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終電の空席

第4章――謝りましたよね


ヤミヨ駅の照明が、赤く明滅した。


階段の上では、数十もの顔が同時に笑っていた。


最初は、声ひとつしなかった。


ただ、口元だけがまったく同じ高さまで吊り上がった。


目が細くなり、頬が引きつり、唇がわずかに開く。


俺の知っている、ミナミの笑顔だった。


コンビニの休憩室で、廃棄予定のデザートを見つけたとき。


客のいない隙に、友達から届いたメッセージを読んだとき。


俺の大して面白くもない冗談に、気を遣って笑ってくれたとき。


あの顔が、数十も階段の上にぶら下がっていた。


だからこそ、恐ろしかった。


いっそ最初から怪物の顔をしていた方が、まだましだったかもしれない。


あれは、ミナミに似ているのではない。


ミナミの表情そのものを、借りているのだ。


「風見さん」


一番前にいたミナミが言った。


その声を聞いた瞬間、心臓が大きく沈んだ。


俺を呼ぶときの調子まで同じだった。


ミナミは仕事中、いつも俺を風見さんと呼んでいた。


急いでレジを代わってほしいときも。


重い箱を下ろしてほしいと頼むときも。


退勤するとき、先に失礼しますと挨拶するときも。


「風見さん」


今度は、線路の下から聞こえた。


振り向くと、線路の真ん中にミナミが立っていた。


いつ現れたのか、まるで分からなかった。


制服の上から、コンビニのエプロンを着けている。


エプロンは濡れていた。


布の端から、黒い水がぽたぽたと落ちている。


線路には電気が流れているはずなのに。


電車が通り過ぎたばかりなのに。


そんな考えは、すぐに消えた。


ミナミには、足がなかった。


スカートの下にあるはずの脚の代わりに、濡れた髪が一塊になって線路の上へ広がっていた。


髪は生き物のように蠢いている。


「どうして、今頃来たんですか?」


拗ねているような声だった。


黒いコートの男が、俺を庇うように前へ出た。


「答えるな」


「でも……」


「あれは、お前が捜している人間じゃない」


階段の上にいるミナミたちが、一斉に首を傾けた。


ごきっ。


首の折れる音がした。


さらに、もう少し。


ごきっ。


人間なら首がちぎれていてもおかしくない角度で、それでも顔は笑っていた。


「その人の言うこと、信じないでください」


右側のミナミが言った。


「その人、電車から風見さんを無理やり降ろしたじゃないですか」


「ミナミも、あそこにいたのに」


「置いていったじゃないですか」


「その人が」


数十の口が、順番に動いた。


「その人が、ミナミを捨てたんです」


俺は黒いコートの男を見た。


男は否定しなかった。


「さっき、電車にいたミナミは本物だったんですか?」


「分からない」


「分からない?」


「ここでは、見たい顔を見せられる」


「なら、本物だった可能性もあるってことじゃないですか」


「そうだ」


あまりにもあっさり認められて、かえって腹が立った。


「それなのに、あのまま降ろしたんですか?」


男は、闇の垂れ込める階段を見つめた。


「あそこに残っていたら、お前も今頃、あの顔の一つになっていた」


「それでも、確かめるべきだったでしょう」


「どうやって?」


「それは……」


答えられなかった。


触れてみれば?


名前を尋ねれば?


俺たちしか知らないことを聞けば?


どれも通用しない気がした。


あれらは、すでに俺の名前を知っている。


俺がミナミをどう記憶しているのかも知っている。


線路の下にいたミナミが、笑うのをやめた。


「風見さん」


今度は、とても小さな声だった。


泣くのを堪えているように震えていた。


「私、本物です」


髪が、線路脇の壁を這い上がってくる。


黒い水に濡れた手が、ホームの縁をつかんだ。


ミナミはゆっくりと身体を引き上げた。


爪がコンクリートを引っかく。


きいいっ。


「あの中で、ずっと待ってたんです」


俺は一歩、前へ出た。


黒いコートの男が腕を伸ばし、俺を遮った。


「近づくな」


「ミナミかどうか、確かめるだけです」


「確かめる方法はないと言ったはずだ」


「だからって、何もするなっていうんですか?」


思っていたよりも大きな声が、駅に響いた。


階段の上のミナミたちが、一斉に笑うのをやめた。


駅が静まり返った。


静かすぎて、自分の呼吸さえ他人のもののように聞こえた。


線路の下にいたミナミが、ホームへ上がってきた。


濡れた髪が脚のように、その身体を支えている。


ミナミは俺の目の前で止まった。


近くで見るほど、本物としか思えなかった。


左目の下にある、小さなほくろ。


仕事中、よく手で払っていた前髪。


寒いときや緊張したとき、下唇を内側へ噛む癖まで。


「風見さんは、悪くないです」


ミナミが言った。


俺は息を止めた。


「交代の人が遅れたのも、風見さんのせいじゃないし」


階段の上にいる別のミナミが、あとを継いだ。


「お客さんがお弁当を取り替えたことも」


「飲み物をこぼしたことも」


「ミナミが終電に乗ったことも」


「風見さんは、何も悪くないです」


声が四方から俺を取り囲んだ。


それは、俺が何度も自分へ言い聞かせていた言葉だった。


俺のせいじゃない。


何も知らなかった。


終電に乗れと言ったわけでもない。


ミナミを引き止めたのも、俺ではない。


だから、俺の責任じゃない。


そう思わなければ、耐えられなかった。


「やめろ」


俺は呟いた。


ミナミが悲しそうな顔をした。


「どうしてですか?」


「やめろって言ってるんだ」


「聞きたかった言葉じゃないんですか?」


さらに一歩、近づいてきた。


濡れた匂いがした。


雨に濡れた制服の匂い。


長いあいだ閉ざされていた地下室の匂い。


そこに、ごく微かにコンビニのコーヒーの匂いが混じっていた。


ミナミは深夜勤務のとき、眠気を覚ますために安い缶コーヒーをよく飲んでいた。


俺は、その匂いを知っていた。


それが、なおさら耐え難かった。


「店長に、あと二時間だけ残ってくれって言われたとき」


ミナミが言った。


「約束があるって言いましたよね?」


心臓が凍りついた。


「それは……」


「約束なんて、なかったじゃないですか」


ミナミが笑った。


そのことは、誰にも話していない。


店長にだけ嘘をついて、そのまま帰った。


その頃には、ミナミはもういなくなっていた。


知っているはずがなかった。


「そのまま家に帰ったじゃないですか」


別のミナミが言った。


「人が消えたのに」


「警察が来たのに」


「風見さんは、時間どおりに帰りました」


「違う」


声が勝手に漏れた。


「俺は、駅にも行った」


「行って、そのまま帰ったじゃないですか」


「あのときは、何をすればいいのか分からなかったんだ」


「本当に?」


目の前のミナミが首を傾けた。


「怖かったからじゃなくて?」


俺は答えられなかった。


駅前までは行った。


改札口を見つめた。


それでも、中には入らなかった。


警察がもう調べているはずだ。


俺が行ったところで、できることなどない。


そう考えて、引き返した。


間違った判断ではなかった。


あのときの俺は、ミナミが怪異の列車に連れ去られたなどとは思っていなかった。


それでも、心のどこかでは分かっていた。


俺は怖かったのだ。


何かおかしなものを見つけてしまいそうで。


そのあと、二度と平凡な日常には戻れなくなりそうで。


「風見さんは、ミナミを助けに来たんじゃないですよね」


彼女が囁いた。


「……」


「自分が悪い人間じゃないって、確かめに来たんでしょう?」


胸の真ん中を、指で押し込まれたようだった。


「ミナミを捜すふりでもしていれば」


「黙れ」


「逃げた人じゃなくなるから」


「黙れ」


俺は叫んだ。


声が駅の中に響いた。


返ってきたこだまさえ、俺の声ではなかった。


数十人のミナミが、同じ口調で真似をした。


「黙れ」


「黙れ」


「黙れ」


声は幾重にも重なり、やがて笑い声へ変わった。


目の前のミナミが、うつむいた。


髪が顔を覆い隠す。


「図星でした?」


その言い方まで、ミナミそのものだった。


客には絶対に使わないのに、少し親しくなった相手には、ときどき冗談めかして投げかける言い方。


俺は後ずさった。


脚にうまく力が入らなかった。


ミナミの言葉が、すべて嘘だとは言い切れなかった。


俺は、ミナミとそれほど親しかったわけではない。


一緒に働いて、たった三か月だった。


通っている学校も知らなかったし、家族の名前も知らなかった。


好きなアイドルも。


将来の夢も。


アルバイト代を何に使っているのかも。


俺が知っているのは、ミナミが苺味の新商品を好きだということ。


ミントチョコは歯磨き粉みたいだから嫌いだということ。


遅刻してくる夜勤のスタッフが嫌いなくせに、本人を前にすると強く怒れないこと。


その程度だった。


それでも俺は、ミナミを捜すためにここまで来た。


本当に、ミナミのためだったのか。


それとも、自分が耐えるためだったのか。


「大丈夫ですよ」


ミナミが顔を上げた。


今度は、涙を流していた。


「そんなに謝らなくてもいいんです」


冷たい手が、俺の手の甲に重ねられた。


「風見さんが、代わりに座ってくれれば」


息が詰まった。


「何だって?」


「一人だけ座ればいいんです」


ミナミの背後に、電車の座席が現れた。


ついさっきまで、ホームの真ん中には何もなかったはずなのに。


色あせた、赤い座席。


車両の端、窓際にあった、あの席だった。


座席の両端には、目のない乗客たちが座っていた。


全員が顔を正面へ向けたまま、微動だにしない。


真ん中の一席だけが、空いていた。


「風見さんが座れば」


ミナミが俺の手を引いた。


強い力ではなかった。


それでも、足が勝手に前へ進んだ。


「私、戻れるんです」


「それが……できるのか?」


問いが口から出た瞬間、黒いコートの男が罵声を上げた。


「答えるなと言ったはずだ!」


ミナミの笑みが深くなった。


「できますよ」


俺の手を握る指が、少しずつ伸びていく。


青白い指が、手首に巻きついた。


「ミナミは、まだ高校生です」


階段の上の顔たちが言った。


「家族も待ってるし」


「ユカも泣いてるし」


「これから生きる時間も、たくさんあります」


「風見さんより」


声が低くなった。


「風見さんより、ずっと」


空席が、俺の背後へ近づいてきた。


動く音はしなかった。


それなのに、ふくらはぎの裏へ座席の縁が触れた。


座るだけでいい。


本当に、俺が座ることでミナミが戻れるのなら。


ミナミは、まだ若い。


俺よりも、帰らなければならない理由がたくさんある。


家族が待つミナミと、俺は違う。


今すぐ俺が消えたところで……。


そこまで考えた瞬間、頭の中が止まった。


――俺が消えても。


その先を、考えたくなかった。


ミナミが囁いた。


「風見さんを待ってる人なんて、いないじゃないですか」


胸の奥へ隠していた考えを、そのまま読み上げるような声だった。


「だから、大丈夫ですよ」


膝が曲がった。


座席が近づく。


濡れた髪が、俺の腰と脚へ絡みついた。


黒いコートの男が、俺の肩をつかんだ。


「しっかりしろ」


「放してください」


俺は男の手を振り払った。


「ミナミが戻れるそうです」


「あれが、そう言っているだけだ」


「ほかに方法があるんですか?」


「ないからといって、あれの言葉が真実になるわけじゃない」


「それなら、あなたには何ができるんですか?」


声が震えた。


「あなたも、何一つ確かなことなんて知らないじゃないですか」


男は口を閉ざした。


その沈黙が、答えのように思えた。


ミナミが泣きながら、俺の手を両手で包んだ。


「私、怖かったんです」


その言葉に、身体が強張った。


さっきまで俺を責め立てていた声ではない。


幼い少女の声だった。


「電車にはたくさん人がいたのに、誰も助けてくれませんでした」


「……」


「話しかけても、誰も返事をしてくれなくて」


ミナミの手が震えている。


「隣で、誰かが息をしてたんです」


彼女は嗚咽を呑み込んだ。


「でも、見たら駄目な気がして……」


俺は、あのときミナミが目にした光景を知っているわけではなかった。


ユカに見せられた、最後のメッセージ。


写真に映っていた、青白い手。


目のない乗客たち。


それだけでも、ミナミがどれほど怖かったかは想像できた。


「ずっと、風見さんのことも考えてました」


ミナミが言った。


「どうして……俺を?」


「お店で最後に会った人だから」


声がひび割れた。


「もし私が帰ってこなかったら、捜しに来てくれるかなって」


胸が締めつけられた。


「でも、来てくれなかったじゃないですか」


俺は、とうとう目を逸らした。


「すまなかった」


言葉が、勝手にこぼれた。


黒いコートの男が顔を上げた。


「言うな!」


もう遅かった。


ミナミが泣き止んだ。


口元が、ゆっくりと吊り上がる。


「受け取りました」


「何を?」


「風見さんの謝罪です」


手首に巻きついていた指が、皮膚へ食い込んだ。


「だったら、責任を取らないと」


空席から、数十本もの手が飛び出した。


座席の隙間から。


背もたれから。


床の下から。


青白い手が俺の服と腕、腰をつかんだ。


身体が後ろへ引きずられる。


「放せ!」


俺はミナミの手を振り払った。


彼女の腕が、力なく折れ曲がった。


骨の折れる音がした。それでもミナミは笑っていた。


「謝りましたよね?」


座席が、すぐ後ろまで迫っていた。


「ミナミを助けたいんですよね?」


膝の裏を押された。


身体が後ろへ倒れる。


座らされる。


そう思った瞬間、黒いコートの男が動いた。


男はコートの裾を払い、すでに腰へ巻いていた古びた金属製の装置を露わにした。


固定具を押し込むと、重い施錠音が駅に響いた。


ガチャン。


中央の丸いガラスの内側で、黒い煙が立ちのぼる。


男は黒い札を取り出した。


その表面には、文字が刻まれていた。


無名。


ムメイ。


札が、装置の中央へ押し込まれる。


《PHANTOM DRIVER》


ひび割れた機械音声が響いた。


男がハンドルを引く。


《SYNC》


黒い煙が爆発するように、男の全身を呑み込んだ。


風が吹き荒れた。


濡れた髪とミナミのスカートが、一方向へ大きくなびいた。


俺は座席へ引きずられながらも、目を離せなかった。


男の身体へ、黒い金属が張りついていく。


服の上から鎧を纏っているようには見えなかった。


皮膚の下に隠れていた何かが、外へ押し出されてくるようだった。


黒い装甲板が、胸と腕を覆う。


その表面には、古びた墓石のような亀裂が走っていた。


顔の上で、仮面が閉じる。


口も鼻もない、漆黒の顔。


目のあるべき場所には、青い光が二筋だけ灯った。


装甲の隙間からは、黒い煙が絶えず流れ出している。


その姿を見ても、安堵は覚えなかった。


英雄には見えない。


人ではない何かが、さらに危険な何かを、無理やり押さえ込んでいるように見えた。


階段の上にいるミナミたちが、一斉に悲鳴を上げた。


「どうして、また来たの?」


「名前もないくせに!」


「今度は何を忘れに来たの!」


黒い鎧の男が、手を伸ばした。


先ほど電車の中で使った金属棒が、コートの内側から滑り出る。


男の手に収まった瞬間、それは長く展開した。


黒く、平たい刃。


名前が刻まれるべき場所だけが空白になった、墓標のような刀だった。


《無名》


再び、機械音声が響いた。


男が刀を振るった。


俺をつかんでいた手が、一斉に切断された。


血の代わりに、黒い紙片が噴き出した。


どの紙にも、同じ名前が書かれている。


南。


南。


南。


ミナミ。


数百枚の紙が床を覆った。


紙は一枚一枚、別々のミナミの声で泣き始めた。


「痛いです」


「風見さん」


「私です」


「どうして、また捨てるんですか?」


俺は身体を起こそうとした。


切り落とされた手が一本、まだ足首をつかんでいた。


指を引き剥がすと、皮膚ではなく、濡れた紙のように裂けた。


その内側では、さらに小さな指が何本も蠢いている。


俺は悲鳴を堪えながら、足で蹴り飛ばした。


黒い鎧の男が、ミナミの顔をしたものたちの中へ踏み込んだ。


刃が一度走るたび、顔も身体も紙片となって崩れ落ちる。


だが、倒れる数よりも、階段から下りてくる数の方が多かった。


制服姿のミナミ。


コンビニのエプロンを着けたミナミ。


写真と同じように、濡れた髪を垂らしたミナミ。


その顔たちが男へしがみつき、噛みついた。


装甲の表面で、黒い火花が散る。


「逃げろ!」


男が叫んだ。


「ミナミは?」


「ここにはいない!」


「どうして分かるんですか?」


「今、お前の前で泣いているものは、全部お前の記憶だ!」


床に倒れていたミナミの一人が、俺の足首をつかんだ。


今度は、目があった。


茶色い瞳。


涙に濡れた睫毛。


あまりにも普通で、かえってほかのものとは違って見えた。


「風見さん」


彼女は咳き込むように息を吐いた。


「私、本物です」


黒い刃が彼女へ向けられた。


俺は反射的に、ミナミの前へ立ち塞がった。


「待ってください!」


刃の切っ先が、俺の喉元で止まった。


青い光が、俺を見下ろす。


「どけ」


「本物かもしれないじゃないですか」


「違う」


「あなたも、見分けられないと言ったでしょう」


床のミナミが、俺の脚にしがみついた。


その手は温かかった。


これまで触れてきた手とは違う。


「助けてください」


彼女が言った。


「家に帰りたいんです」


俺は動けなかった。


家に帰りたい。


あまりにも当たり前の言葉だった。


偽物なら、もっと怪物じみたことを言うものだと思っていた。


不気味に笑うとか。


露骨に俺を騙そうとするとか。


それなのに、ミナミはただ泣いていた。


「お母さんが待ってるんです」


彼女の手が、俺の服を握りしめた。


「ユカも」


「……」


「私、まだやりたいことがたくさんあるんです」


うまく息ができなかった。


この顔が偽物である可能性はある。


けれど、刀で斬ったあとに本物だったと分かったら?


ミナミを捜しに来て、その俺のせいで死なせてしまったら?


「風見さん」


ミナミが俺を見上げた。


「さっき、謝りましたよね?」


「……」


「だったら、一度だけ信じてください」


手が、俺の太腿を這い上がってきた。


「あの人を止めてください」


口元が、わずかに開いた。


「それから、風見さんが代わりに座って」


温かかった手が、一瞬で冷たくなった。


指が異様な長さまで伸びる。


俺は身体を引こうとしたが、遅かった。


ミナミの口が、耳元まで裂けた。


舌の代わりに、数十枚の紙が口の中から溢れ出した。


一枚一枚に、俺の名前が書かれていた。


風見時雨。


カザミ・シグレ。


「名前をよこせ」


ミナミの口の中から、幾つもの声が重なって聞こえた。


「席をよこせ」


「記憶をよこせ」


黒い刃が、ミナミの頭を貫いた。


黒い紙が、爆発するように飛び散った。


俺は床へ倒れ込んだ。


「どうして……」


思わず声が漏れた。


男が刀を引き抜いた。


「あれらは、お前の記憶を着る」


仮面の向こうから、荒い呼吸音が聞こえた。


「お前が罪悪感を抱けば、許すと言う」


男は床の紙を踏みつけた。


「自分なんて死んでもいいと思えば、代わりに座れと言う」


紙の中のミナミたちが泣いた。


「風見さん」


「痛いです」


「本物だったのに」


男が俺の腕をつかみ、立たせた。


「聞くな」


「でも、今のは……」


「ミナミじゃない」


「もし、本物だったら?」


男はしばらく、俺を見つめていた。


黒い仮面に隠されて、表情は分からない。


「その問いに囚われたら、ここからは出られない」


正解ではなかった。


慰めですらなかった。


だからこそ、真実のように聞こえた。


階段の上にいたミナミたちが、手すりを越えて雪崩れ落ちてきた。


今度は歩いていない。


数十の身体が絡み合い、一つの塊となって転がり落ちてくる。


制服と腕、髪と顔が混ざり合っていた。


その内側から、ミナミの声が響く。


「風見さん」


「行かないで」


「また一人にしないで」


俺は両手で耳を塞いだ。


声は少しも小さくならなかった。


頭の中へ、直接響いてくる。


また一人にしないで。


また捨てないで。


また逃げるの。


男が俺の背中を押した。


「走れ」


「どこへ?」


男がホームの端を指差した。


さっきまではなかった鉄扉が、一つだけ見えた。


古びた標札が掛かっている。


遺失物保管室。


扉の下の隙間から、かすかな光が漏れていた。


その奥から、振動音が聞こえる。


ブッ。


ブッ。


スマートフォンが震える音だった。


聞き覚えのある振動の間隔だった。


コンビニの休憩室で、何度も耳にしたことがある。


ミナミのスマートフォンだ。


「あの中にいます」


気づけば、そう口にしていた。


黒い鎧の男が、俺の腕をつかんだ。


「スマートフォンだけかもしれない」


「それでも、行かないと」


「罠かもしれないぞ」


「ここに残るよりはましでしょう」


男は答えなかった。


背後から、ミナミたちが這ってくる音が聞こえた。


爪がコンクリートを引っかく。


数十の声が、同時に囁いた。


「風見さん」


「電話、出ないと」


「ミナミが待ってますよ」


鉄扉の奥で、再びスマートフォンが震えた。


ブッ。


ブッ。


そして、ごくかすかに。


涙に濡れたミナミの声が聞こえた。


「風見さん……」


俺は鉄扉へ向かって走った。


その声が本物か偽物か、分からなかった。


それでも、今度は足を止めなかった。


黒い鎧の男が背後を守り、刀を振るった。


黒い紙片が、雨のように降り注ぐ。


俺は鉄扉の取っ手をつかんだ。


氷のように冷たかった。


取っ手を回そうとした、その瞬間。


扉の向こうで、ミナミが囁いた。


「今度は、間に合いましたね」


俺が開けるより先に、鉄扉が内側から開いた。

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