第一章 来なかったミナミ
翌日、ミナミはバイトに来なかった。
最初は、誰も深刻には考えていなかった。
「連絡もなしに休まれると困るんだけどな」
店長はシフト表を見下ろしながら、眉間にしわを寄せていた。
俺は飲料ケースの前にしゃがみ込み、届いたばかりの商品を補充していた。冷えた缶を一本ずつ奥へ押し込むたび、指先がかじかんでいく。
「電話はしたんですか?」
「朝から何度もしてる。出ないんだよ」
「学校に行ってるんじゃないですか」
「だったら、せめて連絡くらいするだろ」
店長はそう言いながら、もう一度スマートフォンを耳に当てた。
呼び出し音が何度か鳴る。
しかし、誰も出なかった。
俺も、その時点では大したことではないと思っていた。
ミナミは高校生だ。
寝坊したのかもしれないし、スマートフォンを家に忘れたまま学校へ行ったのかもしれない。
急に学校行事が入った可能性もある。体調を崩して、そのまま眠っているだけかもしれない。
無断欠勤が褒められたことではないのは確かだ。
けれど、一日連絡がつかないからといって、すぐに何かあったと考える理由もなかった。
俺は冷蔵ケースの扉を閉め、空になった段ボール箱を畳んだ。
「今日の代わりは?」
「まだ見つかってない」
店長がため息をつく。
心配しているというより、シフトが崩れたことの方が問題だという顔だった。
「夕方まで連絡がなかったら、二時間だけ延長できないか?」
「今日は予定があります」
予定なんてなかった。
けれど、あると言った。
一度引き受ければ、次も頼まれるに決まっている。ミナミみたいに、そのたび断れず残るつもりはなかった。
店長は残念そうな顔をしたが、それ以上は引き止めなかった。
「分かった。他を当たるよ」
俺は畳んだ箱を倉庫へ運んだ。
その途中で、昨夜ミナミが言っていたことを思い出した。
来月からは、終電ぎりぎりになるシフトを外してもらうという話。
金が必要だから、今月いっぱいだけは我慢するという話。
そのとき俺は、深く考えもせず、早く帰った方がいいと言った。
終電を逃したら、タクシー代の方が時給より高くつくだろ、と。
ミナミは笑っていた。
その笑顔が、妙にはっきりと思い出された。
俺は首を振った。
何でもない。
そう思った。
午後三時を少し回ったころ、警察が来た。
制服姿の警察官が二人。
一人は四十代くらいに見え、もう一人はずっと若かった。
自動ドアが開き、二人が店内へ入ってきた瞬間、店長の表情が固まった。
「何かございましたか?」
年上の警察官が身分証を見せた。
「ミカゲ警察署の者です。ミナミ・サキさんについて、いくつか確認したいことがあります」
店長の顔から苛立ちが消えた。
「ミナミですか?」
「こちらでアルバイトをしている学生で間違いありませんか?」
「はい。ですが、何があったんですか?」
警察官はすぐには答えなかった。
店内を一度見回したあと、事務所で話せるかと尋ねた。
店長が二人を奥へ案内する。
俺はレジに残って、客の対応をした。
おにぎりを二つと缶コーヒーを買った会社員。
公共料金を払いに来た老人。
荷物を送りに来た主婦。
何もかも、いつもどおりだった。
商品がスキャナーの上を通るたび、電子音が鳴る。レシートが吐き出され、客はそれを受け取って帰っていく。
その平凡さが、かえって妙だった。
事務所の扉の向こうからは、低い話し声だけが聞こえてくる。
内容までは分からなかった。
十分ほどして、店長が扉を開けた。
顔色が悪い。
「ちょっと来てくれ」
俺を呼んだ。
事務所の中は狭く、三人が座っているだけでも窮屈だった。俺は扉のそばに立った。
年上の警察官が手帳を開く。
「昨夜、ミナミ・サキさんと一緒に勤務していたそうですね」
「はい」
「最後に見たのは何時ごろですか?」
俺は少し考えた。
「十一時四十五分前後だったと思います」
「正確ですか?」
「そこまでは覚えていません。夜勤との交代が遅れて、普段より遅く店を出ました」
「遅れたのは誰ですか?」
「夜勤担当です」
若い警察官がメモを取った。
「ミナミさんは一人で帰りましたか?」
「はい」
「どこへ向かうか聞いていましたか?」
「ミカゲ駅に行くと言っていました。終電に乗らないといけないとも」
年上の警察官が顔を上げた。
「普段と違う様子はありませんでしたか?」
「ありませんでした」
答えてから、もう一度考えた。
本当になかったか。
疲れては見えた。
けれど、それはいつものことだった。学校帰りにバイトへ来る高校生が、毎日元気そうにしている方が珍しい。
「誰かと揉めていたり、妙な客と問題になったりしたことは?」
「俺が見た範囲ではありません」
「最近、誰かにつけられているとか、怖い思いをしたという話を聞いたことはありませんか?」
「ありません」
警察官は角度を変えながら、似たような質問を繰り返した。
家族の話をしていたか。
学校生活がつらいと言っていたか。
交際相手がいるようだったか。
家出を匂わせる発言をしたことはあるか。
答えられることは、ほとんどなかった。
俺はミナミのことを、よく知らなかった。
一緒に働き始めて三か月ほど。
どこの学校に通っているのかも知らなかったし、家族が何人いるのかも知らない。
好きな食べ物については、コンビニの新商品を食べながら何度か聞いた気がする。
イチゴ味は好きで、チョコミントは嫌いだったと思う。
その程度だ。
シフトが重なる日は一緒に品出しや掃除をして、客がいないときに少し話をする。休憩中には、廃棄予定の商品の中から食べられそうなものを選んで分け合った。
親しいと言えるほどではない。
けれど、ただの他人と言い切るには、少しだけ近い。
その曖昧な距離が、急に居心地の悪いものに思えた。
警察官が手帳を閉じた。
「ミナミさんは昨夜、自宅に戻っていません」
俺は、その言葉の意味をすぐには理解できなかった。
「家に帰ってないんですか?」
「保護者が未明に届け出ています」
「家出ですか?」
「現時点では分かりません」
警察官は言葉を選んでから続けた。
「ミカゲ駅で電車に乗った姿は確認されています」
「なら、そのあとを追えばいいんじゃないですか?」
「問題は、そのあとです」
彼はしばらく俺を見た。
「ミナミさんが電車を降りた姿は、どの駅の防犯カメラにも残っていません」
「どういう意味ですか?」
「言葉どおりです」
ミカゲ駅の改札を通る姿。
階段を下り、ホームへ向かう姿。
前から二両目の車両に乗り込む姿。
そこまでは防犯カメラに残っていた。
けれど、それ以降、どの駅の防犯カメラにも、ミナミが降車する姿は映っていなかった。
終点に着いた車内を清掃員が確認したときも、彼女の姿はなかった。
スマートフォンの電波は乗車後、ほどなく途絶えた。
交通系ICカードの利用履歴も、それ以降は残っていない。
「車内カメラは?」
俺の質問に、若い警察官が目を逸らした。
年上の警察官が代わりに答えた。
「該当車両の映像データは破損していて、現在、復旧を試みています」
「よりによって、その車両だけですか?」
警察官は答えなかった。
俺は店長を見た。
店長も初めて聞いたらしく、顔がこわばっている。
「じゃあ、人が電車の中で消えたってことですか?」
「そう断定したわけではありません」
「でも、乗ったのに降りてないんですよね」
「捜査中です」
警察官の声が硬くなった。
これ以上は聞くな、という意味だった。
二人はミナミの最近のシフト表と、従業員の連絡先を持って帰った。
店を出る前、年上の警察官が俺に名刺を差し出した。
「何か思い出したことがあれば、ご連絡ください。どんな些細なことでも構いません」
俺は名刺を受け取り、ポケットへ入れた。
警察官たちが帰ったあと、しばらく誰も口を開かなかった。
自動ドアが開くたび、聞き慣れた入店音が鳴る。
その音が、いつもより妙に大きく聞こえた。
先に口を開いたのは店長だった。
「警察が来たって噂になったら困るな」
俺は店長を見た。
「人が消えたのに、今それが問題なんですか?」
「心配してないって言ってるんじゃないだろ」
「そう聞こえます」
店長は顔をしかめた。
「じゃあ、俺たちに何ができるんだ? 警察だって捜してる」
その言葉は間違っていなかった。
警察が捜している人間を、俺たちが先に見つけられるはずがない。
俺はただのアルバイトだ。
捜査の経験もなければ、ミナミがどこに住んでいるかさえ知らない。
俺にできることは何もなかった。
それでも、胸のどこかに引っかかるものがあった。
昨夜、俺がもう少し早く片づけを手伝っていたら。
夜勤担当が遅れたとき、自分が残って引き継ぎをすると言っていたら。
ミナミに終電を逃させていたら。
そうすれば、少なくともあの電車には乗らなかった。
意味のない仮定だ。
そんなことを言い始めれば、飲み物をこぼした客も、商品を交換した客も、遅れてきた夜勤担当も、全員に責任があることになる。
実際には、誰も悪くない。
それでも、ミナミが最後に笑って店を出ていく姿を見たのが自分だという事実は、胸に残った。
夕方の担当が来たあと、俺は予定どおり店を出た。
約束があると嘘をついたが、行く場所などなかった。
家へ帰ろうとして、足を止める。
ミカゲ駅の方向だった。
行く理由はない。
警察がすでに確認しているはずだ。
防犯カメラも見たし、ホームも電車も調べたはずだった。
俺が行ったところで、何かを見つけられる可能性はない。
それでも、足はそちらへ向かった。
ミカゲ駅前は、仕事帰りの人々で混み合っていた。
電話をしながら足早に歩く人。
酔って同僚の肩にもたれている人。
駅前で待ち合わせをしている学生たち。
昨夜は、ミナミもこの人混みの中にいたのだろう。
俺は改札の前に立ち、しばらく中を眺めていた。
ICカードをかざせば入れる。
けれど、入ってどうする。
今は終電の時間でもない。どの車両に乗ったのかだって、警察の方が詳しく知っている。
俺は結局、改札に背を向けた。
そのとき、後ろから声をかけられた。
「あの」
制服姿の女子高生だった。
目元が赤く腫れている。
彼女は、コンビニのロゴが入った俺の名札を見ていた。
退勤時に外すのを忘れていたらしい。
「ミナミが働いてるコンビニの人ですよね?」
俺は名札を外し、ポケットへしまった。
「そうです」
「昨日、一緒に働いてた人は誰ですか?」
「俺です」
女子高生の表情がこわばった。
責められているように感じて、一瞬言葉に詰まった。
だが、彼女はすぐにスマートフォンを取り出した。
「ミナミが最後に連絡したの、私なんです」
「あなたは?」
「ユカです。同じクラスの」
彼女は画面をこちらへ差し出した。
トーク画面には、ミナミの名前が表示されていた。
最初は、何でもない内容だった。
今日も終電だという話。
店長に遅い時間のシフトを外してほしいと言えなかったという話。
ユカが「また言えなかったの?」とからかい、ミナミが「今月までだから」と返したメッセージ。
俺が知っているミナミそのものだった。
普通だった。
だからこそ、その先が異様だった。
途中から、やり取りの内容が変わっている。
> なんかここ、ちょっと変。
> 何が?
> 席空いてるのに誰も座らない。
> みんな見たあと隣の車両に行く。
その下に、写真が一枚あった。
車両の端にある窓際の席。
ミナミの膝と、鞄の一部が映っている。
写真だけを見れば、特別なものは何もなかった。
「これは?」
「ミナミが座った席です」
「ただの座席じゃないんですか?」
ユカの顔が固まった。
「私も、最初はそう思いました」
彼女は画面を下へ送った。
ユカが送ったメッセージが続いている。
> 何でそこに座ったの?
> 今すぐ立って。
> 早く。
> 絶対に後ろを見ないで。
俺は画面から目を離した。
「どうして、こんなことを送ったんですか?」
ユカは唇を噛んだ。
「前にネットで見たことがあったんです」
「何を?」
「終電の空席」
その名前を聞いた瞬間、馬鹿馬鹿しいと思った。
「怪談ですか?」
ユカがうなずく。
「ミカゲ駅の終電にだけ現れる席なんです。前から二両目の車両。そのいちばん端に、いつも一つだけ空いてる席があるって」
「そこに座ると?」
「消えるって書いてありました」
俺は何も言わなかった。
ユカが焦ったように続ける。
「私だって、信じてたわけじゃありません。クラスのグループチャットに誰かがリンクを貼って、それで読んだだけです」
「なのに、写真を見てすぐ分かったんですか?」
「座席の場所も、車両も同じだったんです。前から二両目の、いちばん端。窓の前の席」
「そんな席、どの車両にもあるでしょう」
少し冷たい言い方になった。
ユカの顔がこわばる。
「じゃあ、ミナミがどこにいるのか説明してくださいよ」
「俺にも分かりません」
「警察だって分からないんです。電車に乗ったのに、一度も降りてないって」
「だからって、怪談が本当になるわけじゃないでしょう」
ユカは口を閉ざした。
また目元が赤くなる。
そこでようやく、見当違いな相手に怒りをぶつけたことに気づいた。
ユカも怖いのだ。
友人から最後の連絡を受けながら、ちゃんと止められなかった。その罪悪感から、怪談という説明に縋ろうとしている。
俺と大して変わらなかった。
「すみません」
俺はため息をついた。
「警察には見せましたか?」
「はい。でも、ネットの怪談にすぎないって」
その反応が普通だった。
人が失踪したからといって、都市伝説が現実になるわけではない。
誰かにあとをつけられていたのかもしれない。
カメラの死角を通って、別の車両へ移った可能性だってある。
現実的な説明なら、いくらでも考えられる。
怪談よりは、その方がずっとあり得る。
そのはずだった。
それでも、写真が気になった。
俺はもう一度スマートフォンを受け取り、画面を拡大した。
ミナミが座っているのが、噂の「終電の空席」らしい。
その隣には、誰も座っていない。
窓ガラスには、車内の様子がぼんやりと反射していた。
ミナミの腕。
向かい側の乗客たち。
天井から下がるつり革。
そして、ミナミの隣にある空席。
そこに、誰かが座っていた。
黒い人影だった。
長い髪のようなものが、顔を覆っている。
俺は目を細めた。
「この人は誰ですか?」
ユカが画面をのぞき込む。
「どこですか?」
「ここです」
俺が指をさすと、ユカの顔から血の気が引いた。
「いませんでした」
「ミナミの隣に、別の人がいたのかもしれないでしょう」
「写真を送ってきたとき、ミナミは隣には誰もいないって言ってました」
「窓の反射で、位置がずれて見えただけかもしれません」
「そうかもしれませんね」
ユカはそう言ったが、まるで信じていない顔だった。
俺も確信は持てなかった。
写真の中の影は、別の乗客の反射にしては、あまりにも正確に空席の上へ収まっていた。
そこに座っているようにしか見えなかった。
「この写真、俺にも送ってもらえますか?」
「どうしてですか?」
「警察が見落としているものがあるかもしれない」
警察より自分の方が詳しく調べられると思ったわけではない。
ただ、このまま何も見なかったことにして家へ帰る気にはなれなかった。
ユカはしばらく迷ったあと、写真とやり取りの内容を俺へ送った。
「ミナミ、見つかると思いますか?」
その質問には答えられなかった。
見つけると約束するのは無責任だ。
俺は警察でもなければ、探偵でもない。
「分かりません」
ユカの表情が暗くなった。
俺は続けた。
「でも、写真はもう一度確認します」
それが、俺にできるいちばん正直な答えだった。
ユカと別れたあとも、俺はしばらく駅前に立っていた。
スマートフォンに表示されたミナミの写真を、何度も拡大する。
ミナミが座った、噂の空席。
その隣にある、現実には誰も座っていない座席。
窓の中にだけ存在する、長い髪の人影。
撮影時の不具合かもしれない。
光の反射かもしれない。
人間の脳は、意味のない染みの中にも顔や人影を見つけ出す。
そういう現象には、名前もあったはずだ。
だから、大したことではない。
そう思いながらも、画面を閉じることができなかった。
写真のいちばん下。
ミナミの膝に置かれた鞄のそばに、白いものが見えた。
最初は、照明の反射だと思った。
拡大すると、指のように見えた。
細く、青白い指。
窓に映った黒い人影から伸び、そのまま現実のミナミの鞄の持ち手をつかんでいる。
俺は画面から指を離した。
見間違いだ。
画質が悪いから、そう見えるだけだ。
もう一度、拡大する。
指は、そのままそこにあった。
ミナミの鞄を、逃がさないようにつかんでいた。
その日、初めてこんな考えが浮かんだ。
ミナミがあの電車で見たものは、本当に人間だけだったのだろうか。




