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第2章 写真の中の乗客

家に帰ってからも、写真に映っていた指が頭から離れなかった。


玄関の扉を閉め、靴を脱いでいるときも。


冷蔵庫から水を取り出し、飲んでいるときも。


細く、青白い指。


空席の方から伸び、ミナミの鞄の持ち手をつかんでいるように見えた手。


もちろん、見間違いである可能性の方が高かった。


写真の画質はよくない。電車内の照明は、窓ガラスに複雑に映り込む。


座席の継ぎ目や誰かの服の裾が、たまたま指のように見えただけかもしれない。


俺は食卓に座り、もう一度スマートフォンを開いた。


ユカから送られてきた写真を拡大する。


指は、まだそこにあった。


「……何なんだ、これ」


口に出した途端、自分が余計に情けなくなった。


たった一枚の写真を前にして、一人で怯えている。


俺は画面の明るさを上げた。


今度は、窓に映り込んだ長い髪の影を確認する。


人間のように見えた。


うつむいたまま、ミナミの隣に座っている誰か。


だが、実際の座席には誰もいない。


窓の中にだけ、長い髪の女がミナミと並んで座っていた。


ほかの乗客が映り込んだ可能性もある。


向かい側や、少し離れた席に座っていた人間の姿が、窓の反射で重なって見えただけかもしれない。


それでも、おかしかった。


ただの反射なら、位置がずれているはずだ。


窓の中の影は、ミナミのすぐ隣に座っていた。


まるで、本当にそこにいるかのように。


膝の上に両手を置き、深くうつむいたまま。


そのうち片方の腕だけが異様なほど長く伸び、ミナミの鞄に触れていた。


俺は写真を回転させ、明るさを下げた。


今度はコントラストを上げてみる。


だからといって、俺に何かが分かるわけでもない。


画像編集といっても、スマートフォンの基本機能を適当に触っているだけだ。専門家でもない俺に、写真が加工されているかどうかを見抜く能力などなかった。


むしろ、画面を鮮明にするほど、長い髪の影ばかりがはっきりしていく。


髪の隙間から、顔のようなものまで見える気がした。


俺は拡大するのをやめた。


これ以上見続けていたら、写真の中の女が顔を上げるような気がした。


そんなことを考えた自分が馬鹿らしかった。


「怪談なんて、あるわけないだろ」


スマートフォンを裏返し、食卓の上へ置いた。


だが、画面を伏せたあとも、長い髪の姿は目の前に残っていた。


眠ろうとベッドへ入ったが、なかなか寝つけなかった。


目を閉じると、昨夜ミナミが店を出ていったときの姿が浮かんだ。


鞄を肩に掛け、従業員用の出入口から駆け出していく後ろ姿。


俺がもう少し早く片づけを手伝っていたら。


交代要員が遅れたとき、残りは自分がやると言っていたら。


ミナミが終電を逃していたら。


そうすれば、少なくともあの電車には乗らなかった。


何の意味もない考えだった。


そんなふうに責任を求め始めれば、弁当を交換しに戻ってきた客も、飲み物をこぼした客も、遅れてきた交代要員も、全員が悪いことになる。


実際には、誰もミナミを傷つけていない。


こんなことが起きると知っていた人間もいない。


俺だって同じだ。


それでも、最後にミナミと一緒に働いていたのが自分だという事実が、胸に引っかかった。


あの日、俺がいつもと違う行動を一つでも取っていたら、結果が変わっていたような気がした。


すでに起きてしまったことを前に、そんな想像をしても意味はない。


分かっているのに、考えるのをやめられなかった。


午前二時を過ぎても、眠気はやってこなかった。


結局、俺は再びスマートフォンを手に取った。


検索欄に単語を入力する。


『ミカゲ駅 終電 空席』


検索結果は、思っていたよりも少なかった。


古い個人ブログと匿名掲示板への書き込みがほとんどだった。


題名だけは怖そうでも、内容は大したことのない記事も多い。


終電で幽霊を見たという話。


席に座った途端に眠り込み、終点まで行ってしまったという話。


誰もいない車内で、何者かに名前を呼ばれたという話。


怖い話が好きな人間が、好き勝手に作ったものにしか見えなかった。


俺はいくつかの記事を読んでは、画面を下へ滑らせた。


内容もそれぞれ違っていた。


ある書き込みには、空席へ座った時点で終わりだと書かれている。


別の書き込みには、三駅以内に立ち上がれば助かるとあった。


隣の人間に話しかけられても、絶対に返事をしてはいけないという話もあった。


反対に、自分から声をかけなければ帰ってこられないと主張する者もいる。


目を閉じろという人間もいれば、絶対に目を閉じるなという人間もいる。


ここまでくると、一つの決まった怪談というより、それぞれが思いついたことを適当に付け足しているだけだった。


――やっぱり、ただの作り話か。


そう思いながらも、俺は検索をやめなかった。


やがて、十二年前に投稿された書き込みが目に留まった。


題名は短かった。


> 姉が終電で消えました


画面を押そうとした指が止まった。


本文の大半は削除されていた。


残っている文章は多くない。


> 警察は、家出の可能性があると言っています。

> でも、姉は家出するような人ではありません。

> 鞄も、財布も、スマートフォンも、全部持って出ています。

> 最後に確認されたのはミカゲ駅です。

> 姉は、そこから終電に乗りました。

> 前から二両目でした。


読み進めるうちに、口の中が乾いた。


ミナミと同じだった。


駅も。


終電も。


車両も。


電車に乗ったあと、どこにも姿が残っていないことまで。


コメント欄では、投稿者を馬鹿にする言葉が並んでいた。


『都市伝説の真似をしてるだけだろ』


『姉に嫌われて逃げられたんじゃないか』


『構ってほしくて作った話にしか見えない』


投稿者は最初のうち、一つ一つのコメントに返信していた。


姉は家族と不仲ではなかった。


家を出る理由もなかった。


ミカゲ駅の改札とホームの防犯カメラには姿が映っているのに、どの駅にも降りる姿は残っていない。


終点に到着した列車の中からも、発見されなかった。


コメントが増えるにつれ、投稿者の文章は短くなっていった。


説明も少なくなった。


最後に残されていたコメントは、一つだけだった。


> 同じ時間、同じ車両にもう一度乗ります。


それ以降、活動した記録はなかった。


新しい投稿もない。


コメントもない。


最終ログイン日時さえ表示されていなかった。


十二年前のあの日を最後に、そのアカウントの活動は完全に途絶えている。


それだけで、投稿者まで失踪したと断定することはできない。


単に掲示板を離れただけかもしれない。


別のアカウントを作ったか、姉のことをインターネットに書くのをやめた可能性もある。


それでも、最後の言葉が気になった。


同じ時間。


同じ車両。


俺はプロフィール画面を閉じられないまま、しばらく見つめていた。


別の検索結果を開く。


今度は、地域コミュニティに投稿されていた文章の転載だった。


元の記事は、すでに削除されているらしい。


> 終電で空席を見つけても、座らないでください。


本文は短かった。


> 車内が混んでいても、その席だけは空いています。

> ほかの人たちが空席を見ても座ろうとしないなら、近づかないでください。

> 周囲の人たちを、何度も見ないでください。

> その人たちは、乗客ではないかもしれません。


コメント欄には、いくつもの質問が並んでいた。


『何線ですか?』


『何時の電車ですか?』


『本当に見たんですか?』


投稿者が残した返事は、一つだけだった。


> 前から二両目。


俺はスマートフォンを置いた。


部屋の中が、異様なほど静かだった。


冷蔵庫のモーターが回る音。


壁時計の秒針が動く音。


遠くを車が走り抜ける音。


どれも普段から聞こえているはずなのに、今夜は妙に大きく感じられた。


ただのネット怪談だ。


ミナミの事件と、偶然似ているだけだ。


そう考えるには、説明しなければならないことが多すぎた。


同じ駅。


同じ終電。


同じ位置の車両。


電車に乗り込む姿は残っているのに、降りる姿はどこにもない。


そして、写真の中にだけ存在する乗客。


結局、空が明るくなるまで、まともに眠ることはできなかった。



朝、目を覚ますと、警察官から受け取った名刺が真っ先に頭に浮かんだ。


電話をかけるべきかと考えた。


写真の中の影と古い掲示板の書き込みについて伝えれば、捜査の役に立つかもしれない。


だが、ユカはすでに警察へ写真を見せたと言っていた。


警察は、インターネット上の怪談にすぎないと答えた。


写真の中の影を見落とした可能性もある。


気づいていたとしても、単なる反射か撮影時の不具合だと判断したのだろう。


俺が改めて警察を訪れ、掲示板の書き込みを見せたところで、反応が変わるとは思えなかった。


何より、俺自身がまだ信じ切れていなかった。


インターネットで似た話を見つけたというだけで、ミナミが怪談の電車に連れ去られたなどと主張できるはずがない。


出勤の支度をしながら、店長へ連絡を入れた。


体調が悪いので、一日休ませてほしいと伝えた。


まったくの嘘というわけでもなかった。


ほとんど眠れなかったせいで、頭は重く、吐き気もする。


店長はしばらく文句を言っていたが、警察が来たことを気にしているのか、いつものように長く引き止めようとはしなかった。


午前十時を少し過ぎたころ、俺はミカゲ駅へ向かった。


昼間の駅は、あまりにも普通だった。


人々は交通系ICカードをかざし、改札を通り抜けていく。


案内放送は決められた時刻に合わせて流れ、学生たちは友人と笑いながらホームへ下りていった。


会社員たちはスマートフォンを眺めながら、電車を待っている。


昨夜遅くまで怪談を調べていた自分が、馬鹿に思えるほどだった。


俺は改札横の駅事務室へ向かった。


ガラス窓の向こうには、中年の駅員が座っていた。


「すみません」


駅員が顔を上げる。


「どうされましたか?」


俺はスマートフォンを取り出し、ミナミの写真を見せた。


「この写真に写っている車両について、聞きたいことがあります」


駅員の視線が、写真と俺の顔の間を行き来した。


「どのようなご用件でしょうか?」


「この写真を撮った人が、行方不明になっています」


駅員の表情がわずかに固くなった。


「警察の捜査に関することでしたら、必要な資料はすでに提出しております」


「捜査をしに来たわけではありません。写真の座席について確認したいだけです」


「一般のお客様に、車両の運行記録をお見せすることはできません」


「運行記録までは必要ありません」


俺は写真を拡大した。


「この座席配置が、今走っている電車と同じかどうかだけ見てもらえませんか」


駅員はすぐにはスマートフォンを受け取らなかった。


ガラス越しに画面をのぞき込む。


その表情が変わった。


ほんの一瞬だった。


だが、俺は確かに見た。


驚いていた。


駅員はガラス窓の下にある小さな受け渡し口から手を伸ばした。


「少し、拝見してもよろしいですか?」


俺はスマートフォンを渡した。


駅員は写真を拡大した。


座席と窓。


天井の照明。


車両の端。


それぞれを何度も見比べていた。


その指先が、かすかに震えていた。


「どうかしたんですか?」


「……この写真は、どこで手に入れたんですか?」


「行方不明になったミナミが、友人へ送ったものです。消える直前に」


駅員は写真から目を離さなかった。


「いつ撮影されたものですか?」


「一昨日の夜です」


彼はゆっくりとスマートフォンを返した。


「この内装の車両は、現在使われていません」


「どういう意味ですか?」


「この座席配置は旧型車両のものです。数年前に、すべて新型車両へ置き換えられました」


「でも、ミナミは一昨日の夜にこれを撮ったんです」


「撮影日時を勘違いしているのではありませんか?」


「メッセージで、その場から送ってきています」


「以前に撮影した写真を送った可能性もあるでしょう」


「ミナミは、その場で撮ったと言っていました」


駅員は唇を固く結んだ。


俺は、その顔をじっと見た。


「一昨日の終電に、旧型車両が使われたんじゃないんですか?」


「違います」


今度の答えは、はっきりしていた。


「一昨日、ミカゲ駅の終電に使われたのは新型車両です」


「確認したんですか?」


駅員は一瞬、ためらった。


「運行記録にも、そう残っています」


「防犯カメラは?」


「ホームの映像にも、新型車両が映っています」


俺はスマートフォンの画面へ視線を落とした。


ミナミが座っていた古びた座席。


旧式の窓枠。


黄ばんで見える天井照明。


「では、この写真は何なんですか?」


駅員は答えなかった。


「ミナミは、新型車両に乗ったんですよね?」


「……そうです」


「それなのに、どうして写真の中は旧型なんですか?」


駅員は周囲を見回した。


ほかの職員や乗客が、俺たちの話を聞いていないか確かめているようだった。


声が低くなった。


「だから、おかしいんです」


ガラス窓の下で、その指先がかすかに震えた。


「あの日、運行していた列車に、こんな内装の車両はありませんでした」


俺はすぐに尋ねた。


「以前にも、同じことがあったんですか?」


駅員は口を閉ざした。


「昔、行方不明になった人がいますよね? ミカゲ駅の終電で」


「どこで、その話を?」


「インターネットで見ました」


「インターネットには、事実と異なる話も多くあります」


「事実と違うんですか?」


駅員は答えなかった。


「では、そんな事件はなかったんですか?」


しばらく黙ったあと、駅員は口を開いた。


「少なくとも、私の立場からお話しできるような事例はありません」


否定しているようで、否定にはなっていなかった。


なかったとは言わない。


話せないと言った。


「何か知っているんでしょう」


「お帰りください」


「写真の車内がなぜ旧型なのか、知っているんですか?」


「知りません」


「では、どうして怖がっているんですか?」


駅員の表情が固まった。


彼はガラス窓の下にある受け渡し口を閉めようとした。


「これ以上、お話しできることはありません」


「待ってください」


閉まりかけた扉が止まった。


駅員はしばらく、俺の顔を見つめていた。


そして、周囲には聞こえないほど小さな声で言った。


「今夜は、終電を利用しない方がいい」


心臓が大きく脈打った。


「なぜですか?」


「……特に、前から二両目には乗らないでください」


「何が起こるんですか?」


駅員は答えなかった。


小さな扉が完全に閉じられた。


彼は椅子を回し、こちらに背を向けた。


ガラスを叩いても反応しない。


俺はしばらく、駅事務室の前に立ち尽くしていた。


今夜は終電を利用するな。


特に、前から二両目には乗るな。


単なるネット怪談を読んだだけで出てくる言葉ではなかった。


駅員も知っている。


何を知っているのかは話さなかったが、少なくとも、何も起きていないとは思っていない。


俺は駅の外へ出た。


日差しが目に刺さった。


カフェの前にはランチメニューを書いた立て看板が置かれ、宅配業者がカートに箱を積んでいた。


自転車に乗った学生が、友人の名前を呼びながら通り過ぎていく。


何もかもが普通だった。


そんな平凡な街の真ん中で、自分だけが異常な話を聞いてきたような気がした。


スマートフォンが鳴った。


ユカからのメッセージだった。


> 何か分かりましたか?


少し迷ってから返信する。


> 写真の電車は、旧型車両だそうです。

> 数年前にすべて入れ替えられて、今はもう走っていないそうです。


すぐに返事が届いた。


> では、ミナミが撮ったのは何なんですか?


答えられなかった。


俺も知りたかった。


ミナミが何に乗ったのか。


正常な電車の中が、いつからあの古びた車両へ変わったのか。


それとも、最初から俺たちの知らない別の何かに乗っていたのか。


俺は近くのベンチへ座り、検索欄を開いた。


『ミカゲ線 旧型車両』


『ミカゲ線 車両置き換え』


『廃車 運行記録』


写真を比較すると、駅員の言葉が正しいことが分かった。


ミナミが撮影した車両は、現在走っている新型車両とは明らかに違っていた。


窓の形。


座席端の構造。


天井照明の配置。


出入口上部にある案内表示の形。


どれも十年以上前に運行を終了した旧型車両と、ほぼ一致している。


だが、完全に同じではなかった。


過去に撮影された車内写真には、座席の端に金属製の手すりがあった。


ミナミの写真には、それがない。


代わりに、同じ場所へ細長い黒い染みが残っていた。


まるで、誰かが同じ場所を何度も手で擦ったかのように見えた。


俺は検索範囲を広げた。


『ミカゲ線 終電 失踪』


『ミカゲ駅 女子大学生』


『ミカゲ線 前から二両目』


そこで、古い地方新聞の記事を見つけた。


インターネット上に残されているのは、見出しと短い要約だけだった。


> ミカゲ線終電で女子大学生失踪

> 乗客一名が行方不明、捜索難航


記事の日付は、十八年前だった。


詳しい内容を読むには、市立図書館に保管されている新聞資料を確認する必要がある。


俺は画面に表示された新聞名と日付を保存した。


そして、すぐに図書館へ向かった。



図書館の地下には、古い新聞を保管している資料室があった。


職員へ新聞名と日付を伝えると、マイクロフィルムの閲覧方法を教えてくれた。


使ったことのない機械だったため、何度も該当箇所を通り過ぎた。


日付を間違え、まったく関係のない記事ばかり眺めることもあった。


二十分近く格闘した末、ようやく目当ての記事が現れた。


見出しは、インターネットの検索結果に表示されていたものと同じだった。


> ミカゲ線終電で女子大学生失踪


記事は長くなかった。


十八年前、当時大学生だった女性が、ミカゲ駅から終電へ乗った。


同じ車両にいた乗客たちは、女性が車両端の座席へ座っていたと証言している。


列車はすべての駅で正常に扉を開き、終点へ到着した。


だが、女性は消えていた。


終点で車内を確認した職員は、座席の下に落ちていた女性の所持品の一部だけを発見した。


どの駅の防犯カメラにも、女性が降りる姿は映っていなかった。


運行中に列車が異常停止した記録も、駅以外の場所で扉が開いた記録もない。


警察と鉄道会社は線路やトンネルの周辺を捜索したが、何も発見できなかった。


記事の最後には、警察が事故や自発的な失踪を含め、複数の可能性を調べていると書かれていた。


俺は翌日の新聞を確認した。


その次の日も。


捜索継続。


目撃情報なし。


家族が情報提供を呼びかける。


一週間後から、記事は目に見えて小さくなっていった。


一か月が過ぎると、関連する記事は見つからなくなった。


女性は、結局発見されなかったらしい。


俺は女性の名前をメモした。


昨夜読んだ掲示板の書き込みが頭に浮かんだ。


『姉が終電で消えました』


投稿者の名前を改めて検索する。


十八年前に失踪した女子大学生の家族を取り上げた記事には、弟の名前も記載されていた。


掲示板の投稿者と同じ名前だった。


あの書き込みは、誰かが作り上げた怪談ではなかった。


十八年前に姉を失った弟本人が書いたものだった。


俺は、それ以降の日付の新聞も調べた。


姉が消えてから六年間、弟は家族と一緒にビラを配り、目撃者を捜し、警察や鉄道会社へ再調査を求め続けていたらしい。


ときおり、地方新聞に短いインタビュー記事が掲載されていた。


だが、時間が経つにつれ、その記事も少なくなっていった。


そして、十二年前。


小さな記事が一つ見つかった。


紙面の隅に掲載されていたため、最初は通り過ぎるところだった。


> 姉を捜していた男性が行方不明

> ミカゲ駅から終電に乗車


俺は画面を拡大した。


記事に掲載された名前は、掲示板の投稿者と同じだった。


男性は失踪した日、家族にこう告げていたという。


姉が消えた電車を、自分で確かめてくる。


ミカゲ駅の防犯カメラには、彼が終電の改札を通り、前から二両目の車両へ乗り込む姿が残されていた。


しかし、姉と同じように、どの駅にも降りる姿は映っていなかった。


終点に到着した車内からも、発見されなかった。


掲示板に残された最後のコメントどおりだった。


同じ時間。


同じ車両。


姉が消えてから六年間、その行方を捜し続けた弟は、最後に同じ終電へ乗った。


そして、姉と同じように消えた。


俺は椅子の背に身体を預けた。


背筋を冷たいものが伝っていった。


十八年前に消えた女子大学生。


十二年前、姉を捜すため同じ列車へ乗った弟。


そして、ミナミ。


三人とも、ミカゲ駅の終電へ乗ったあとで消えている。


前から二両目。


車両端の空席。


電車へ乗り込む姿は残っているのに、降りる姿はどこにもない。


警察は見つけられなかった。


鉄道会社も説明できなかった。


そして駅員は、俺にその車両へ乗るなと警告した。


もう、単なるネット怪談として片づけることはできなかった。


同じ条件で、同じことが繰り返されている。


俺は資料室を出ると、ユカへ電話をかけた。


数回の呼び出し音のあと、ユカが出た。


『もしもし?』


「ミナミが送った写真、元の画質のまま残っていますか?」


『元の画質?』


「俺が今持っているのは、メッセージアプリから保存した画像です。圧縮されているかもしれません。ミナミが送ったファイルが、オリジナル画質のまま残っていないか確認してください」


電話の向こうから、ユカがスマートフォンを操作する音が聞こえた。


『ちょっと待ってください』


俺は図書館の廊下の奥へ移動した。


しばらくして、ユカが言った。


『画像の詳細情報に、オリジナル画質と表示されています』


「ミナミは、写真をオリジナル画質で送る設定にしていたんですか?」


『たぶん。写真を撮るのが好きで、画質が落ちるのを嫌がってたから』


ミナミらしい話だった。


コンビニの新商品や学校行事の写真を撮っては、ユカへ送っていたのかもしれない。


「その画像を保存し直したり編集したりせず、そのままファイルとして送ってもらえますか?」


『はい。でも、急にどうしたんですか?』


「撮影日時などの情報が残っているか確認したいんです」


『何か見つけたんですか?』


すぐには答えられなかった。


十八年前の女子大学生と、十二年前に消えた弟の記事について、そのまま話すべきか迷った。


ユカを余計に不安にさせるかもしれない。


だが、すでに友人が消えている。


何でもないと嘘をつくのも正しくない。


「以前にも、よく似た事件がありました」


電話の向こうが静かになった。


『怪談が本当だっていうんですか?』


「まだ分かりません」


『でも、似た事件があったんですよね?』


「十八年前、同じ駅から終電へ乗った女子大学生が消えています。その六年後には、その人の弟も同じ列車へ乗り、行方不明になりました」


ユカが息をのむ音が聞こえた。


『それじゃ、ミナミも……』


「同じことが起きたとは断定できません」


自分でも信じられないまま、そう口にしていた。


同じ駅。


同じ車両。


同じように消えている。


それでも、ただの偶然かもしれないと言う。


そうでもしなければ、ユカが崩れてしまいそうだった。


「ひとまず、写真を送ってください」


『分かりました』


通話を切ってしばらくすると、ファイルが届いた。


ミナミは写真をオリジナル画質で送信していた。


そのため、ユカのスマートフォンにも、撮影情報を含んだファイルが残っていた。


俺は画像の情報を確認した。


撮影時刻は、ミナミが失踪した日の午後十一時五十七分。


スマートフォンの機種と、カメラの撮影設定も記録されていた。


少なくとも、俺が確認できる範囲では、目立った編集の痕跡は見当たらなかった。


もちろん、それだけで加工されていないと断定することはできない。


俺は、そうしたものを専門的に調べられる人間ではない。


撮影情報の見方を知っていることと、偽造を見抜けることはまったく別だ。


それでも、ミナミが失踪した時間に撮影された写真だということだけは確認できた。


俺は元の画像ファイルをパソコンへ移し、大きく拡大した。


スマートフォンの画面ではぼやけていた部分が、少しだけ鮮明になった。


窓に映る、長い髪の影。


ミナミの鞄の持ち手をつかむ、青白い手。


そして、向かい側の乗客たち。


最初は、疲れた人々の顔にしか見えなかった。


拡大すると、異常な点が浮かび上がった。


向かいに座る会社員には、目がなかった。


目を閉じているのではない。


目があるはずの場所が、滑らかな皮膚に覆われていた。


隣に座る女も同じだった。


鼻と口は見える。


だが、目だけがない。


ほかの乗客も一人ずつ拡大した。


全員が同じだった。


顔はあるのに、目がない。


俺は画面から少し離れた。


ミナミは、あれらと同じ車両に乗っていた。


いや。


写真に映っているものが、本当に人間だったのかさえ分からない。


写真の端には、出入口上部の案内表示が小さく映り込んでいた。


俺は、その部分を拡大した。


文字が崩れている。


四角い記号の間に、一文字だけかすかに見えた。


夜。


その後ろにも何か書かれていたが、形が潰れていて読み取れない。


ミカゲ線には、「夜」で始まる駅はない。


過去の路線図まで調べたが、同じだった。


だが、地域の古い地図資料から、見慣れない名前が一つ見つかった。


闇夜。


読みは、ヤミヨ。


文字どおり、暗い夜を意味する。


駅名ではない。


現在のミカゲ線が建設される前、トンネルの工事区間近くに存在していた小さな集落の名前だった。


記録には、十数年前に住民が全員移住し、消滅した場所だと書かれていた。


地図で位置を確認する。


ミカゲ駅と次の駅の間。


長いトンネルが通る山の真下だった。


警察の話では、ミナミのスマートフォンは電車へ乗ったあと、ほどなくして電波が途絶えている。


正確な基地局の位置も、通信記録も、俺には分からない。


だが、撮影時刻と終電の運行時間を照らし合わせれば、列車がこのトンネル付近を通過したころと重なる可能性はあった。


それ以上は、ただの推測だ。


ミナミがトンネルを通過したとき、何を見たのか。


写真の車両が、いつ旧型へ変わったのか。


なぜ案内表示に、消滅した集落の名前が現れたのか。


何一つ、確かなことは分からなかった。


俺は時計を見た。


午後六時を少し過ぎている。


終電までは、まだ時間があった。


今夜、自分の目で確かめるべきだ。


そんな考えが浮かんだ。


そう思った直後、自分でもどうかしていると思った。


すでに二人が消えている。


駅員も、乗るなと警告していた。


俺があの列車へ乗ったところで、ミナミを見つけられる保証などない。


何より、俺はミナミと三か月ほど一緒に働いただけのアルバイト仲間だ。


友人でもなければ、家族でもない。


命を懸ける理由があると言うには、あまりにも浅い関係だった。


だが、そう考えたことで、余計に胸の奥がざらついた。


関係が浅ければ、消えた人間を見て見ぬふりをしてもいいのか。


警察に資料を渡し、あとは待つ。


それが最も正常な判断だった。


だから、まずはこれまでに見つけた記事と写真の情報を整理し、担当の警察官へ渡すことにした。


そのあとは家へ帰る。


それが正しい。


それでも、駅員の言葉が何度も頭に浮かんだ。


今夜は、終電を利用しない方がいい。


特に、前から二両目には乗らないでください。


あの言葉は、今夜も何かが現れるという意味に聞こえた。


自分で乗るのは駄目だ。


それくらいの判断はできた。


俺は電車の中へ入るつもりはなかった。


ホームから、終電が入ってくる様子を見るだけでいい。


前から二両目が、正常な新型車両なのか。


扉が開いたとき、写真と同じ旧型の内装が見えるのか。


あの空席や、異様な乗客がいるのか。


写真と同じ車両が現れたら、すぐに警察へ連絡する。


絶対に乗らない。


扉が開いても、中へは入らない。


それくらいなら、危険はないように思えた。


ただ、ホームから見るだけだ。


スマートフォンが鳴った。


ユカからのメッセージだった。


> 写真、確認しましたか?


少し迷ってから返信する。


> はい。


> 何かありましたか?


画面の上で指が止まった。


目のない乗客たち。


ミナミの鞄をつかんでいる手。


消滅した集落の名前。


そのまま話せば、ユカが自分で駅へ来るかもしれない。


俺は短く入力した。


> まだ確かなことはありません。

> 今日は必ず、家にいてください。


返事はすぐに届いた。


> どういう意味ですか?

> 今から、どこへ行くつもりなんですか?


俺は、それ以上返信しなかった。


図書館の外へ出ると、日が沈みかけていた。


空が暗くなり、街灯が一つずつ点き始めている。


昼間は平凡だったミカゲ駅の周囲が、少しずつ違う姿へ変わっていった。


出勤する人々に代わり、家路を急ぐ者たちが集まり始めている。


夜が深くなれば、その数も減っていく。


そして、午後十一時五十二分。


ミカゲ駅に終電が入ってくる。


俺は駅前に立ったまま、しばらく動けなかった。


今からでも帰るべきだった。


警察へ資料を渡し、家で連絡を待つ。


それが正常な判断だ。


だが、足は駅と反対の方向へ動かなかった。


結局、俺は近くのカフェへ入った。


終電の時刻まで、そこで待つことにした。


怪談を信じたわけではない。


ホームから確認するだけだ。


電車には乗らない。


同じ時間。


前から二両目。


ミナミが最後に乗った列車を。


それだけを確かめるつもりだった。


そのときまでは、本当にそう思っていた。


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