第七十八話
竜也は、微かに聞こえる『ある音』で眼を覚ました。妙に懐かしさを感じさせる音だったが、意識を取り戻したばかりの頭はまだ機能しておらず、何の音だか判別できないでいた。
ボーっとした視界もまだぼやけたままで、天井の様子がハッキリと見て取れない。
口の中は、からからに乾ききっていて、喉がひりついていた。唇が乾燥しすぎてひび割れているのかヒリヒリと痛い。余計に悪化すると分かっていても、唇を舐めて潤いを与えようとしてしまう。しかし舌も乾ききっているのか、一時的に潤いを与える事すら出来なかった。
身体も、まるで何ヶ月ものあいだ寝たきりで過ごしていたかのように動かなかった。気怠さに辟易しつつ、ゆっくりと身体を動かそうとする。身体の節々が軋んだ。
その激痛に悲鳴を上げようとしたが、ひりついた喉からは声が出なかった。声帯が声を出す機能を忘れてしまっているかの様だった。
それどころか呼吸すら数ヶ月ぶりに再開したかの如く、肺が空気を吸い込む事を受け付けなかった。まるで劣化してボロボロになった風船に空気を入れていくような、危うい肺の様子に咳き込む事も躊躇われる。
しばらく胸を押さえて安静を図る。呼吸が落ち着いて来たので、なんとか起き上がる。軋む節々を撫で摩りながら音源を見つめる。ぼやけた眼が徐々に焦点を合わせていく。その眼が驚愕に見開かれた。
ベッド上方部のヘッドボードに置いてある物は、アンティークな目覚まし時計だった。
秒針が時を刻む音がやけに大きく響くアナログ式の置時計を、眼を皿のようにして見やる。間違いが無い。この置時計は、お気に入りの目覚まし時計だった。
竜也は、茫然と部屋の様子を眺め回した。ここは、現実世界の自分の部屋だった。白を基調とした室内の様子は、ベッドに勉強机、パソコンラック、本棚と簡素な部屋模様だ。
パソコンラックの横に置いてあるフルフェイスのヘルメット型ゲーム端末機を郷愁に似た思いで眺める。
霧がかかったように朦朧としていた意識が徐々に晴れていき、異世界で過ごしていた二十四日間の記憶が、鮮明に思い出されてきた。
帰って来られたのだ。という思いよりも、帰って来てしまった。という思いの方が強かった。
ヘッドボードの所定の位置に置いてあるスマートフォンを取り上げる。充電アダプターは差しっぱなしだったので電源は生きていた。
素早くカレンダーを表示させる。此方の世界では、一ヶ月半もの月日が流れていた。頭をハンマーで殴られたような衝撃を受ける。
メールの着信履歴を開く。一ヶ月半前のニルヴァーナ・オンラインのサービス開始直前に受けた今日子からのメールの後に、学校のクラスの友人から大量のメールが送られて来ていた。
そのメールを古い順に開けていく。突如として行方をくらませた自分に対して、世間でどう騒がれているのかが詳細に記されていた。
自分と一緒に今日子も居なくなった事から、駆け落ちしたのではないかという噂や、義明も居なくなっている事から、三角関係のもつれから何らかの事件に発展したのでは? という噂が、いろいろ流れているらしかった。
心配してくれている者もいれば、野次馬的な者など様々だ。
竜也は、思い切って今日子に電話を掛けてみる。電話に出る様子が無い。現在の時刻は、朝の五時なので寝ているのかもしれなかった。
いや、自分と同じように失踪しているのであれば、考えられる事は一つだ。異世界に転移した可能性が高い。
次に義明に電話を掛けてみる。『お客様がお掛けになった番号は、電波の届かない場所に居られるか、電源が入っていないため掛かりません』と返って来る。
充電切れが予想された。今日子は、家に居る時は、常時充電を心掛けていたが、義明はいつも何処ぞに放置気味にしているのだ。だからと言って、流石に充電切れまで放置はしない。義明も異世界に転移した可能性が高かった。
身体が徐々に動かせるようになってきたので、ベッドから下りてみる。先程の身体の不調が嘘のように、しっかりした足取りで部屋の中央に立てた。しっかりし過ぎていた。若干膝を曲げ気味に立つ姿は、ドリーヌに習った自然体だった。
しっかりしているのは、足腰だけでは無かった。腕も若干太くなっている。自分の身体を撫で摩りながら身体の異変をチェックしていく。
胸板も一ヶ月半前より分厚くなっている。腹筋も薄らとだが割れていた。脇腹にジャイアント・スパイダーの鉤爪にやられて、自分で縫った傷痕まで見て取れた。
その様子にちょっと戸惑う。五感だけというか、魂だけがゲームのアバターを借りて異世界に跳んだ訳では無いという事になる。
しかしエレーナに召喚された時の格好は、茶色の皮の服に皮のズボン、青銅の片手剣を佩いた出で立ちだったのだ。
エレーナに召喚された直後から感じている妙な違和感が、ここにも垣間見えた。
自分が異世界で死んだ事は覚えていた。左の肩口から胸の半ばまでを、三日月刀で袈裟斬りにされたのだ。しかし、その傷痕は見当たらなかった。
いくら考えても、その答えは見付けられそうになかった。どれだけ考えても見つけられない答えだと見切りを付ける。
それよりもエレーナが心配だった。あの後……。自分が死んだ後の戦闘はどうなっているのか? 果たしてエレーナは無事なのだろうか? 掘削作業の進捗状況はどうなっているのか? 魔界側に閉じ込められている者は大丈夫なのか? ミューレ山脈へ進軍したとみられるウリシュラ帝国軍はどうなっているのか?
心配事は山ほどあった。
竜也は、フルフェイスのヘルメット型ゲーム端末機を見やる。
エレーナが心配だった。会いたかった。
もう一度ゲームにログインして、異世界に飛べる可能性というものを考えてみる。考えるまでも無かった。
とりあえずゲームにログインしてみて、異世界に行けなかったら、また考えれば良いだけの事だ。
すぐにでもゲームにログインしたかったが、逸る気持ちを押さえ込んで、まずは情報収集をする事にする。
パソコンを立ち上げ、ニルヴァーナ・オンラインの公式サイトへ飛んでみる。その他にも色々と検索して調べてみる。自分と同じ境遇にあった者が居ないか確認を取る為だった。
ゲームに酷似した異世界に召喚されたのだから、このゲームが関連している事は間違いが無いだろう。
ゲーム中に失踪したという情報は見当たらない。ロベリアに聞いた話では、今までに使い魔として召喚された人間は、自分一人だと言っていた。コスタクルタ王国に、ゲーム内から迷い込んだような人物が居るとも聞いていなかった。
お手上げかなと、諦めかけた時だった。サトシ・コスタクルタというタグで、妙な物を発見した。
それは、最近開設されたオンライン小説サイトに書かれている作品で、あるゲームのベータテスト時に結成されたクランコミュニティと呼ばれるサークルのようなメンバーの仲間十八人が、ゲーム内でレイドパーティーを組んでいる最中に、暴虐非道な召喚者によって異世界に召喚されるという物語だった。
神様によってチート能力を貰った者達が、俺TUEEEEする話だ。
話の内容は、潰れかけの弱小国の召喚者にこき使われるが、反旗を翻してその国を潰し、自分達で国を作ろうとする物語を描いた物だった。
ゲームタイトルや、その中の国名はモジられていたが、神様の名前がララエルと決定的だった。
これはニルヴァーナ・オンラインのベータテスト時の本当にあった話をリメイクして作られたものだと断定する。
ここに書かれている情報で気になる事は、異世界で死んだ人間が元の此方の世界に帰って来ているのだが、時間軸が大幅にずれているという事だった。
最初に命を落とした者は、異世界に召喚されてから三日後に死んでいるのだが、現実世界に帰って来たら一ヶ月が経過していたという。
次に死亡した者は召喚されてから四日後なのだが、現実世界に帰って来たのは、召喚されてからたったの十分しか経過していなかったというのだ。
現在、異世界で最後に死んだと思われる人物で、此方の世界に帰って来ている者の言葉では、自分が死ぬまでに十人にも及ぶクランコミュニティのメンバーが死んでいる筈だと言っているのだが、現実世界に帰って来ている者は四人しかいないのだ。
死んでいった順番と帰って来た順番が、ごちゃごちゃに入り混じっている事から、帰って来ていないメンバー達は、相当かけ離れた時間軸に放り出されたのではないかと予測している様だった。
どうでも良いが、この小説サイトに三人称で執筆しているとは珍しい。というか視点がコロコロ変わって感情移入できない。視点移動のタブーというものを知らずに書いているのだろうか?
まぁ、素人の書いた文章だから仕方が無い。他に有用な情報が無いと分かるとフォローして、お愛想で星をくれてやってからサイトを閉じた。
いよいよゲームにログインしてみる事にする。パソコン本体のゲームを立ち上げ、フルフェイスのヘルメット型ゲーム端末機の頭頂部にUSBケーブルを繋いで被り、あご紐を留めてベッドに横になる。
遮光シールドを落とすと、透明だったシールドが暗転する。ゲームタイトルのロゴが浮かび上がり、遥か彼方へフェードアウトしていく様子を緊張の面持ちで眺める。
色々なチェック項目が赤から緑へものすごい勢いで流れるように変わっていく。オールグリーンになると、視界は真っ白に染め上げられた。その眩しさに眼を瞑る。
一瞬の酩酊感の後、竜也はゲームの世界へ旅立って行った。




