの床。


錆びた柱。


かすかに点滅する白熱灯。


壁には、古びた駅名標が掛かっていた。


闇夜驛。


ヤミヨ駅。


文字の下には、黒く乾いた手形が無数に残されていた。


ホームには誰もいない。


遠くに、階段が一つ見えた。


その先は、暗闇に沈んでいる。


「降りろ」


男が言った。


俺は動かなかった。


「ミナミを見つけるまでは行けません」


「今のお前に、できることはない」


「あなたなら、できるんですか?」


男の表情が険しくなった。


「そのために、ここにいる」


そのとき、後方の車両から、扉が壊れる音が響いた。


ドンッ!


赤い光が消えた。


車内の照明が一斉に明滅する。


遠くから、乗客たちの声が聞こえてきた。


「席が空いております」


「お座りください」


「一緒に行きましょう」


声が急速に近づいてくる。


黒いコートの男が、俺の背中を押した。


俺は開いた扉の外へ、よろめくように降りた。


男も続いてホームへ飛び降りる。


同時に、列車の扉が閉まった。


窓の向こう側へ、乗客たちが一斉に押し寄せた。


目のない顔が、ガラスに張りつく。


その間に、長い髪の女が立っていた。


そして、その後ろ。


ミナミがいた。


今度は泣いていない。


虚ろな顔で、空席に座っていた。


「ミナミ!」


俺は扉へ駆け寄った。


黒いコートの男が、俺の肩をつかむ。


「放してください!」


電車が動き始めた。


俺は男の手を振りほどこうとした。


窓の中で、ミナミがゆっくりと顔を上げた。


目が合った。


唇が動く。


今度は、はっきりと読み取れた。


来ないで。


電車が速度を上げた。


俺は車両を追い、数歩走った。


「ミナミ!」


窓の中の姿が、暗闇へ遠ざかっていく。


最後尾の赤い明かりが消え、線路の上には何も残らなかった。


電車の走行音さえ、唐突に途切れた。


ヤミヨ駅には、俺と黒いコートの男だけが残された。


俺は肩で息をしながら、暗い線路を見つめた。


「あれは、本物のミナミでした」


「今度は、そうだったかもしれない」


「かもしれないって……」


俺は男の胸ぐらをつかんだ。


「あなたは何を知っているんですか? ここはどこで、あれはいったい何なんです?」


男は俺の手を外した。


強い。


大きく動いたようには見えなかったのに、手首が痺れた。


「説明は、生きて帰ってからだ」


「帰れるんですか?」


男が答えるより先に、駅の照明がすべて消えた。


暗闇が落ちてきた。


遠くの階段から、何かを引きずる音が聞こえる。


ざりっ。


ざりっ。


乾いた布か紙が、コンクリートの床を擦るような音。


黒いコートの男が、革鞄を床へ置いた。


カチリ。


留め金が外れる。


鞄の中から、淡い青色の光が漏れ出した。


男が、何かを取り出した。


腰に巻きつける装置のように見えた。


古びた金属と、黒い革で作られた器具。


中央には、眼球を思わせる丸いガラスが埋め込まれている。


ガラスの中では、黒い煙が生き物のように蠢いていた。


俺は、その装置を見つめた。


「それは、何ですか?」


男は答えなかった。


階段の上から聞こえる音が近づいてくる。


ざりっ。


ざりっ。


暗闇の中から、何十本もの白い手が手すりをつかんだ。


幾重にも重なった手が、ゆっくりと階段を下り始める。


男が装置を腰へ巻いた。


丸いガラスの中で、黒い煙が大きく波打った。


どこからともなく、低い声が響いた。


人間の声にも聞こえる。


古いラジオから流れるノイズのようにも聞こえた。


男は暗闇を見据えたまま言った。


「俺の後ろから離れるな」


その瞬間、階段の上から何十もの顔が一斉に覗いた。


すべて、ミナミの顔だった。


俺は息を止めた。


ヤミヨ駅の照明が、赤く明滅した。


そして、闇の中のミナミたちが、一斉に笑った。


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